【MM2H体験】おすすめ旅行(38)ペナン島

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ペナン島の話題は常に「観光地」としての話題になっていますが、実は、この島はマレーシア国がイギリスの植民地になった最初の馬国領土だったのです。

イギリス領であった時代を思わせるペナン氏の市庁舎 Source : wikipedia “George Town, Penang” ( by Cmglee )

観光地情報はいくらでもありますが、イギリス東インド会社のフランシス・ライトのペナン島開拓の史実はあまり話題になりません。

史実を確認してみました。

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Francis Light とPrince of Wales

1700年代。ペナンはもともとマレーのケダ王国の領土でした。

当時イギリスが強大な軍事力を持っていたため、マレー半島の王国を屈服させることができたのです。そしてイギリスの先兵にあたる動きは「イギリス東インド会社」によるものでした。

1786年、「イギリス東インド会社」に所属するフランシス・ライト船長がペナンに上陸、イギリス王位継承者のプリンス・オブ・ウェールズ島と改名した史実があります。経緯は次のとおり。

1771年に、フランシス・ライトが「東インド会社」ベンガル管区総督に始めて「マレー半島周辺にイギリスの植民地を設立するアイデア」を提案。ペナン島は「東貿易の便利な拠点」として役立つだろうと献言。 当時は受け入れられなかったが、アメリカ独立戦争でイギリスが敗北、フランスとの海上覇権争いに苦戦する頃にライトの提案が再考されます。

Francis Light の銅像 Source : wikipedia “Francis Light” ( by Pangalau ) このひとは船乗りで貿易商

15年後の1786年、ライトは「東インド会社」を代表して、ケダ王国のスルタンからペナン島を年間6,000スペインドルで租借。同社の総督下、ライトは総監職に任命され、同年7月1日に植民地の責任者となった。彼はマレー語とタイ語の会話ができる交渉上手な貿易商だが、イギリスの国益を代表して租借の話をまとめたのです。

この瞬間に、マレー諸邦に対するイギリス支配が始まりました。

当時の新植民地の人口は非常に少なく、「107平方マイルの広大なジャングルに、わずか58人の住民しかいない」と形容された。「東インド会社」は、海賊の着岸を阻止、森林を伐採。

「ジョージタウン」は、当時の国王ジョージIII世にちなんで建設されています。

多文化植民地のペナンは、開拓当初から成功を収め、フランシス・ライトは1794年10月に死去するまで植民地の総監を務めています。

1789年には約10,000人、1795年には20,000人の住民がいましたが、初期の多くの入植者がマラリアに倒れたため、ペナンは「白人の墓場」と呼ばれたそうです。ライトは1794年10月21日にマラリアで亡くなり、ジョージタウンの旧プロテスタント墓地に埋葬されています。

1799年のジョージタウン Source : wikipedia “George Town, Penang” ( by Lbordis )

これらの史実から、1786年から1825年までを、馬国の「第一期植民地時代」と言えそうです。

イギリス領からマレー連邦へ

1826年、イギリスはペナン、マラッカ、シンガポールの3つの植民地を統合して、海峡植民地を成立させました。海峡植民地は、イギリスの直接統治下に置かれ、イギリスの植民地行政制度が導入されました。この時期から1956年までが「第二期植民地時代」と言えます。

The Port of Penang at Weld Quay, in George Town, in 1910 by Hansmuller ( wikipedia “George Town, Penang )

第二次世界大戦に際して、ペナン島は1941年の日本軍のマレー作戦の標的の一部となり、1945年の終戦にまで日本軍に占領され、以後はインド洋からアフリカ、オーストラリアにおける日本海軍の重要な作戦拠点でした。

ペナンは、ドイツ海軍の潜水艦(Uボート)やイタリア海軍の潜水艦も通商破壊活動の基地としても活用されました。戦後の日本の遠洋漁業の寄港地の一つでもあります。(ペナンは1969年まで自由港。自由港というのはライト総監の方針で、寄港する商戦は港湾使用料や税金を課せられることが無かったのです。)

1945年9月、イギリス海軍が日本軍からペナンを奪還 / Source : wikipedia “George Town, Penang” ( by Hopeful Duck )

1946年にはマラヤ連邦の一部となり、イギリスの植民地に逆戻りもしましたが、1948年にはマレー連邦は1957年にマレーシアとして独立。1963年にペナンはようやく独立国マレーシアの一部となったわけです。

George Town 近景  Source : Wikipedia “ペナン島” (By Begoon )

イギリス東インド会社とは

この記事の「東インド会社」とは「イギリス東インド会社」。アジア貿易を目的に設立され、イギリスの勅許会社として、アジア貿易の独占権を認められ、イングランド銀行およびインドの商業資本から貸付を受けながら、17世紀から19世紀半ばにかけてアジア各地の植民地経営や交易に従事しました。強大な海軍力を持ち、インドから東南アジアで圧倒的な覇権をもっていました。

今の世界の地政学からはとても考えられませんが、当時は、イギリスの肝入りの貿易会社が極端に肥大化して、海軍を中心に軍事力も強大だったわけです。

貿易会社というよりは、ひとつの国に近い決定権と資金と軍事力を誇っていた。

現在のペナン島(ペナン市)

ペナン島全体で自治体「ペナン島市」を形成する。

人口は79万1200人(2020年)。そのうち旧市街ジョージタウン地区の人口は約15万人。

日本の都市では、静岡県の浜松市や、新潟県の新潟市が79万前後、東京都武蔵野市が15万人です。馬国で言えば、79万というのはSubang Jaya (95万)より小さく、 Ipoh (75万)より大きい規模。

2008年、ジョージタウンは、マラッカ海峡の歴史的都市群としてマラッカとともに世界遺産に登録されています。

史跡・資料を訪ねることができる

現在もペナン島には、1700年代のイギリス東インド会社による開拓時代の資料や史跡が数多く残されています。こういう場所もおすすめです。

Source : Wikipedia ( by Penangalau )

ペナン島の歴史や文化に関する資料は、以下の拠点で参照することができます。

・ペナン歴史博物館

・ペナン国家図書館

・ペナン大学図書館

・ペナン州立博物館

ペナン島のイギリス植民地時代の史跡は、以下の場所で見ることができます。

・Fort Cornwallis

・プロテスタント墓地(場所はすぐわかります)

・イギリス東インド会社本部(市庁舎関連に活用されていると言う情報です)

Fort Cornwallis  / Source : Wikipedia ( by Gryffindor ) 

Fort Cornwallisは、ペナン島の北部にある要塞です。この要塞は、1786年にイギリス東インド会社によって建設され、ペナンの防衛拠点として機能しました。

プロテスタント墓地は、ペナン島の北部にある墓地です。この墓地には、1700年代から1900年代にかけて亡くなったイギリス人やその他の外国人の墓が数多くあります。

イギリス東インド会社本部は、ペナン島の中心部にある建物です。この建物は、1820年にイギリス東インド会社によって建設され、ペナンの行政拠点として機能しました。

家族旅行でペナンに行くと、やはり目的はビーチと、ジョージタウンで飲食が中心になりますが、筆者も、もし一人旅でペナンに行く機会があれば、史跡を回ってみたいと思います。

George Town / Source : Wikipedia “George Town” ( by PenangLion )

最後まで読んでいただき、誠にありがとうございます。

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