【MM2H情報】真説KLが生まれた19世紀<10>

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この記事は、本編【MM2H体験】の関連記事です。馬国の「おすすめ情報」まとめ記事はこちらです。

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クアラルンプール(KL)の発祥の履歴を追ってきました。これまでの記事を読んでから参照してください。

今回は前置きは無しにして、いきなり内容に入ります。

葉亞來の「甲必丹」就任

1868年、劉壬光は重病のため Captain China の仕事を継続できなくなりました。そこで、劉壬光は当時KLの資産家で有力者でもあった葉四 (Yap Ah Sze) に「甲必丹」を継承して欲しいと依頼します。

しかし、葉四には、既に大きく成長していた自分の事業の運営責任があり、KL地区の甲必丹職との兼務は出来ないとして辞退します。2人が話し合った結果、「甲必丹」の重責は、成長目覚ましい葉亞來に任せるべきだという結論で落ち着きます。

葉四は、Sutan Puasa(まだ市町村の開発が進んでおらず、イギリス植民地政策の影響も受けていないKL集落の民族間調整を取り仕切っていたMandailing族の首長)に連絡して葉亞來の起用についてSultan Abdul Samad の了解を取り、華人集団に発表したのです。

皮肉なことに、Sutan Puasa は1970年には Sultan Abdul Samad の反感を買い、「逆族」扱いとなってしまうのですが、1968年の段階では、彼はKL地区のマレー社会で最も力のある調整役だったのです。

劉壬光は、いよいよ亡くなる前に、葉亞來を呼び寄せて自身の資産管理や家族の世話を依頼しました。

このように、首長交代において「世襲制」を優先しない華人社会では、自らのの資産や家族の世話についてまでも、次に首長を継承する実力者に依頼する文化だったのです。この場合、前任者の「資産」や「事業」も継承相手に引き継がれていたようです。

劉壬光の死後、当地の華人社会の数件の家族から陳情が出ました。葉亞來の甲必丹に就任に異議申したてをしたのです。理由は、彼らの家系にも首長を出す権利があるというのものです。そこで、影響力のあるSutan Puasa が、この人事は劉壬光の遺言としての取り決めであることや、Sultan Abdul Samad葉亞來の甲必丹の継承を認めていることを説明。その場は平穏に収まっています。

Captain China Yap Ah Loy 当時の客家の正装で写真を撮ったものだそうです。wikipedia “Yap Ah Loy”

さて、葉亞來は第3代のKL華人甲必丹に就任すると、直ぐに、以下の政策を実行します:

  • クアラルンプールの安全対策を強化し、外部からの侵入を防止
  • 地域の治安を維持するために、左右の隊長である鍾炳と丘発率いる精鋭部隊を編成
  • 犯罪者に対する各種の処罰規定を制定
  • 監獄の建設や民間事件の裁判を行い、犯罪者の撲滅を目指す

いかに当時のKLが無法地、トラブルが多かったか、これでよくわかります。前任者が過労で病気になるのも仕方がないような社会環境でした。

2名の Raja の利権争いについて、葉亞來は、甲必丹就任の時点では、どちらに加担することも考えていませんでした。関わりたくも無かったはずです。

葉亞來は、華人集落の防衛力を強化するため、兵士を募集し、指揮官を採用して防衛訓練を始めました。一方で、シンガポールや広東省の惠州から同胞の募集を行い、普段はSultan Abdul Samadの承認と支持を得る努力を続けました。

筆 者
筆 者

当時は、国際電話もインターネットもありませんから、手紙だけでなく、旅費を用意して、自分の腹心を中国の広東省に送って、要員を募集したんだそうです。

セランゴール戦争は いかに本格化したのか?

当初はクランバレーの利権を巡ってのRaja AbdullahRaja Mahdiのにらみ合い(それだけ)だった地域紛争は、次第に大規模な戦乱に発展します。そのことを少し深堀しておきます。

中央の珊瑚色の部分が、利権争いが始まったクランバレーで、大きなセランゴールの一部の話でしかなかったのだが・・・ 資料はWikipedia ”Klang War”より抜粋

Raja Mahdiの反逆(その1)

Selangor Sultan の血筋であるRaja Abdullah は、もともとは Bugis族 の移民ですから、クランバレー地区でも Bugis族 の大将でした。この Bugis族の中のある管理官が現在のKLタワーがある Bukit Nanas に住んでいたMandailing族 の住人を殺害したことが発端で、Mandailing族の首長が憤慨し、公平に犯人を処分しなかったRaja Absullahに怨恨を持ち、反AbdullahであるRaja Mahdiを強く支援するようになります。

「Abdullahを潰すなら、俺も協力する」というわけです。

Raja Mahdi が、クラン川の下流、Klang地区に作った要塞の入り口は、当時のまま残っています。 photo by wikipedia “Klang War”

Mandailing族は1860年代前半のKL地区では大きな勢力でした。Raja Mahadi は、この機運に乗ってRaha Abdullahが管理していたKlang地区(KLの西の海岸に近い領土)を襲撃。5か月後に Raja Abdullah のBugis軍を打ちまかし、1866年、Raja Abdullahはマラッカに敗走させられます。(その後、無念を晴らせぬままRaja Abdullahaは療養先のボルネオの村で亡くなります。)

この時点では、当時のSultan Samadは Bugisのマレー人として、異端児のRaja Mahadi を支援し始めた Mandailing に強い嫌悪感を持ちはじめます。しかし、Raja Mahadi 本人は Mandailing ではないので、「どうしたものか?」といったところでだったのでしょう。

Raja Mahdiの反逆(その2)

1866年にRaja Abdullahを敗走させてKelang地区の利権を力で奪ったRaja Mahdiは、自らの利権を拡張すべく、反抗的な姿勢を崩しませんでした。

あくまでセランゴールの一部であるクランバレーですから、どの領主も、セランゴールのスルタンであるAbdul Samadに上納金を納めなければなりませんでした。当時、Raja AbdullahSultan Abdul Samadに毎月支払っていたのは月額で$500でした。

しかし、Raja Mahdi は、このルールを無視します。つまり、上納金も自分の利権として独占したのです。

Mandailingの半Bugis的な動きに加え、Sultanへ公然と反抗した Raja Mahdiに対し、流石にSultanも激怒します。Raja Mahdiの婚約相手であったSultanの子女である Raja Afrah との婚儀は中止になり、Raja Afrahの結婚相手は当時のKedah州のSultanの弟であったTungku Kudinという人物に変更されてしまいます。

Tungku Kuding of Kedah, photo by wikipedia “Klang War”

これで、セランゴールの Sultan Abdul Samad Raja Mahdi の対立関係は決定的となりました。

Raja Mahdiの反逆(その3)

Sultan Abdul Samadは寛容なスルタンでした。Tungku Kudinと自分の娘との婚姻を期に、Raja Mahdiとの関係が悪化していることは、決して良いことではないと理解していました。

そこで、Abdul SamadTungku Kudinに依頼して、Mandailingと結託しているRaja MahdiRaja Abdullahの息子のRaja Ismail を領主とするBugis属との「和解交渉」を試みます。

このため、スルタンはTungku Kudinに、セランゴール・スルタンの代理人のタイトルを与えています。つまり、Abdullah側もMahdi側も、Tunku Kuding を「スルタンの代理人として敬意を払うべし」という人事でした。

しかし、Raja Mahdiは、この「和解交渉」も「拒否」してしまいます。

Tungku Kudinの参戦と戦禍の拡大

Raja Mahadiの反抗的な態度は、スルタンの名代であるTungku Kudinを怒らせてしまいます。流石にこのRaja Mahdiの態度はは軽率でした。

Tungku Kudin は、単なる娘婿ではありませんでした、彼は、Kedah国のスルタンの弟であり、彼の指示ひとつで、Kedah国の武力集団を動かすことが出来たのです。

かくして、怒った Tungku Kudin は、無くなったAbdullahの子息であるRaja Ismailの部隊を支援すべく、Kedahの軍の一部と、地域の傭兵部隊を動員して、Selangor Sultan の名代としてRaja Mahdiの討伐戦に乗り出すのです。

クランバレーの利権を巡る2人の領主の小競り合いが「戦争」に変った瞬間です。

始まった戦乱は、1870年の Raja Mahdi の敗走まで続きますが、詳しい話は次回とさせてください。

伏兵「張昌」の「甲必丹」妨害工作と参戦

葉亞來が露骨(Lukut) で料理人として雇われていた錫鉱区の棟梁は、同郷である、恵州客家の「張昌」ですが、この「張昌」葉亞來の「甲必丹」就任を聞きつけると、20名前後の手下を率いて1869年にKLに乗り込んできました。

葉亞來が「甲必丹」だというのなら、「俺にもその地位を持つ権利がある」と言わんばかりです。

しかし、張昌がKLに乗り込んできたのは葉亞來の甲必丹就任の半年後であり、既に葉亞來の防衛隊の規模も、町中の統制力も充分強固に作られていたため、張昌の軍団は結局何もできませんでした。

筆 者
筆 者

葉亞來の先見の明には敬服しますな。

商人「葉四」の暗殺

葉四は、KL華人集団の最初の商業拠点の経営者であり、丘秀とともにKLの基礎を打った人物です。彼は、1857年当時、すでにセランゴールで事業展開を起こしており、それなりに裕福な地位にありましたから、周囲の華人社会からの信頼も得ていました。

この葉四ですが、実は恵州客家とは一線を引いているセランゴール川流域の Kanchingで錫の採掘を営んでいた義興公司(Ghee Hin)系の客家民のグループの、事実上のリーダーでもあったのです。

葉四がKLの甲必丹を辞退したニュースはKanchingにも伝わっており、Kanching の華人の間では、葉四が大将にならなかったことは、残念な話だったようです。

もともと、出身が違い、方言も違う客家民の中でリーダー格でいることが辛くなったのでしょう。葉四は、1989年の某月某日、Kanching の自分の拠点をひそかに引き払って、一人で出ていくことにしたのです。恐らくKLか他の集落に移住を考えていたのでしょう。

しかし、葉四が「ひそかに」引き払う予定であったことが、何故か張昌の耳に入ります。

張昌は、自分の手下を従えて葉四を探し出し、何と、葉亞來の親友である葉四を、移動中に待ち伏せて殺害してしまったのです。

このことは、華人文化の伝承(例えばKLの恵州会館の記録)では「暗殺事件」とされています。

19世紀のセランゴールの地図、上の青い線が「セランゴール川」流域、下の青い線は「クラン川」流域=クランバレー。オレンジの線はセランゴール・スルタン国の国境線

本意ではない「海山」と「義興」の対立

親友が乗っていた馬が、主人の無い状態でKLに着いたことから、葉亞來は、葉四に何かがあったことを知りますが、ほどなく、葉四の死が確認され、ショックを受けます。

彼らは大勢でKanchingに赴き、Kanchingの華人集団に「何があったのか?誰が葉四を殺したのか?」 と問い質しますが、誰も何も知らず、経緯が判明しません。

程なく明るみに出てきた事実は、

KLに居た「張昌」の武装グループが、SultanとRaja Abdullahの正当な領主に反逆していたRaja Mahdiの武力行使の支援部隊に加わったこと、そして、Kanchingの華人集団(義興公司が支配的)が同じくRaja Mahdiをサポートする立場に付くと言うニュースを知らされます。

恐らく、葉亞來は、「海山」として「義興」と反目することは望んでいなかったと思います。

しかし、同時期にペラ州で起きた Rarut 戦争の戦況では、2つの集団は完全な敵同士でしたから、この対立関係が、セランゴール戦争の敵味方の構造に飛び火してきた場合、これを無視することは出来なかったのです。

葉亞來の甲必丹就任に嫉妬した張昌は、とんでもない伏兵となり、最初は小競り合いだったクランバレーの紛争に華人集団を巻き込むきっかけを作ってしまったのです。

筆 者
筆 者

Raja Mahdi張昌の2人が居なかったら、セランゴール戦争は起きていなかったのでは?と思ったりします。もっと簡単にSultanの采配で和解できていたはずです。

一説には、Sultan Abdul Samadが、2人のRajaの管理を厳しくできなかったことが、遠因だという声もあるようです。

最後まで参照いただき、誠にありがとうございます。

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