この記事は、本編【MM2H体験】の関連記事です。馬国の「おすすめ情報」まとめ記事はこちらです。
前回に続いて19世紀に形になったクアラルンプールのお話、その2回目です。
19世紀に入る前にマレー半島に何があったかについては、概略以下のとおりです。「おすすめ情報」としても記事もありますので、リンクを貼っておきます。
- 1400年代前半、マラッカ王国勃興と中国(明朝)との交易開始
- 1511年、ポルトガルがマラッカを占領(マレー半島の植民地化の始まり)
- 1641年、マラッカはオランダ領となる
- 1786年、英国の東インド会社がケダ王国のスルタンからペナン島を租借
- 1819年、英国のラッフルズの活躍でシンガポール条約を締結(商業権)
- 1824年、英蘭条約によって、マラッカはイギリスに割譲
そして、1826年にイギリスはペナン、マラッカ、シンガポールの3つの植民地を統合して、海峡植民地を成立させました。
18世紀末までのマレー半島の歴史において、「セランゴール」や「クアラルンプール」という地名は登場したでしょうか?
登場はしていますが、あまり異文化が混ざっていない、全くのマレー社会をオランダの商館が相手にしていた程度だったようです。(後述)
では、何故19世紀にセランゴールとクアラルンプールが歴史の中心に躍り出たのか?
錫(すず)の産出がセランゴール地区の発展に繋がった
答えは、鉱工業、中でも錫(すず, Tin )です。
この地域の19世紀の文献や解説を読むと、必ず Tin Mining (錫工業)が出てきます。
筆者はこれを「錫鉱山」とは呼びません。山ではないんです。ちょっとした起伏のある土地や、スロープでも錫が取れたんです。そういう意味では恵まれた土地だったと言えます。
錫工業を中心に盛り上がってきたセランゴール地区には、ご当地のスルタンとなった(ブギス族やスマトラの)マレー人、中国からの移民(商人と作業員)が増えます。
それをヒエラルキーの上層から管理監督していたのが、海峡植民地全体を俯瞰していた大英帝国と、シンガポールで成り上がった華僑の商人や政治家です。(当時の政治家は、基本的には豪商であった)
「クアラルンプールを作った華人リーダー」と呼ばれた「葉亜來」(Yap Ah Loy)さえも、このトップクラスの管理者の配下で生きていたのです。
では、19世紀の海峡植民地全体を俯瞰していた華僑はどんな動きをしていたのでしょうか?
19世紀のマレー半島の頂点にいた華僑
一例をお話します。
「陳金鐘」Tan Kim Ching (1829-892) は19世紀のシンガポールの華僑政治家です。彼の生涯を wikipedia で調べると、英語版では長文の解説がありますが、日本語、マレー語、そして中国語の解説文は存在しません。
ところが、彼こそはシンガポールで最も成功した商人であり、海峡植民地当時のシンガポールで指折りの資産家だったのです。博愛主義者であったという記述もあります。(病院を建てたりして社会奉仕をしたという史実)
He was one of Singapore’s leading Chinese merchants and was one of its richest men in Singapore at that time.
wikipedia “Tan Kim Ching”
1864年、彼はシンガポール史上初めて、華僑として陪審員に選出されました。これは、華僑がシンガポール社会において重要な役割を果たし始めたことを示す重要な出来事でした。
1865年、彼はイギリス海峡植民地政府によって治安判事に任命されました。これは、彼がイギリス政府から信頼されていたことを示しています。
1888年、彼は市議に任命されました。これは、彼がシンガポールの政治に積極的に参加していたことを示しています。
晩年は奴隷を所有していたとして訴追されましたが、不起訴となりました。これは、当時のシンガポール社会において奴隷制がまだ存在していたことを示しています。
出典:Wikipedia “Tan Kim Ching”
なぜ、この人物について中国語のwikipedia が存在しないかというと、おそらく、この人の政治家としての成功は、中国の支配層の影響範囲を超えて、列強である大英帝国の官僚と同レベルの待遇を得るまでになったため、もはや「中国の歴史」とは一線を引いた存在となったのかもしれません。恐ろしい存在です。
海峡植民地スケールの商業戦略とは?
Tan Kim Chingあたりの華僑の豪族が、英国政府と渡り合って管理していたマレー半島の商工業の仕組みは、ある政治的モデルに基づいていたと言われています。
前述のような巨大資本を持った華僑は、マレーシアのみならず、シンガポール、タイ、ベトナム、香港を取引範囲としていました。
彼らの「強み」は当然ながら「財力」と「資本」です。
この強みを使ってマレー半島で運用された「商業支配」のモデルは、Chinese Syndicate である「秘密結社」だったと言われています。
特に、アジア地区で力のあったGhee Hin (義興公司)という資本支配グループと、マレー半島内部で力があったHai San (海山)というグループは、東南アジアやマレーシアの歴史書にもしっかりと記録されている「非政府系の支配構造」でした。(反政府でなく非政府です)
セランゴール地区の錫工業などの産業の資本金や、当時「クーリー」と呼ばれた中国人作業員の動員と提供は、こういった秘密結社のタテのつながりを使って、海峡レベルの華僑のような豪族が手金を出して、養っていたのです。
この事実を知っていると、セランゴールやクアラルンプールの19世紀の史実がより鮮明になってきます。そうでなければ、「葉亜來」のような無学の移民青年が簡単に鉱工業を発展させて、街づくりまでやってのけることなど、出来ません。
秘密結社についての史実はたいへん興味深いので、この後の記事でじっくりお話しさせていただきます。
次回は、この背景を前提に「葉亜來」(Yap Ah Loy) の人生を辿っていきましょう。
参考 14~18世紀のセランゴール皇族
セランゴールの一部は、14世紀ころ、「クラン」と呼ばれ、ジャワ島の「マジャパヒト王国」に隷属していたのですが、15世紀に、マラッカの政治家が首長に任じられ、スルタンのマンスール・シャーの王子がランガット(Langat)に近いジェラム(Jeram)を統治しました。一方、オランダ人は、錫の購入を目的として、クアラ・スランゴールとクアラ・リンギ(Kuala Linggi)に商館を開いていました。
1718年、ジョホールの王女を娶った皇族がクアラ・スランゴールに移住し、その子の「サレハディン」という人物がペラのスルターンによってセランゴールのスルタンとして認められて以降、その子孫がスルタンの位を継承することとなったということです。
中国人(華人)の指導者がクアラルンプールで認知されたのは19世紀ですから、それまでは、オランダ領マレー社会だったわけです。
参考まで、クアラルンプールの華人リーダーの略歴をリストします。
- 1858年-1861年 邱秀(Hiu Siew)=秘密結社影響下の「初代リーダー」
- 1862年-1868年 劉壬光(Liu Ngim Kong)
- 1868年-1885年 葉亞來(Yap Ah Loy )
- 1885年-1889年 葉亞石(Yap Ah Shak )
- 1889年-1902年 葉觀盛(Yap Kwan Seng)
最後の3名(葉亞來、葉亞石、葉觀盛)こそは、マハティール前首相に「この3名の華人の名前なくしてクアラルンプールは語れない」と言わしめた人たちです。
最後まで参照いただき、ありがとうございます。
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今回の記事の内容と関係がある「パンコール条約」の説明は以下の記事を参照ください。セランゴール地区を超えたマレーシア全体のイギリス統治がどのような経緯で強化されたか? あるいは、中国人の秘密結社はどんなことをしていたかがわかる記事です。