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クアラルンプール(KL)の発祥の履歴を追ってきました。これまでの記事を読んでから参照してください。
今回は前置きは無しにして、いきなり内容に入ります。
葉亞來の「甲必丹」就任
1868年、劉壬光は重病のため Captain China の仕事を継続できなくなりました。そこで、劉壬光は当時KLの資産家で有力者でもあった葉四 (Yap Ah Sze) に「甲必丹」を継承して欲しいと依頼します。
しかし、葉四には、既に大きく成長していた自分の事業の運営責任があり、KL地区の甲必丹職との兼務は出来ないとして辞退します。2人が話し合った結果、「甲必丹」の重責は、成長目覚ましい葉亞來に任せるべきだという結論で落ち着きます。
劉と葉四は、Sutan Puasa(まだ市町村の開発が進んでおらず、イギリス植民地政策の影響も受けていないKL集落の民族間調整を取り仕切っていたMandailing族の首長)に連絡して葉亞來の起用についてSultan Abdul Samad の了解を取り、華人集団に発表したのです。
皮肉なことに、Sutan Puasa は1970年には Sultan Abdul Samad の反感を買い、「逆族」扱いとなってしまうのですが、1968年の段階では、彼はKL地区のマレー社会で最も力のある調整役だったのです。
劉壬光は、いよいよ亡くなる前に、葉亞來を呼び寄せて自身の資産管理や家族の世話を依頼しました。
このように、首長交代において「世襲制」を優先しない華人社会では、自らのの資産や家族の世話についてまでも、次に首長を継承する実力者に依頼する文化だったのです。この場合、前任者の「資産」や「事業」も継承相手に引き継がれていたようです。
劉壬光の死後、当地の華人社会の数件の家族から陳情が出ました。葉亞來の甲必丹に就任に異議申したてをしたのです。理由は、彼らの家系にも首長を出す権利があるというのものです。そこで、影響力のあるSutan Puasa が、この人事は劉壬光の遺言としての取り決めであることや、Sultan Abdul Samad も葉亞來の甲必丹の継承を認めていることを説明。その場は平穏に収まっています。
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さて、葉亞來は第3代のKL華人甲必丹に就任すると、直ぐに、以下の政策を実行します:
- クアラルンプールの安全対策を強化し、外部からの侵入を防止
- 地域の治安を維持するために、左右の隊長である鍾炳と丘発率いる精鋭部隊を編成
- 犯罪者に対する各種の処罰規定を制定
- 監獄の建設や民間事件の裁判を行い、犯罪者の撲滅を目指す
いかに当時のKLが無法地、トラブルが多かったか、これでよくわかります。前任者が過労で病気になるのも仕方がないような社会環境でした。
2名の Raja の利権争いについて、葉亞來は、甲必丹就任の時点では、どちらに加担することも考えていませんでした。関わりたくも無かったはずです。
葉亞來は、華人集落の防衛力を強化するため、兵士を募集し、指揮官を採用して防衛訓練を始めました。一方で、シンガポールや広東省の惠州から同胞の募集を行い、普段はSultan Abdul Samadの承認と支持を得る努力を続けました。
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当時は、国際電話もインターネットもありませんから、手紙だけでなく、旅費を用意して、自分の腹心を中国の広東省に送って、要員を募集したんだそうです。
セランゴール戦争は いかに本格化したのか?
当初はクランバレーの利権を巡ってのRaja Abdullah とRaja Mahdiのにらみ合い(それだけ)だった地域紛争は、次第に大規模な戦乱に発展します。そのことを少し深堀しておきます。
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Raja Mahdiの反逆(その1)
Selangor Sultan の血筋であるRaja Abdullah は、もともとは Bugis族 の移民ですから、クランバレー地区でも Bugis族 の大将でした。この Bugis族の中のある管理官が現在のKLタワーがある Bukit Nanas に住んでいたMandailing族 の住人を殺害したことが発端で、Mandailing族の首長が憤慨し、公平に犯人を処分しなかったRaja Absullahに怨恨を持ち、反AbdullahであるRaja Mahdiを強く支援するようになります。
「Abdullahを潰すなら、俺も協力する」というわけです。
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Mandailing族は1860年代前半のKL地区では大きな勢力でした。Raja Mahadi は、この機運に乗ってRaha Abdullahが管理していたKlang地区(KLの西の海岸に近い領土)を襲撃。5か月後に Raja Abdullah のBugis軍を打ちまかし、1866年、Raja Abdullahはマラッカに敗走させられます。(その後、無念を晴らせぬままRaja Abdullahaは療養先のボルネオの村で亡くなります。)
この時点では、当時のSultan Samadは Bugisのマレー人として、異端児のRaja Mahadi を支援し始めた Mandailing に強い嫌悪感を持ちはじめます。しかし、Raja Mahadi 本人は Mandailing ではないので、「どうしたものか?」といったところでだったのでしょう。
Raja Mahdiの反逆(その2)
1866年にRaja Abdullahを敗走させてKelang地区の利権を力で奪ったRaja Mahdiは、自らの利権を拡張すべく、反抗的な姿勢を崩しませんでした。
あくまでセランゴールの一部であるクランバレーですから、どの領主も、セランゴールのスルタンであるAbdul Samadに上納金を納めなければなりませんでした。当時、Raja AbdullahがSultan Abdul Samadに毎月支払っていたのは月額で$500でした。
しかし、Raja Mahdi は、このルールを無視します。つまり、上納金も自分の利権として独占したのです。
Mandailingの半Bugis的な動きに加え、Sultanへ公然と反抗した Raja Mahdiに対し、流石にSultanも激怒します。Raja Mahdiの婚約相手であったSultanの子女である Raja Afrah との婚儀は中止になり、Raja Afrahの結婚相手は当時のKedah州のSultanの弟であったTungku Kudinという人物に変更されてしまいます。
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これで、セランゴールの Sultan Abdul Samad とRaja Mahdi の対立関係は決定的となりました。
Raja Mahdiの反逆(その3)
Sultan Abdul Samadは寛容なスルタンでした。Tungku Kudinと自分の娘との婚姻を期に、Raja Mahdiとの関係が悪化していることは、決して良いことではないと理解していました。
そこで、Abdul SamadはTungku Kudinに依頼して、Mandailingと結託しているRaja MahdiとRaja Abdullahの息子のRaja Ismail を領主とするBugis属との「和解交渉」を試みます。
このため、スルタンはTungku Kudinに、セランゴール・スルタンの代理人のタイトルを与えています。つまり、Abdullah側もMahdi側も、Tunku Kuding を「スルタンの代理人として敬意を払うべし」という人事でした。
しかし、Raja Mahdiは、この「和解交渉」も「拒否」してしまいます。
Tungku Kudinの参戦と戦禍の拡大
Raja Mahadiの反抗的な態度は、スルタンの名代であるTungku Kudinを怒らせてしまいます。流石にこのRaja Mahdiの態度はは軽率でした。
Tungku Kudin は、単なる娘婿ではありませんでした、彼は、Kedah国のスルタンの弟であり、彼の指示ひとつで、Kedah国の武力集団を動かすことが出来たのです。
かくして、怒った Tungku Kudin は、無くなったAbdullahの子息であるRaja Ismailの部隊を支援すべく、Kedahの軍の一部と、地域の傭兵部隊を動員して、Selangor Sultan の名代としてRaja Mahdiの討伐戦に乗り出すのです。
クランバレーの利権を巡る2人の領主の小競り合いが「戦争」に変った瞬間です。
始まった戦乱は、1870年の Raja Mahdi の敗走まで続きますが、詳しい話は次回とさせてください。
伏兵「張昌」の「甲必丹」妨害工作と参戦
葉亞來が露骨(Lukut) で料理人として雇われていた錫鉱区の棟梁は、同郷である、恵州客家の「張昌」ですが、この「張昌」が葉亞來の「甲必丹」就任を聞きつけると、20名前後の手下を率いて1869年にKLに乗り込んできました。
葉亞來が「甲必丹」だというのなら、「俺にもその地位を持つ権利がある」と言わんばかりです。
しかし、張昌がKLに乗り込んできたのは葉亞來の甲必丹就任の半年後であり、既に葉亞來の防衛隊の規模も、町中の統制力も充分強固に作られていたため、張昌の軍団は結局何もできませんでした。
![筆 者](https://one-digi-one.com/wp-content/uploads/2024/02/WT_65.png)
葉亞來の先見の明には敬服しますな。
商人「葉四」の暗殺
葉四は、KL華人集団の最初の商業拠点の経営者であり、丘秀とともにKLの基礎を打った人物です。彼は、1857年当時、すでにセランゴールで事業展開を起こしており、それなりに裕福な地位にありましたから、周囲の華人社会からの信頼も得ていました。
この葉四ですが、実は恵州客家とは一線を引いているセランゴール川流域の Kanchingで錫の採掘を営んでいた義興公司(Ghee Hin)系の客家民のグループの、事実上のリーダーでもあったのです。
葉四がKLの甲必丹を辞退したニュースはKanchingにも伝わっており、Kanching の華人の間では、葉四が大将にならなかったことは、残念な話だったようです。
もともと、出身が違い、方言も違う客家民の中でリーダー格でいることが辛くなったのでしょう。葉四は、1989年の某月某日、Kanching の自分の拠点をひそかに引き払って、一人で出ていくことにしたのです。恐らくKLか他の集落に移住を考えていたのでしょう。
しかし、葉四が「ひそかに」引き払う予定であったことが、何故か張昌の耳に入ります。
張昌は、自分の手下を従えて葉四を探し出し、何と、葉亞來の親友である葉四を、移動中に待ち伏せて殺害してしまったのです。
このことは、華人文化の伝承(例えばKLの恵州会館の記録)では「暗殺事件」とされています。
![](https://one-digi-one.com/wp-content/uploads/2024/03/map_selangor19.png)
本意ではない「海山」と「義興」の対立
親友が乗っていた馬が、主人の無い状態でKLに着いたことから、葉亞來は、葉四に何かがあったことを知りますが、ほどなく、葉四の死が確認され、ショックを受けます。
彼らは大勢でKanchingに赴き、Kanchingの華人集団に「何があったのか?誰が葉四を殺したのか?」 と問い質しますが、誰も何も知らず、経緯が判明しません。
程なく明るみに出てきた事実は、
KLに居た「張昌」の武装グループが、SultanとRaja Abdullahの正当な領主に反逆していたRaja Mahdiの武力行使の支援部隊に加わったこと、そして、Kanchingの華人集団(義興公司が支配的)が同じくRaja Mahdiをサポートする立場に付くと言うニュースを知らされます。
恐らく、葉亞來は、「海山」として「義興」と反目することは望んでいなかったと思います。
しかし、同時期にペラ州で起きた Rarut 戦争の戦況では、2つの集団は完全な敵同士でしたから、この対立関係が、セランゴール戦争の敵味方の構造に飛び火してきた場合、これを無視することは出来なかったのです。
葉亞來の甲必丹就任に嫉妬した張昌は、とんでもない伏兵となり、最初は小競り合いだったクランバレーの紛争に華人集団を巻き込むきっかけを作ってしまったのです。
![筆 者](https://one-digi-one.com/wp-content/uploads/2024/02/WT_65.png)
Raja Mahdiと張昌の2人が居なかったら、セランゴール戦争は起きていなかったのでは?と思ったりします。もっと簡単にSultanの采配で和解できていたはずです。
一説には、Sultan Abdul Samadが、2人のRajaの管理を厳しくできなかったことが、遠因だという声もあるようです。
最後まで参照いただき、誠にありがとうございます。
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