【MM2H体験】おすすめ探訪(40)マラッカ(後半)

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この記事は、本編【MM2H体験】の詳細記事です。「おすすめ」のまとめ記事はこちらです。

筆者、2年以上居住していながら、殆ど何も調べずに過ごしていたマラッカの沿革です。

ポルトガルとの武力衝突と対立の歴史が、予想以上に複雑だったので、マラッカの記事は3分割になってしまいました。しつこくて申し訳ございません。

日本人の視点ですが、マラッカの史跡は、京都や奈良の史跡、北海道や屋久島の自然、数々の湖に比べるとすこし見劣りがします。感動が少ないのです。

ですが、マラッカが過去どのような状況にあったかを知ることで、一見物足りない史跡も、観る意味が違ってきます。そういう意味で、この記事が少しでもご参考になることを希望しております。

この記事を書き終えた今、筆者も「近いうちに、もう一度マラッカを訪ねよう」と思うようになりました。

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オランダ領マラッカ

ポルトガル領マラッカが、オランダとマレーの連合軍に敗れた事実は「中盤」の記事でご紹介しました。

オランダ領マラッカ(1641~1825)は、マラッカ史上の外国支配の期間で「最長」の記録。ナポレオン戦争(1795~1815)中の一時的なイギリス占拠を除き、ほぼ183年間の統治でした。これがオランダ領マラッカのポイントです。

Wikipedia “Dutch Malacca” ( by HuskyBot )

1606年にオランダとジョホール国の間で結ばれた合意の効力もあって、旧マラッカ王国からの武力攻撃が無くなった平穏な時代でありました。

一方、この時期はマラッカの重要性が失われた時期でもあります。「オランダ領アジア」の経済と行政の中心地は、現在のジャカルタであるバタヴィアでしたから、マラッカ支配の目的はもっぱらヨーロッパ列強諸国からの侵略防止と、この地域での競争激化の防止でした。

Map of the city and fort at Malakka1780, Wikipedia “Dutch Malacca” (by Magnus Manske)

17世紀にはマラッカは、もはや重要拠点ではなくなり、マレー半島南部の主要な権力は、ジョホール国に移ったのです。これは同国がオランダとの同盟を持ち、港の開放を行った結果です。

この時期のマラッカは、オランダ東インド会社(略称「VOC」)の植民地として統治されていました。最高行政官は、(ナポレオン戦争中に一時的にイギリスの居住者に支配されていた期間を除き)すべてオランダの総督でした。バタヴィアに焦点を合わせた行政だったので、マラッカの行政に対する関心は薄れていきました。

都市開発の話題としては、オランダ人は、ポルトガルの要塞に改良と拡張を施し、1670年には要塞の門を再建。さらに港を守るための城壁を築き、市街を拡大しました。

1650年、市街中心部にスタダイス(行政官が執務する3階建ての建屋と時計塔)が建設され、植民地の行政センターとして機能開始、後に英国に引き渡された以後も有効活用されながら現存しています。

日本はというと、このとき徳川家光の時代で、やはり戦乱の世ではなく、比較的安定した時代でした。

Source Wikipedia “Stadthuys“ (by Jeroen)

イギリス支配

1824年の英蘭条約によって、マラッカはイギリスに割譲されました。スマトラ島の一部との割譲交換でイギリス領になったのです。 以後、1942年までの118年間、マラッカはイギリスの支配下にありました。(最初はイギリス東インド会社、その後は「クラウン・コロニー」と呼ばれたイギリスの植民地)

つまり、マラッカはポルトガル、オランダ、イギリスと欧州3国が430年間も統治していた場所なのです。マレーシアが独立してからまだ100年も経過していませんから、この430年という期間の長さは特筆すべきです。この地域は、歴史的には、ごく最近までヨーロッパ圏だったのです。

英蘭条約までは、イギリスとオランダの植民地がマレー半島とスマトラの各地に混在していたのですが、この条約で両国の植民地の境界がほぼ決定。今日のマレーシアとインドネシアの国境線はこれに由来するものです。

マラッカの北側に位置するナニン地区において、イギリスの統治に不満を持った首長が居ました。この首長「ドル・サイド」が、1831年に主権をかけてイギリス東インド会社と戦った経緯がありますが、うち伏せられています。(イギリス統治と税務を不服とした闘争)

Great Malaysian Railway Journeys 1910年のスタダイスとキリスト教会

マラッカは、シンガポールとペナンとともに「海峡植民地」の一部でした。第二次世界大戦中の1942年から1945年まで、一時的に日本帝国の支配下に入りましたが、当地の文化や行政に大きく影響した話はありません。(日本の短期間のプレゼンスはシンガポールでのみ具体化していた)

戦後の近代マラッカ

海峡植民地時代、第二次大戦、そして、それ以降のマレーシアやマラッカの歴史は、ネットに数多く出回っています。ウイキペディア情報も殆どは日本語版で参照できます。

従って、この記事からは除外させていただきます。

マラッカの歴史と日本

最後に、王国時代、ポルトガル領、オランダ領の3区分について日本の歴史との関係をおさらいしてみます。

マラッカ王国(1400―1511)

日本の15世紀は、室町幕府と南北朝の時代で、大きな史事としては、1404年からの明朝との交易の開始と、1467年の応仁の乱(内乱)です。

明朝は1405年に鄭和の商船群を東南アジアに派遣していますから、明朝がアジアに大きく接近していたわけです。

このころ、マラッカはマジャパヒット帝国・アユタヤからの脅威にさらされていたわけですが、日本はもっぱら武士と天皇の利権争いで、対外的な問題はなく、キリスト教や銃器の伝来もまだですから、武士と刀の時代でした。

マラッカは既に1430年前後にイスラム教が伝来して「スルタン制」と始めていますので、日本は仏教国、マラッカはイスラム国という絵ができあがっていたわけです。

ポルトガル領マラッカ(1511-1641)

この時期は日本もマラッカも戦乱と混乱の時期になりました。

マラッカがポルトガルに攻め落とされて落ち着くころに、日本にはポルトガルの鉄砲技術が伝来(1540年)、そして同じポルトガルからはキリスト教が伝来(1549年)しています。

そしてポルトガルと旧マラッカ王国のせめぎ合いが続いていた頃、日本では織田信長が天下統一を果たし(1568年)、本能寺の変を経て豊臣秀吉の時代(1590年)、そして徳川幕府の時代(1603年以降)までマラッカはずっとポルトガル支配です。

オランダ領マラッカ(1641-1824)

前述のとおり、マラッカはあまり波風のたたない期間でしたが、日本も徳川幕府の全国統制が定着していました。オランダはアジアで隆盛していましたから、日本でも「蘭学」が優位にありました。

尚、1776年から1783年にかけてアメリカ合衆国が成立しています。この時期も、マラッカはオランダ領でした。

1824年の英蘭条約の時期も、日本は江戸時代であり、ペリーが来たのが1853年、大政奉還は1867年です。

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現在のマラッカ川 source : wikipedia “Malacca”

3篇にわたるマラッカの記事を参照いただき、ありがとうございました。完了です。

🔳 マラッカの記事 → 前半(マラッカ王国)・中盤(ポルトガル支配)

🔳 マレシアの「おすすめ」80選 → まとめ記事はこちら

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