【MM2H情報】真説KLが生まれた19世紀<14>

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セランゴール戦争の前哨戦までの話は済みました。

いよいよこの戦争の第一期KL戦である、Ampang 地区の大規模な紛争の史実を解説します。

この数千人規模の軍事衝突は1870年の9月から10月に発生したものです。そして、この段階では、葉亞來がKapitan(いわば華人行政長官)をつとめた華人のクアラルンプールは敵の攻撃に打ち勝ち、領地を奪われずに済んでいます。

まずは、19世紀に作成されたセランゴールの地図を参照ください。

この地図は1882年(セランゴール戦争の終戦からから10年後)に、大英帝国のセランゴール担当土木工事監督官であった D.D. Daly がマラヤ半島の調査を行った際に作成されたもので、英国のRoyal Geographical Society (王立地理学会)に提出された資料の一部で、すでに copy right の期限が切れて、public domain のものという前提でオーストラリア国立大学の展示資料としてWeb公開されているものです。

注目頂きたいのは、中央を東西に流れるクラン川(Klang R.)流域にあるLower Klang, Klang (Residency), Damar Sara, K. Kumpur, Ulu Klangと、Ulu Klangの南にあるSungie Putehあたり(戦争の主戦場)

地図の南に流れるのがランカット川 (Langkat R.) その中流に Kajang があり、上流には Ulu Lnagkat があリます。Langkat 地域は19世紀のSultan Abdul Samadがもともと所有していた領土。

クラン川のさらに北に注目すると、やはり東西に大きく流れるセランゴール川があり、その上流にBandar Rawang Kanching がある。張昌が連合した慶応州客家の華人集団が採掘をしていた場所です。セランゴール川の河口付近がKuala Selangorですが、この地図にはそのような表記がありません。

最後にセランゴール川の河口の南にBt. Jeromという場所がありますが、このJeromもまた単独の領土であり、ここにも領主のRaja が済んでいてRaja Mahdiと連合したという史実があります。

以上をバトルグラウンドとして、今回の主題である第1期KL戦を解説したいと思います。

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第1期KL戦 アンパン地区をねらった武装集団の増強

1870年の6月、葉四殺害事件とKanching での悲劇を経験し、宿敵となった恵州客家族の張昌の軍団との対立関係に晒された葉亞來に悪い知らせが入ってきます。

あの張昌がKL地区の東のAmpang地区に野営を始めたという情報です。そしてそのさらに奥、Ampangの北東部のUlu Klang にはSyed Mashhorが駐屯し始めていたのです。

戦乱は避けられないと判断していた葉亞來は、

まず、Klang地区で兵を集めていたTungku Kudin と連絡を取り、張昌Syed Masshorの動きから、KL地区を奪いに来るのは時間の問題であることを伝えます。

同時に亞來の兄弟がシンガポールに遠征して、武器と弾薬を調達。

KLの防衛部隊の重鎮として頭角を現していたChung Piang(鐘炳來)Hui FattがKL地区の人集めの拠点を任されました。2名の重鎮は年の9月までに1000人の兵を集めたと伝えられています。

緊張感が徐々に高まる9月には、数百人だった張昌Mashhorの武装集団は、ついに2500人きぼまでに膨れ上がり、当時の錫鉱業の目玉地区であったKLを奪うべく、Ampang地区への急襲のタイミングをはかっていました。

葉亞來の側の軍材はせいぜい2000で、開戦時の軍事勢力では、張昌軍団は葉亞來軍団を上回っていました。

筆 者
筆 者

ここで登場した Chun Piang(鐘炳來)は、Chung Pen Lai とも呼ばれる英雄です。葉亞來が建立した「仙四師爺廟」にKapitan Shin と一緒に祀られているのが、他でもない、この鐘炳來です。

アンパンの戦い 開戦

葉亞來軍の前線部隊はFui Fatt とTung Khoonに任され、この中隊600人がUlu Klang 地区に進軍すると、ほどなくSyd Mashhor の部隊への攻撃を開始。

その日の攻防でMashhorの小隊は疲弊、弱体化。Mashhorは小隊をはなれた張昌の野営地に敗走します。

張昌は、Mashhorの報告を聞くと、Fui Fattの部隊を討つため、その日の夜のうちに2000の軍勢を率いてUlul Klang に進軍しています。

Hiu Fatt とTung KhoonがUlu Klang の急ごしらえの野営地で休んでいるところに、2000人の急襲がかかります、火砲や軍勢の叫び声の渦です。陣営は2つの軍勢(張昌とMashhor)から挟み撃ちにあって危機的状況に陥ります。

image photo by envato elements (all rights reserved)

この時既に、葉亞來は援軍を戦場に送り出していました。援軍はHui Fatt とMasshorと張昌の軍勢の戦いの真っ最中にUlu Klang に到着しています。この援軍の手配が、アンパンの戦いを決定づけたといって良いでしょう。

長い戦闘の結果、張昌はAmpang地区の野営地への撤退を余儀なくされます。

葉亞來側の部隊は40名の死者と100名の重傷者を出しましたが、張昌の部隊はそれ以上のダメージを受けていたのです。

この戦闘経験から、葉亞來は、Ampang 地区の張昌とMashhorの軍勢を打ち負かすには、足元の軍勢は充分ではないと判断。
DamansaraのRaja Asalの支援を要請することを決めます。そしてRaja Asalは同意してUlu Klang の葉亞來陣営に合流しています。

一進一退の攻防が続く中、葉亞來陣営は、前線にさらに600名の増員を派遣します。

この増員はSutan Puasaをリーダーとする400名の中隊と、華人Ten Samをリーダーとする200名の華人部隊でした。

葉亞來がアンパン地区を死守

最初のKL戦は、兵力において、当初は張昌・Mashhor軍団に優位性があったが、葉亞來軍団は、Raja AsalやSutan Puasa のマレー軍の支援を得たことで、何とか兵力を強化できた。

兵力が均衡した以降は、このアンパン地区をとりまくKL周辺の地理に詳しい葉亞來軍団に優位性があったようです。

そして彼ら、幾度となく張昌軍を挟み撃ちにする戦略を経て、相手を疲弊させ、消耗戦を勝ち抜きます。

やがて、張昌とMasshorは負け戦を悟り、Batu Cave の方向に敗走しています。Kongsi Network の記録によれば、この合戦の結末を見たHui Fatt の言葉が残っています。

「人や馬の死骸が累々と積み上がり、血の流れは川のようだった。その光景には打ち負かされた者たちの強い憎しみに満ちていた・・・」

張昌とMasshorの逃走

1870年10月。

Batu Caveを経由してMashhorはUlu Selangor に逃げ、張昌は南方のKuala Langatに去りました。

Ampang の戦いはYap 軍の勝利となり、司令官に昇進していたChung Piangは野営地を引き払う指令を出してKLに帰還。Kapitan葉亞來が軍団を出迎えていました。Kapitanからは、生き残った兵士に報償を与え、傷ついたものをよく養生するよう指示があったと記録されています。

KLの守護神、葉亞來が、最初の大規模な武力衝突を勝ち抜いた瞬間です。

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しかし、この翌年には、敗走したはずの張昌、そして Mashhor もしぶとく立ち直ってKLを攻めてくるとは、亞來たちは予想していなかったのかもしれません。

最後まで参照いただき、ありがとうございました。

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