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MM2H期間中に一度は出かけるシンガポール(星港)ですが、観光の計画を建てる前に、この国の歴史を充分おさらいしておくことを、おすすめします。
太古の昔からの歴史をおさらいしておくと、より充実した観光になると思います。(筆者)
筆者も、詳しく知らなかったのですが、調べてみると、シンガポールには波乱万丈の歴史がありました。一回の記事では書ききれなかったので、前編(英国領になる前)と後編(それ以降)に分割してみました。
ご参考に供します。
史実の画像が必要なので、Wikipediaからシンガポール関連の資料を転載しました。
古代のシンガポール
シンガポール(当初は「シンガプーラ王国」と呼ばれた)という地名が初めて歴史に出て来るのは1299年のことです。
シンガポール初期の最初の言及は、2世紀の天文学者プトレマイオスが残したアジア地区の地図に記載されています。彼はマレー半島の最南端に「サバーナ」または「サバラ」と呼ばれる場所を示しています。
これら地名と場所の特定にはさまざまな説があり、セランゴール州またはクラン近郊、マラッカのすぐ南、ジョホール州の南、またはシンガポール島自体であるといった情報があります。この時代の考古学的物証は、まだ発見されていません。
3世紀の中国の記録には、蒲羅中(プ・ルオ・チョン)島が記載されています。(これはおそらくマレー語の「プラウ・ウジョン」(Pulau Ujong=「島の端」の音写、音読み)のことと思われます。
もう1つの中国筋の言及は、唐代の高僧「義浄」の旅行記です。具体的には「摩訶新(モ・ハ・シン)」という場所が、古代シンガポールの地名であるという情報があります。
14世紀のシンガポール
1535年に書かれたと考えられている『マレー年代記』 (Malay Annal) によると、サン・ニラ・ウタマ(Sang Nila Utama)と呼ばれる人物が1299年に「シンガプーラ王国」を建国したことになっています。(建国時にライオンに遭遇したことから「シンガプーラ」とした説)
14世紀のシンガポールは諸外国から「テマセク」(Temasek)と呼ばれ、(インドネシア地区の)マジャパヒット帝国と(タイの)シャム王国の影響下にある交易港でした。
1365年に書かれたジャワ語の頌詩には、トゥマシック(Tumasik)と呼ばれる島にある集落が「マジャパヒト帝国」の属国としてリストアップされています。この名前は、前述の「マレー年代記」にも記載されています。
「テマセク」は、13世紀初頭にはすでにSach Ma Tich(サック・マ・ティッチ)として記録されているベトナムと外交関係を持っていた可能性があります。
また、1330年頃にこの島を訪れた中国の旅行家「汪大淵」は、「淡馬錫」(Dan Ma Xi、マレー語のTemasekの音写)と呼ばれる場所について記述しています。
また、「淡馬錫」(Dan Ma Xi)またはテマセク(Temasek)という名前は、毛坤の地図には中国語で「淡馬錫」と書かれています。
パラメシュワラ伝説
「シンガポール」という名前は、マジャパヒット帝国への挑戦として「パラメシュワラ」がパレンバン(インドネシアの一部)に発足した「ライオン・スローン(獅子の王座)」という拠点に由来するという説があります。
伝説によると、「パラメシュワラ」という人物はパレンバンの王でしたが、「マジャパヒット帝国」の支配に反抗するため、獅子の形をした王座を建て、自分自身を「シンガプーラ」と名乗ったという説です。(「獅子の町」を意味します)。 マジャパヒット帝国は「パラメシュワラ」の挑戦を許さず、彼をパレンバンから追放したという伝説です。
追放された「パラメシュワラ」はシンガポールに移り、そこで新しい王国を築きました。この王国は「シンガプーラ」と呼ばれ、それが現在のシンガポールの名前の由来となったというわけです。
この説は、歴史的にも考古学的にも証明されていないため、あくまでも一説に過ぎません。
マラッカ王国
14世紀の終わり頃、スマトラ島南部パレンバンの「シュリーヴィジャヤ王国」の王子「パラメシュワラ」(Parameswara)が、現在のシンガポールに逃れてその地を支配したと伝えれれています。
「マレー年代記」によれば、彼のマレー名は Sri Iskandar Shah であり、シンガプーラを支配したのは1389年〜1398年の9年間となっています。短いですね。
シンガプーラで「マジャパヒット帝国」や「シャム王国」の攻撃を受けたため、現在のマレーシアのマラッカ州に移動(退避?)してマラッカ王国を建国したというわけです。
この史実から、シンガポールとマレーシアの強い関係がわかります。
当時「マジャパヒット帝国」で起きた内戦(パルグルグ戦争)に巻き込まれた「パラメスワラ」が、従者を伴って「テマセク」(シンガプラ)に逃れたが、「テマセク」は海賊たちが跋扈する危険な地であり、また「シャム王国」(あるいはタイのアユタヤ)からの攻撃に晒されたため、マレー半島を北上し、15世紀初頭にパレンバン、シンガプラなどに居住する「オラン・スラット」(またはバジャウ)と呼ばれる海上民の協力を得て村落を造り、集落を「マラッカ」と名付けてパラメスワラが王となった。
wikipedia マラッカ王国
「パラメシュワラ」のマラッカへの退避以後も、しばらくの間、小さな交易集落がシンガポールに存在していたとの記録があります。
16世紀~17世紀(複雑です)
16世紀になると、欧州のポルトガルやオランダが東南アジアの拠点に興味を持ち始めます。
1511年にポルトガルがマラッカを占領した後、マラッカ王国の統治者はシンガポールに退避しました。そのため、当時シンガポールはジョホール王国の支配下でしたの、ジョホールの交易拠点として一時的に重要性を回復したかに見えました。(ジョホール王国は隣国)
やがてポルトガルは1613年にシンガポールの前哨基地も破壊、1620年代初頭には、オランダの台頭を阻止するためシンガポール海峡に要塞を建設することを画策したのです。
1641年にオランダがマラッカを奪取すると、オランダはマラッカを東南アジアにおける貿易拠点として位置づけ、周辺の島々や海域を支配していきました。こちらは繁栄しました。
そして、1682年には、そのオランダがシンガポールを占領。軍事拠点として整備し、マラッカからシンガポールに交易拠点を移転させようとしました。
しかし、シンガポールはマラッカほどの重要な交易拠点にはならなかったのです。
シンガポールがポルトガルに占領されていた期間は短かったのですが、この期間の負の影響が大きかったため、その後数世紀にわたってシンガポールの発展を遅らせる要因となったと言われています。
この時期、シンガポールは交易拠点としての地位を失い、衰退していったのです。
シンガポールの島は2世紀の間、忘れ去られていました。当時、シンガポールは名目上、ジョホール王国の領土でしたが、マラッカを征服したオランダの支配下でもあったのです。主権も利権も無いわけです。
そうこうしているうちに、「イギリス東インド会社」が北側のペナン島を交易拠点として開発し始めたのです。(1786年のフランシス・ライト総監によるペナンの租借)
次回(後編)は、1800年以降のイギリスや日本の統治時代になります。
マレー年代記について
この記事の重要な情報源となっている史実は、「マレー年代記」によるものですが、日本語での解説文が少ないようですので、英語版のwikipedia 情報から以下の通り翻訳を掲載します。訳文は chat gpt で日本語にしたものを、読みやすく書き直したものです。
『マレー年代記』(マレー語:Sejarah Melayu)とは
元々の題名は『Sulalatus Salatin(スルタンの系譜)』で、グレート・マレー海洋帝国と呼ばれた「マラッカ・スルタン国」の起源、進化、衰退について歴史物語を描いた文学作品。
15世紀から16世紀の間に執筆され、マレー語で書かれた文献の中でも最高位にある文学、歴史書の一つで、2001年にユネスコのMemory of the World Programme International Registerに登録されています。。
原文は数多くの改訂を経ており、判明している最古のバージョンは1612年5月。当初は古典的なマレー語で(文字は古いジャウィ文字)伝統的な台紙に書かれましたが、今日では32の異なる写本となっています。
いくつかの神秘的な内容を例外としてはいるものの、世界の歴史家はこの文献を、マレー世界の過去の出来事に関する「主要な情報源」であり、他の歴史的な資料と整合すると評価しています。
年代記の内容
『マレー年代記』は物語を散文形式で書いた歴史文学といえます。主題はマラッカの偉大さと優越性を褒め称えることでした。この物語は、表面的にはマラッカのスルタンたちの統治から、1511年にポルトガルの侵略によるスルタン国の滅亡までを語っているように見えますが、マレーの国家に関する歴史学、統治者と統治される者の関係、といった本質的な内容も含まれます。
年代記は、アッラー、預言者、およびその仲間たちの偉大さを賞賛する序文で始まり、マラッカの初代スルタンのラジャ・イスカンダル・ズルカルナインの子孫の系譜的記述から始まるとされています。
年代記はマラッカの建国とその台頭、隣接する王国や遠くの国々との関係、イスラムの到来とそのメラカおよび地域全体での普及、地域の王室の歴史、戦闘の勝利や敗北、結婚関係、外交関係を含みます。 マラッカを統治した行政の階層、その統治者や行政官についても取り上げています。
年代記は、1511年にポルトガルの軍によるマラッカの敗北の記述で終わりますが、マラッカの没落だけでなく、その後の地域復興にも言及しています。特にジョホール、ペラク、パハンなどでのマラッカ様式のスルタン国の復興が記録されています。
最後まで読んでいただき、誠にありがとうございます。
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