【MM2H体験】おすすめ探訪(40)マラッカ(前半)

MM2H

この記事は、本編【MM2H体験】の詳細記事です。「おすすめ」のまとめ記事はこちらです。

筆者が企業の一員としてマラッカの建設現場に従事していた頃、この地の歴史を紹介してくれた人はいませんでした。

一度だけ移動中の車の中で、「ここが有名な中国人墓地だよ」と現地の知り合いから教えられて、「あ そう」と答えながら運転していた筆者は、半分落ちぶれたような中華系の墓地にこれといった興味も持てませんでした。

当時は毎日が仕事で忙しく、マラッカ観光どころではなかったのです。当時の筆者は、ある意味で企業の奴隷だったようです。自分が情けないです。

調べてみると、マラッカには実に奥深い歴史があります。

観光は「歴史の探訪」でもあると思います。これまでペナン島、シンガポールと歴史を調べてきて、日本のメデイアや日本語版のウィキペディアの解説が、必ずしも充分な一時情報を拾っていないことに気づきました。

マラッカ観光の情報はネットにあふれています。でも、深い歴史観を伝える情報サイトは意外と少ないようです。

知っていると、知らないとでは、マラッカ観光は全く違ったものになります。

話が長いので前半と後半に分けます。ポルトガルの侵略以降が後半です。

15世紀:「マラッカ王国」の発祥

マラッカの国づくりを始めたのは、パレンバン方面から移住してきた「パラメシュワラ王子」(別名イスカンダル・シャー)です。

この人物は1402年頃にマラッカにたどり着きました。経緯は次のとおり。

パラメシュワラは、現在のシンガポールを統治していたのですが、他国からの圧力に屈して、北へ避れてきていました。ムアル、ウジョン・タナ、ビアワック・ブスクを経由して、ベルタム川(現在のマラッカ川)の河口にある漁村に到達したのです。

この村には、マジャパヒット軍の攻撃を受けずに、放置された現地人である「オラン・ラウト」(海の住民、海人)が居住していました。戦乱を逃れていたので、ある程度安全な避難所となり、1370年代に「マジャパヒット帝国」の攻撃から逃れてきた多くの難民を受け入れるようになっていました。

ちょっとした難民キャンプになっていたのです。

バラメシュワラ=イスカンダル・シャー(初代スルタン) wikipedia

1400年代初頭に、パラメシュワラがマラッカに到達したとき、この場所はすでに北からの仏教徒、パレンバンからのヒンドゥー教徒、パサイからのムスリムを含む多様な文化が共存する場所でした。

これが、イスカンダル・シャー(初代スルタン)を筆頭とするマラッカ王国の発祥です。

マラッカという地名の来歴

伝説によれば、パラメシュワラがマラッカの木の下で休んでいるときに、モーシア鹿(マウスディア)が狩猟犬を水に駆り込む様子を目撃しました。

彼はこれを幸運の兆しと考え、「この場所は優れている。モーシア鹿さえも抑止力になっておる。この地に王国を築くのが良かろう」と述べたと言います。彼はこの予兆の出来事を目撃した「木」にちなんで、この入植地に名前を付けたと言われています。

今日、モーシア鹿は現代のマラッカの紋章 (coat of arms) の一部です。「マラッカ」は、果実をつけるマラッカの木(マレー語:Pokok Melaka)から派生したもので、学術的にはPhyllanthus emblicaという名前が付けられています。

License Free Image : マラッカの紋章 from wikipedia “Malacca” 

別の伝承によれば、スルタン・ムハンマド・シャー(在位:1424年-1444年)の統治時に、アラビアの商人がこの王国を「マラカット」(商人の集まりを意味するアラビア語)と呼んだのが来歴とされています。この地に多くの商業コミュニティが存在したためです。

中国「明朝」との遭遇

マラッカに新しい都市を建設した後、パラメシュワラは貿易港の基盤を築きました。マラッカ海峡の先住民であるオラン・ラウトは、隣接する海域を巡回し、小規模な海賊を撃退しながら、商船だけをマラッカに誘導するために雇われました。

数年のうちに、マラッカが貿易と商業の中心地となりつつあるとの情報が東洋に広まり始めるます。

1405年には、中国の「明朝」の永楽帝(在位:1402年-1424年)の名により、伝説の提督「鄭和」(ていわ・1371生-1434没)が大船団を率いてマラッカを訪問します。

sourses : wikipedia “鄭和”

1405年7月11日、当時34歳の鄭和は永楽帝より諸国への航海と南海船団の指揮をとることを命じられ、その年の年末に第1次航海へと出発しています。『明史』によればその航海は下西洋(西洋下り)と呼ばれ、船団は、全長131m余の大船62隻、乗組員総数2万7800名余りからなる大艦隊です。パラメシュワラから見れば圧倒的な船団です。

この航海により、それまで明と交流がなかった東南アジア諸国が続々と明へと朝貢へやってくるようになった。中でも朝貢に積極的だったのが、パラメシュワラ治下で建国間もないマラッカ王国でした。マラッカはこの後も鄭和の艦隊がやってくるたびに朝貢を行い、北のアユタヤ王朝の南進をうまく阻んだのです。

事実、提督「鄭和(ていわ)」の船団のプレゼンスが抑止力になり、従前マラッカに圧力をかけていたシャム王国はマラッカを侵略することができなくなります。

鄭和(ていわ)」の船団の模型 wikipedia “鄭和” これが60隻以上来航した。

中国の商人たちはマラッカに貿易拠点を開拓しました。アラブ人、インド人、ペルシャ人など他国の商人もマラッカに商業拠点を築き、結果として、人口は2000人に急増しています。

中国の関与はマラッカが重要な港湾拠点に成長するために不可欠でした。

マラッカは正式に明朝の保護国として服属することになります。そして、マラッカは中国とインド、中東、アフリカ、ヨーロッパの貿易の拠点として発展します。

「明朝」とマラッカ王国の外交的伝承

1411年、パラメシュワラは540人から成る王室の一団を率いて、「鄭和」提督と共に明の宮廷を訪れています。

1414年には、明代史録(明史)によれば、マラッカの初代統治者の息子が永楽帝に父(パラメシュワラ)の死を知らせるために明の宮廷を訪れたと記録されています。

マラッカの発展は、北方のアユタヤの勢力拡大と同時期に起こりました。アユタヤ王国のマレー半島に対する野心は、脅威でした。

マラッカの君主は予防措置として、1418年に国王は中国を訪問し、脅威についての懸念を表明。永楽帝は1419年10月に自国の使者を派遣してシャムの統治者に警告しています。

マラッカ側は、1420年、1421年、1423年に主君の王子たちともなって中国を訪問しています。これにより、マラッカは経済的にも外交的にも強化されたと言えます。

中国への訪問は、1424年から1433年の第3代の統治者であるラジャ・テンガの時代にも2度行われています。

1430年代に、中国は海洋拡張政策を転換しました。しかし、その時点でマラッカは軍事的に自衛するだけの力を持っていました。

中国は友好関係を継続し、マラッカを高く評価しました。実際、多くの諸外国を属国と見なす中国の慣行にもかかわらず、イタリアやポルトガルを含む国々と同様に、マラッカとの関係は「互いの尊重と友情」という表現で特徴づけられ、対等な主権国家同士でした。

「マレー年代記」によれば、明朝の皇帝の娘とされる「漢麗寶」(Hang Li Po) は、したSultan Manshur Shah (1456年から1477年まで統治)と結婚するために、500人の付き人とともにマラッカに移住しています。マラッカ関係を強化するための外交施策でした。彼女の付き人も現地の人々と結婚し、ほとんどがブキット・チナ(Bukit Cina) に定住したとされています。

この伝記には懐疑論がありますが、マレーシアへの文化移植の起源として重要視されています。

イスラムの伝来

1424年から1433年のラジャ・テンガ王の時代に、ウラマー(イスラム法学者)と呼ばれるサイイド・アブドゥル・アジズがイスラム教の教えを広めるためにマラッカにやって来たと言われています。

国王とその王室、高級官僚、そしてマラッカの住民たちは、彼の教えを聞きました。その後、ラジャ・テンガはウラマーの助言に従い、ムスリムの名前であるムハンマド・シャーと、スルタンの称号を採用しました。

彼は自身の統治がイスラムの原則に合致するように改革を行い、習慣、王室の儀礼、官僚制度、商業などをイスラムの原則に合わせました。

アユタヤとの衝突

1446年、マラッカではラジャ・カシムが第5代統治者として任命され、スルタンとして1459年まで統治しました。

この時、1446年に、遂にアユタヤ王国(シャム王国)がマラッカへの陸上侵攻を開始し、アユタヤからの脅威が現実のものとなりました。

この時は、マラッカ国外に派遣されていたトゥン・ペラクという勇者が、彼の部下と共に駆けつけ、マラッカを勝利に導いています。この強力な指導力がスルタンの注目を浴び、トゥン・ペラクはスルタンの「ベンダハラ(宰相)」に任命されます。言わば国防大臣です。

いかにも強そうな Tun Perak : wikipedia “Tun Perak”

1456年、アユタヤは海から別の攻撃を仕掛けてきました。

この攻撃の知らせがマラッカに届くと、海軍部隊が直ちに集結し、要所に防衛ラインが設けられました。部隊はトゥン・ペラクが指揮し、両軍は激しい海戦を繰り広げましたが、優勢なマラッカ海軍がアユタヤ軍を撃退し、シンガプラまで追い詰め、彼らを敗走させました。

この戦闘でのマラッカの勝利は、マラッカの政治的安定と東南アジアでの評判を高めたのです。

「マラッカ海峡」の来歴

「マラッカ海峡」が特定の個人や機関による正式な命名ではないというのは、歴史的事実として一般的に受け入れられている情報だそうです。

この海峡名は古代から航海者によって使用されており、特定の命名アクトや公式な文書によって名付けられたわけではありません。

地図上のマラッカ海峡の定義 : wikipedia “Malacca Strait”

通常、地理的な特徴や水路に名称が与えられる場合、それは地元の言語や文化、歴史的な出来事に由来しています。マラッカ海峡の名前は、マラッカ王国がこの地域で重要な港や交易拠点であったことに関連しており、その名前は歴史的な文書や記録から確認されています。

学会等での研究において、地理的な特徴や名称に関する情報は歴史的な文書や記録をもとに、学問的な合意をとっていますが。特定の命名に関する文書や記録が存在しない場合は、一般的に受け入れられている情報を定義するのみです。

特定の個人や機関による命名があった場合、それに関する歴史的な証拠があるかもしれませんが、マラッカ海峡の場合、そのような証拠は一般的に存在しないとされています。

つまり、地球上の自然な多数決において圧倒的な支持を得た海峡名が「マラッカ海峡 (Strait of Malacca)」ということのようです。

最後まで読んでいただき、誠にありがとうございます。

🔳 マラッカの中盤記事はこちら後編はこちら

🔳 マレーシアの「おすすめ」80選 → まとめ記事はこちら

🔳 MM2Hの本編に戻る →本編【MM2H体験】

タイトルとURLをコピーしました