「異文化ビジネス」の奥底には、普段の日本社会や日本企業で全く話題に挙がらないユニークな商習慣や戦略思考が隠されています。
ここにご紹介する馬国人ビジネス集団(特に華人が動かしている集団)の知恵は私たち海外移住者(あるいはその希望者)にとって大変参考になるものです。
ある事情から、筆者は、馬国の天才社長が率いる商集団の中で2年間のビジネス修行を体験しました。
この記事はその体験談の本編です。
ご紹介する内容のポイント
■ 馬国の商習慣(特に華人の知恵を反映したもの)に秘訣あり
■ 20人で20億円売り上げる商集団の原動力がを学ぶ
■ 馬国にも天才ビジネスマンがいる。その知恵とノウハウを学ぶ
華人の天才ビジネスマン
筆者が自営業に失敗して四面楚歌になる瞬間を待っていた馬国人社長・・・
この人物は20名規模の電材(※)の専門商社の社長で、名をビンセント(仮名。通称BY)といいます。当時40歳代後半の華僑の起業家。
商社といっても産業系の電子機器に特化していましたので、商社というよりは、電材のディストリビューター(問屋)として馬国内外で知られた存在でした。
当時の彼の会社の年商は2千万ドル(20億円)以上、個人資産は4億円。
親から事業を引き継いだのではなく、ひとりで「スクラッチから」会社を起こして躍進してきていました。筆者から見れば間違いなく「天才起業家」です。
※ここでいう「電材」とは家電製品やITなどの電子部品ではなく、産業プラントや工場設備などで使う重工業用の電子機器のことを言います。
不思議な縁があって、筆者はこの馬国人に雇われ、2年間徹底したビジネス指導を受けることになったのです。
使う人間・使われる人間
2004年の夏に彼から電話があり、話をしたいというので、ビンセントが陣取るKL郊外の事務所兼倉庫を訪問した日の出来事。
彼は筆者の事業がどうなったか身を乗り出すように聞いてきました。
当時BYとは取引が無く、何の利害も無いので、筆者は「取り組んでいた仕事で失敗」して負債しか残らなかったと説明。
その話を受けて、ビンセントが提案してきたのは次のとおりでした。
■ 自営業は止めてこの会社で働いてくれ
■ 働くならあなたの「負債」は肩代わりするので忘れてよい
■ 毎日この事務所に来て打ち合わせに参加してほしい
源泉徴収(withholding tax)後の月額報酬は当時の筆者としては、文句のないレベル。
業績によっては年末に賞与も出すという話でした。
事業に失敗して疲弊していた筆者にとっては、数十万リンギットに達していた負債が帳消しになると同時に毎月の収入を保証するという条件は千載一遇でした。
筆者は、従前からこのBYという天才社長をを電材の取引で「使おう」と考えていましたが、逆に「自分が使われる立場になる」とは夢にも思っていませんでした。
でも、何故・・・
「何故私を助けるのか」の質問に対するビンセントの答えは明確でした
■ あなたが所属していた日本企業と取引をしたいが、壁が厚い
■ この日本の企業が電材を買い付ける戦略や仕組みを知りたい
■ 合わせて、日系顧客の攻略法について徹底した議論がしたい
これだけです。
当時ビンセントは日本の重電メーカーやエンジニアリング企業から多数注文を受けていたのですが筆者が以前所属していた企業からは殆ど受注できていませんでした。このことは彼の商人としてのプライドを傷つけていたようです。
そこで筆者が知っているはずのこの企業の内部を徹底的に調べたかったわけです。
筆者が退職したのは入社18年目、41歳の年です。経営戦略などの起業秘密を熟知できる年齢ではありません。(日本の企業文化では、仕事量を熟すだけで精一杯の時期)
また、彼が直面していた取引上の障壁というのは、全く単純な話でした。(それは別の記事でお話します)
従って筆者が企業の取引戦略を説明したところで、役に立つとは思えませんでしたが、ビンセントにとっては重大な問題だったのです。(彼の会社は日本の企業群からの受注案件を積み上げて躍進してきたというのが経緯。)
何はともあれ、筆者はビンセントの要求を飲んで、彼が率いる20名前後の商集団に加わることにしました。
就業が修行に変る
BYの会社の内部に身を置いてみると、外からは全く見えなかった新鮮な商習慣の世界が目の前に広がっていました。
それからの2年間は、単なる就業経験ではなく文字通り「修行」でした。
それまで自分が「知っている」と思っていた自己流の「商売」は、あらゆる面で不完全かつ不合理だということを痛感したのです。
しかし、多くの学びをひとつの記事にすることは出来ません。
以下は、2004年から2006年までの就業中にBY社長から学んだ中小企業としてのノウハウです。読んで楽しめるように「出来事」として紹介しています。
リンクのあるものは既に記事があります。それ以外は執筆中ですが2023年8月中には全て投稿を終える予定です。(項目は若干増減します。ご了承ください。)
社内:仕事仲間としての作法・処世術
■ 雇用:紙切れが仕事を助けてくれるか?お前は紙に従うのか?
■ 対話:知っていることを全部話せ!(隠すな)
■ 社内:会社の雰囲気は社長の人格
■ 部下:日本人社員(女性)を雇え!
社外:客先との駆け引き
■ 客先とのミーテイングの鉄則:(全部曝け出すな!)
■ 出張時の面談は1日4社(会食は必ず!)
■ 価格・品質競争だけが営業ではない(スペック・イン)
■ 交際費を惜しむな:徹底した社交と懇親
■ 客先の有識者を雇い入れる
公務:ライセンス・財務・税務
■ 官庁要人の家族が会社の一員
■ 社長夫人は公認会計士
■ 天才商人の日本支店
協業:電材メーカーの代理店として生き延びる
■ ワン・ストップ戦略の強みを生かす
■ トップ・エージェントの国際コニュニティーの一員になる
天才であるが故の苦悩
筆者がビンセントから学んだ内容は上記の項目にリンクを貼って詳細記事としてアップしていますのでご参照下さい。項目によっては、ピンと来ないものもあろうかと思います。筆者の文章力の限界です。ご容赦下さい。
また、これらが常に日本の起業家にとってベストなビジネス戦略だとは言い切れません。業界や業種によって取捨選択があるはずですし、中心になる人の個性にもよります。
それでも、読者の皆さんに幾ばくかの参考になる記事が残れば幸甚です。
さて、
このテーマの本編を終える前に、この天才社長の苦悩について触れておきます。
筆者が約2年間 BYのもとで飛び回ってきた末に、筆者と BYとは、ある意味では共同経営者のような関係になっていました。
無論、筆者は彼の会社の株主ではないし、法的な代表権もないので、雇われ外人に過ぎないのですが、BY は日本の起業との取引については常に筆者の意見や考えを聞くようになっていました。
日本人と華僑との信頼関係を確かに確立できた瞬間でした。
2005年のある日、彼(ビンセント:仮名)は筆者に驚くべき提案をしてきます。
「自分の資産の半分を渡しても良い。この会社を引き継いでくれないか?」
・・・
筆者は丁重に断りました。何故ならこの天才社長が、社長であるが故に苦しまなければならない「負の側面」をつぶさに見聞きしていたからです。
ビンセントは常に、経済的に困窮していた親類縁者から支援を求められていました。返済される目途のない債権は沢山あったようです。
また、馬国の製造業を買収した事が発端で買収先の起業と訴訟になり、出廷して利害を争っていたのです。
従来のように飛び回って何社もの顧客や関係会社と交渉するような仕事にも疲れ果てていましたし、彼が全面的に信頼できる腹心も見つからないようでした。
力のある有望な社員が独立して出ていくということもありました。
何より、彼には家族と過ごす時間が無かった。
天才起業家のBY社長が抱えきれない仕事を筆者が出来るわけがありません。
・・・
年商数十億円、個人資産数億円の人物が目の前で苦しんでいるのを見ると、「いったい人生とは何なのか」とつくづく考えさせられます。
ビジネスの天才と呼ばれたビンセントも、その日々は頭の痛いことばかりで、早くビジネスから身を引きたいというのが本音のようでした。
「正負の法則」です。人間は全てがプラスというようにはいきません。幸運があれば、それと同等の不運が来ます。彼の人生は見た目は大成功であってもその裏側には常人が受ける苦悩を上回る痛みを抱えていたのです。
筆者も、この天才ビジネスマンの集団から離れる時期が来ていると感じました。
その頃、筆者は頻繁に日本に飛んで日本の客筋と合って商談を繰り返していました。日本に出張所まで置いて泊まり込んで営業していたのです。
そして、今度は1999年まで所属していた元の企業の幹部から驚くべき依頼を受けます。
「社員待遇で雇用するから戻ってくれ」
と頼まれたのです。
2006年の春です。
その後の話は、また別の記事でお話します。
長い記事でしたが、最後まで読んでいただき、誠に有難うございます。