この記事は、本編【MM2H体験】の関連記事です。馬国の「おすすめ情報」まとめ記事はこちらです。
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セランゴール戦争(別名 klang War)の全容を端的に説明するのは容易ではありません。筆者も、この戦争を完全に理解するまでに数週間もかかってしまいました。
さまざまな言語で要約された Wikipedia情報を集めても、今ひとつピンとこない日々でした。
切り札となった情報は、Kongsi Networks の “The Selangor Civil War” という記事で、先に紹介したYap Ah Loy の生涯をまとめた英文の史記のハイライト部分でした。
編集リーダーの陈永杰(Tan Weng Kit)先生と沈文华(Sin Mun Wah)先生が説明した文章が秀逸ですので、引用してご紹介します。
The Selangor Civil War began in Klang in 1867, and spreaded to the whole of Selangor, including Kuala Lumpur. Initially, it was a struggle for control of the tax revenues from the trade goods up and down the rivers of Selangor, then it became a war over the direct control of the state’s tin mines. By then, the fighting was concentrated in the areas around Kuala Lumpur. The victor of Kuala Lumpur would be ensured of dominance over the rest of the state.
セランゴールの市民戦争は、1867年にクラン地区で始まり、やがて現在のクアラルンプールを含むセランゴール全土に広がった戦争である。当初は、セランゴール内を流れる複数の川を往来する商業船から徴収する物品税や通行税の管理を巡る利権争いだったが、これが地域全体の錫の採掘権を奪い合う全面戦争に発展した。全面戦争になった時点で、戦場はクアラルンプールに絞られた。クアラルンプール地区で勝利した者が、(セランゴール内の)他の地域の覇権手にすることになるからである。
The Selangor Civil War, Kongsi Networks
5つの局地戦
筆者が調べた限りにおいて、この戦争は、5つの独立した軍事衝突に区分して説明することができます。
前哨戦は、1866年の Raja Mahadi によるKlangの占領から1870年の3月のTungku KudinによるKlangの奪還、そしてRaja Mahadi によるKuala Selangor 占領まで(後述しています)
第1期KL戦は、1870年6月から10月までの5ヶ月に渡るAmpang 地区(KLの主要部)の攻防(通称「Anpang の戦い」)
第2期KL戦は、1871年5月と6月の Rawang 地区攻略戦(通称「Rwangの戦い」)
第3期KL戦は、1872年4月から8月までの戦争によるKL陥落( 別途「Raja Asalの裏切り」と呼ばれている)
第4期KL戦が、1873年のKL奪還と終戦
後の記録では、葉亞來は、この戦争でクアラルンプールの街は2〜3度「焦土となった」と表現しています。
そして、初めて大規模な戦争に発展した「Ampang の戦い」では、葉亞來の配下の参謀 Fui Hattが「累々と横たわる人と馬の死骸から鮮血が川のように流れ、あたりは敗北者の強い憎悪の念に満ちていた・・・」と言い残しています。
陣容、陣地(野営地)、武器、兵士
当時の戦闘員の陣容は、両軍ともに2,000から2,500の軍勢で構成され、いくつかの小規模・中規模なグループに分かれたり、合流したりを繰り返していました。
狙った領地を占領するには、まず Stockadeという、背の高い木材で周囲を取り囲んだ木造の要塞を、大勢の人間が短時間で準備します。
これだけでも重労働です。
要塞にはいくつかの椰子の葉で拭いた屋根の仮設の建屋が建てられ、参謀と部隊長が作戦会議を行っていました。
もちろん、大量の食料は常に補給係が輸送してStockadeに運んでいました。この補給路を断つことも、重要な戦闘戦略の一部でしたから、いずれの武装集団も、時には補給を断たれて疲弊しています。
武器は、オーソドックスな槍やサーベル型の剣、そしてクリスという短剣、そしてオランダから伝来した鉄砲、手で持ち運ぶ大砲のミニチュアのようなもの。戦争の終盤には中国のノウハウを持ち込んだバンブーキャノン(竹で作る遠距離砲)も登場しています。バンブーキャノンは鉄製の大砲より効果的だったようですが、残念ながら詳細資料が見つかりません。
兵士は、鎖帷子(くさりかたびら)を持たず、せいぜい鉄製の盾を持っていた程度です。
リクルートできる全ての兵力が徴用されていました。作業員として移住してきたクーリー(作業員)、中国から呼び寄せた兵士、Mandailing族や他のスマトラ系の移民、Kedah地方やPahan地方から参戦したマレー人兵士。彼らは、正規軍であったり、地域で雇った傭兵部隊であったりしました。
後半では、Tungku Kudinが採用したオランダ人の傭兵まで参加しています。
中には、素性の悪い人間もいたでしょう。現在の米海軍・陸軍や日本の自衛隊のような規律があるわけではなかったはずです。まとめるのは大変だっただろうと思います。
前哨戦の後半
KL地区での、葉亞來と張昌の衝突が本格化する直前、1870年3月までのKlang地区の攻防を説明します。
Raha Abdullahの息子Ismailは Tungku Kudin の支援を受けて、Klan市街を包囲し、Raja Mahdi を Klang から追い出します。
当初は、Ismailが単独で攻め込みました。
彼はKlang川の河口付近から静かに侵入して、Raja Mahadi側の拠点を段階的に奪っていき増田。この攻撃の資金はIsmailがマラッカ地区の華人商人から借金をして準備しています。
IsmailがKlang地区に潜入して静かに陣地を拡大し始めてから、2カ月が経過したころ、遂にTungku Kudinが約500名の兵士を従えてKlangに到着します。KudinとIsmailは共同してKlang の要所を包囲し続けたところ、Raja Mahadi は1870年の3月に抵抗を止め、Sungei Buloh 地区に退避します。
Sultanの名義人であるTungku Kudinが指揮する正規軍がRaja Mahdi を討伐した形になりました。
しかし、この程度ではRaja Mahadiはギブアップしません。
支援者も居ました。Jeram地区の領主Raja Aliと、Bernam 地区の領主Raja Hitamです。2名の地方領主の支援をえたRaja Mahadi は、北のKuala Selangor に攻め入り、その地域の領主であるRaja Muda Musa を打ち負かして追放してしまうのです。
このような事態を避けるため、予めSultan Samad側は手を打っていました。Kuala Selangor 地区の防衛軍団として、Sultan の従弟(義理の兄弟)で、百戦錬磨の軍人Syed MashhorをKuala Selangorに送っていたのです。
ところがです。
予想外の出来事により、Sultan の秘策は、むしろ逆効果を生んでしまいます。
Syed Mashhorは、Kuala Selangor への移動途上で、弟が殺害されたという訃報を受け取り、大きなショックを受けます。殺したのは外でもない Sultan Samd の子供のひとりだというのです。これを知ったSyed Mashhor は激怒。すぐに敵方のRaja Mahadi側に寝返り、Sultanへの報復を画策します。
繰り返しますが、Syed Mashhor は Sultan が頼る程の腕のある戦士です。
Raja Mahadiにとって、これほど有利な展開は有りません。
事実、Syed Mashhorは、KL地区のセランゴール戦線において、Raja Mahadiの名代として、司令官の立場で軍勢を指揮・統合しています。この人物による戦況の「読み」と「戦略」は、相手側のTungku Kudin や葉亞來たちを、降伏の一歩手前まで追い詰めたのです。(次回以降に解説予定)
反乱軍が Raja Mahadi ひとりの部隊であったなら、大規模な戦闘活動は展開できなかったはずです。Mashhor の弟の殺人事件は、セランゴール戦争の戦況を大きく変えてしまったのです。
しして、この時期、Syed Mashhorは、葉亞來を敵視していた張昌とも利害を共有し始めています。
最後まで読んでいただき、有難うございます。
次回は、第1期KL戦である「Ampang の戦い」を紹介しています。記事はこちらです。