【MM2H情報】真説KLが生まれた19世紀<12>

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この記事は、本編【MM2H体験】の関連記事です。馬国の「おすすめ情報」まとめ記事はこちらです。

前回の記事はこちらです

前回までのお話で、Raja Mahdi というスルタンの血筋の領主の息子と、恵州客家の張昌という悪賢い華人実業家の話をしました。

どちらも、マレーシアの歴史においては、「悪役」として紹介されています。

特にスルタンの血筋の Raja Mahdi は、人を人とも思わないような悪辣な人物だったように伝えられています。本当にそうでしょうか?

何が彼をモンスター級の「ヒール(悪役)」にしたのでしょうか? 

今回は、「張昌」にひき続き、あわよくばスルタンの候補になりそうだったRaja Mahdi の人物像を深堀りします。

今回新たに登場する Syed Mashhor についても説明を掲載してあります。

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Raja Mahdi の独白(創作)

探しましたが、本物の Raja Mahdi の写真はこれだけのようです。

Klang War の発端を作った張本人といえば、Sultan Muhammad Shah の愛人の息子の子供、つまりSultan の「孫」にあたる Raja Mahdi です。

愛人、あるいは「妾(めかけ)」は伝承されている表現では concubine と記載されています。このことの唯一の情報源は Kongsi Networks です。Wikipedia を調べても、シンガポール国営大学の情報でも、Sulaiman の出生については記載がありません。

筆 者
筆 者

考えうる限りの(当時の)Raja Mahdiの「腹の中」を架空の独白文にしてみました。

セランゴールの領主諸君、俺の話を聞いてくれ。

俺(Raja Mahdi)は、好きでこんな地域紛争を始めたんじゃない。俺がどう言う目にあってきたか考えればわかるだろ。

俺の爺さん、Sultan Muhammad Shah が死ぬ前に、俺の親父の Raja Sulaiman を降格させたのは知ってるさ。でもな、あれは親父の問題だ。俺には責任はないんだ!

確かに俺の親父は正室(正当な配偶者)の子供じゃないさ。だがな、血筋は血筋だ! 親父と俺は Sultan Muhammad Shah の「直系」Bugisの子孫なんだ。

知ってると思うが、1860年に継承が決まった Selangor Sultan の Abdul Samad は直系じゃないよ。SamadMuhammad Shahの息子じゃないんだ。彼の兄弟の息子だ。「甥っ子」だよ。「直系」じゃないんだよ。

しかも、Abdul Samadは56歳のじじいだよ。もう寿命が来てもおかしくない歳だ。

なんで「あいつより若くて地域領主の現役」の俺が後継者にならないんだよ!

現代風にイメージすると、Raja Mahadid はこんな感じでしょうか? image photo by envato elements (all rights reserved)

俺は、Samadよりずっと若いんだ。後継者の検討対象になってもおかしくないはずだろ。

Samadから「棚ボタ」で クランバレーの利権を取った、あのRaja Abdullahってのは、とんでもないやつだ。

彼は、Bugis族といっても、リアウ島の血筋だから、爺さんの血統とは違うんだよ。Raja Jumaatも同じだ。だから Sultan 候補にもなってなかった。そうだろ!

それが、クランバレーの利権を全部持っていって、元祖クランバレー領主の子の俺には、毎月の「お小遣いだけ」だ。一体これはどういうことだ!

スルタンの後継に選ばれないのは、我慢してやってもいいさ。だが、直系Bugis族の俺が、継承するはずだったクランバレーの既得権を奪われて、「小遣い」程度の Abdullahの「お目溢し」でごく一部の利益しか供与されないと言うのは、全くもって我慢ならん。不当で、理不尽で、不公平じゃないか!

Sultan を継承したAbdul Samadもその辺わかってるんだから、ちゃんと采配してくれてもいいはずだろ。ところが、Samadときたら、奥に引っ込んで遠巻きに見てやがる。

俺に言わせれば、クランバレーの徴税額の半分以上は俺に権利がある。Abdullah がほとんど全部持っていく権利はないはずだ! このままでは済まないぞ!

俺は、正面から戦って、スルタン継承権利もかけて、敵対する領主連中を叩き潰してやる。

セランゴールの北の領主達は、俺のタイトルを理解しているから、戦いに勝てば彼らにも応分の利益を与えてやるさ。だから彼らはついてくるはずだ。

Sultan が代理人として選んだ、あの、Kedah のSultanの弟(Tungku Kudin) なんかに利権を渡してたまるか。

Samad もSamadだ、俺の許嫁(いいなずけ)をよそ者のKudin なんかにに渡しやがって、俺に対して失礼千万じゃないか!

image of anger. image photo by envato elements (all rights reserved).

Syed Mashhor の評判は聞いてたよ。あいつは稀代の戦争屋だからな。SamadとKudinの配下であいつが敵になるのは困ったことだった。ところが、Samadの息子があいつの兄弟を殺したもんだから、戦争屋のMashhorは俺の陣営に取り込めることになった。こいつは好都合だ。

Yap Ah Loyについても、俺は以前から評判を聞いていたから、味方につけようと思ってた。とにかく、敵にはしたくはなかったんだ。ところが、彼はKapitaになったもんで、ご丁寧にAbdul SamadにKapitan就任の挨拶に行きおって、ついでにTungku Kudinと手を結みやがった。

まあいいだろう、Yap を憎んでいる連中もいるんだ。Chong Chong (張昌)が Yap と戦ってるというじゃないか。俺はそいつらと組んで Yap のKLを乗っ取ってやるさ。

これからセランゴールの俺の息がかかった連中を総動員して、セランゴールの支配体制をひっくり返してやる。

俺はSamadから力ずくでスルタンを継承する。

その日になって後悔したくなければ俺の陣営について支援するんだな。SamadSutan PuasaKudinと敵対する奴らは、俺のところに集まれ。

勝ったら利権を分けてやるぞ!

スルタンの座を狙った Raja Mahdi

戦士 Syed Mashhor の来歴

Syed Mashhor bin Syed Muhammad Ash-SahabSyed Mashhorとも表記される )は現在のセランゴール州、Langat 生まれ。彼の父、Syed Muhammad Ash-Sababは、ポンティアナック(西カリマンタン)出身のアラブ系マレー人。Sultan Abdul Samad は、Syed Mashhorの母方のいとこです。

Syed Mashhor は19世紀セランゴールでは名のある経験豊富な戦士。当初は、Sultan Abdul Samad からKuala Selangor (領主名 Raja Musa)の防衛の長になるよう要請され、 Raja Mahdi の手に落ちたKuala Selangor 地区を取り戻す任務を与えられていました。

Syedd Mashhor は左側で傘の下にいる剣を持った男。右下に座して写っているのが、Sultan Abdul Samad. from wikipedia “Syed Masshor”.

しかし、軍隊を率いてKuala Selangorを攻撃中に、弟のSyed Abdullah Sultan Samad の息子の手で殺害されたという知らせを受けまる。激怒したSyed Mashhor は Sultanから与えられた任務を放棄し、敵方の Raja Mahadi 側につきます。

有能な戦術か出会った彼は、Raja Mahadi陣営の戦闘部隊の司令官として、セランゴール戦争において協力で重要な動きを続けます。彼の動きがなかったら、おそらくセランゴール戦争は、早期にSultan Samad (Tungku Kudin 参謀)や 葉亞來たちの勝利で終わっていたはずです。

Sultan 軍とMahadi軍の勢力バランス

1970年に戦況が激化する頃には、局所的な利権争いだった対立構造は、セランゴール全体を巻き込み、スルタンの権威さえ危ぶまれる2大勢力の覇権争いに発展していました。


Sultan 陣営反乱陣営
当事者Sultan SamadRaja Mahdi
代理人・参謀Tungku KudinSyed Mashhor
華人参謀葉亞來・恵州客家張昌・嘉応州客家
同盟Kedah軍, Pahan軍州内の北方領主
造反分子Sutan Puasa
英国の干渉友好的敵対的
Sutan Puasa の造反については、この後のお話に出てきます。

Sultan Abdul Samadの代理人であるTungku Kudin を総督とする集団が「正規軍」であり、Raja Mahadiの下のSyed Mashhor を司令塔とする武装集団が「反乱軍」。

そして、首都KLの開発に大きな貢献をした葉亞來は、この時「正規軍」、嫉妬に燃える張昌は「反乱軍」に加わることになります。

葉亞來が Sultan の正規軍に加わった経緯

1869年にKanching 近郊で起きた、葉四の暗殺と、その後の葉亞來Sutan Puasaたちの従者によるKanchingでの悲劇的な衝突により、KL地区の葉亞來の武装勢力と Mandailing族の Sutan Puasa の勢力の両方を敵にした張昌軍団。

張昌軍団はKLの葉亞來の恵州客家集団への対抗手段として、より大きな武装集団を指揮するRaja Mahadi Syed Mashhor と合流しました。この合流は、当時小集団だった張昌の嘉応州客家グループとして好都合でした。

張昌は、Raja Mahadiのセランゴール征服の野望を支援することで、「甲必丹」葉亞來が率いる恵州客家集団の殲滅を目指していたのです。

それだけでなく、セランゴール全土の覇権が Mahadi に渡れば、張昌と嘉応州客家集団は、赤邦(Ampang )地区の錫鉱区の操業権も奪取できると考えたかもしれません。

一方、葉亞來は、「甲必丹」就任の報告のために、80人の部下を伴ってスルタンの本拠地Langkatを訪ねたのですが、

この儀礼的訪問時に、偶然居合わせた Tungku Kudin に直接面会することになったという史実が残っています。当時のSultan の権威は高かったので、流石に葉亞來は否定的な対応はできません。

この訪問を境に、中立を旨として戦況を見ていた「葉亞來Tungku Kudin 側と連合した」という情報がセランゴール全体に伝わります。

これを聞いたRaja Mahadi は、「反 Yap 」の立場をはっきりと意識したと伝えられています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

次回のお話は、いよいよクラルンプールが反乱軍の攻撃を受け始める史実です。

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