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マラッカの「中編」は、東南アジア地区に始めて侵入した欧州列強であるポルトガルの侵攻に関する詳細です。
この記事は、マラッカの歴史関連の資料とともに、次の2編の英語版 Wikipedia を再編成したものです。転載した写真も全て以下の2件の英語版ないしはポルトガル語版のものです。
ポルトガル遠征にまつわる東西の疑心暗鬼
マラッカの勃興の情報は、ポルトガル国王マヌエル1世の興味を引きます。そこでマヌエル1世は東洋を担当する艦隊指揮官を派遣してマラッカと接触し、統治者と貿易協定を結ぶよう折衝させます。
艦隊指揮官のセケイラの遠征は、4隻の船からなる艦隊で、セケイラは東南アジアに到達した最初のヨーロッパ人でした。
セケイラは、マダガスカルの地図を作成し、中国に関する情報を収集する役割も担っていました。ポルトガル国王の命令を受け、あくまで外交的に、交易拠点を開設する許可を獲得するよう指示され、平和的な貿易を行い、挑発には応じず、攻撃されない限り発砲しないように命じられていました。
彼の艦隊は1509年にマラッカに到着。当初はマラッカの頭首スルタン・マフムード・シャーに歓迎されましたが、間もなくトラブルに巻き込まれました。イスラム教徒とキリスト教徒の対立です。
スルタン側の宮廷内のムスリム勢力が反意を示し、近隣諸国のムスリム系商業コミュニティがマフムードに「ポルトガルは、大きな脅威である」と献言。すると、マフムードはポルトガルに対して態度を変え、停泊していた船4隻を攻撃、関係者数人を殺害、数人を捕虜にして、マラッカで拷問を加えてしまいます。
ポルトガルは、インドの拠点であるゴアの攻略で同様の経験をしていました。そして、マラッカでのプレゼンスを確立するためには、この地を「征服する」しか方法は無いと結論づけます。
アルバカーキの遠征と戦闘
1511年4月、熟練の植民地行政官・軍人のアフォンソ・デ・アルバカーキが、約1200人の兵士と17~18隻の艦隊を率いてポルトガル領インドのゴアからマラッカに向けて出航します。
この遠征はポルトガル領のコーチンから出発しましたが、モンスーンのために引き返すことはできませんでした。この作戦が失敗した場合、アルバカーキは増援も期待できず、インドの拠点に戻ることもできなかったでしょう。つまり片道切符だったのです。
アルバカーキは、マラッカに対して幾つかの要求をしました。そのひとつは、「ポルトガルの商業拠点として、マラッカ市の近隣に要塞を建設することの許可」でした。マラッカのスルタンはこれを拒否。両国は戦闘状態に入っていきます。
7月1日までに、艦隊はマラッカに到着し、大砲を打って戦闘態勢を明らかにします。これで港はパニックになります。アルバカーキは、許可なく船を出港させないよう通告。マラッカに閉じ込められた捕虜の安全な帰還を交渉しました。そして、スルタンの行為を反逆行為と断定、捕虜が(善意の印として)身代金なしで返還されることを要求したのです。
マフムード・シャーは曖昧で回避的な回答を返し、ポルトガル側が平和条約に署名することを要求しました。
その間、アルバカーキは囚われていた捕虜からスルタンの軍事力についての情報を取得していました。それによると、スルタンが動員可能なのは2万人の兵士、トルコとペルシャの弓兵、数千の砲台、そして20頭の戦闘用の象であるとの情報でしたが、十分な砲手が不足しているという評価でした。後日、アルバカーキは国王に対して、戦闘準備が出来ていたたのは4,000人程度であったと報告しています。
この時、アルバカーキの部隊は総勢でも1200人でした。マラッカのスルタンはポルトガル軍を過小評価していたと伝えられています。
交渉が数週間停滞した後、7月中旬にポルトガルは都市を砲撃しました。スルタンは驚き、即座に捕虜を解放します。そこでアルバカーキはさらなる補償を要求。具体的には、「30万クルザードと、どこでも要塞を建設する許可」を求めました。スルタンはこれを拒否。本格的な戦闘状態に入ります。
マラッカは大砲こそ装備していましたが、ポルトガルの武力に対抗できず、40日間の戦闘の後、マラッカが1511年8月24日にポルトガルに陥落し、スルタン・マフムード・シャーはマラッカから敗走したのです。
ポルトガル人は28人の死者と、多くの負傷者を出しました。マフムード・シャーが持っていた多数の砲兵と銃火器はほとんど効果が無く、ポルトガル軍の死傷者の大部分は毒矢によるものでした。
スルタンは退去させられましたが、戦いからはまだ離脱していませんでした。彼はマラッカの南数キロメートルに撤退し、ムアー川の河口で艦隊と合流し、ポルトガル人が市を略奪し終えた後に市を放棄するのを待つキャンプを設営しました。
華人コミュニティの動き
この記事の前編ではマラッカと中国の外交を紹介しましたから、ポルトガルとの衝突時に中国側がどう動いたのか気になります。
実は、華人コミュニティは、このときスルタンを擁護せず、ポルトガル側に「何か役立つことができるなら手伝う」と申し出ていました。アルバカーキは、攻撃が失敗した場合に、華人が報復を受けないよう、支援の内容をほんの数隻のバージ(艀)に限定しています。
ポルトガル勢は華人コミュニティが安全な距離から戦闘状況を見られるよう、彼らのガレー船に招待し、マラッカから退避したい者はすぐに出帆できるよう許可しました。このことから、中国人はポルトガルに非常に良い印象を持ったのです。
しかし、この動ぎは、大陸側の明朝の意志と必ずしも一致したものではなく、あくまでマラッカ在住の華人コミュニティの動きとして捉えるべきです。
半世紀以上の地域闘争
アルバカーキはマフムード王による反撃に備えてマラッカ川の河口の南、モスクの跡地に要塞を設計・建設しました。そして1511年11月までマラッカに滞在し、マレー人による反撃に備えています。
侵略に成功したとは言え、ポルトガル占領下のマラッカは、東南アジアにおける初のキリスト教系貿易拠点でした。このため、多くの先住民イスラム国家に囲まれ、敵意のある目で見られていました。そして、マラッカを取り戻したいマレーのスルタンたちとの数年にわたり対立。スルタンも何度も首都を奪還を試みています。
マレーのスルタン側は、ジャワのデマク王国の支援を求め、1511年にデマク王国は海軍部隊を派遣することに同意しています。ただし、マレーとジャワの共同戦線は失敗し、ポルトガルの反撃により、スルタンはパハンに駆逐されます。
その後、スルタンは、現在のシンガポールの南東にあるビンタン島に航海し、そこに新しい首都を建設。基地が確立されると、スルタンは混乱したマレー軍を結集し、ポルトガルの拠点に対する攻撃と封鎖を組織しました。
1521年には、マレー側から第二次の遠征が行われましたが、再び失敗(デマクのスルタンが犠牲)しています。
そして、1526年、ポルトガルがついににビンタンを壊滅させます。そして、スルタンはマレー半島の対岸のスマトラ内部であるリアウのカンパーに撤退し、2年後に亡くなります。
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1568年、アチェ王国のフサイン・アリ・リアヤット・シャー1世はポルトガルをマラッカから追い出すために海上攻撃を開始しましたが、これもまた失敗に終わりました。
写真:1568年にマラッカでアチェ国の軍隊に包囲されたポルトガルの描写(作者は不明)。時の指揮官はドン・リオニス・ペレイラで、彼は200人のポルトガル人とともに防衛しました。敵は300隻の船と15,000人の兵士を連れており、多くのトルコ人と他国の人々、さらに10,000人の労働者。指揮官は包囲を解除させ、兵士4,000人、主要な将校と兵士を殺し、彼から一部の砲兵を奪取。
Wikipedia “Portuguese Malacca” ( by Wareno )
1574年にはアチェ王国とジャワのジェパラからの共同攻撃が再びマラッカをポルトガルから奪おうと試みましたが、戦力不足で失敗。
現代のパレスチナ地区の如く、戦闘の絶えないマラッカは、次第に通商ネットワークから疎外され、ジョホールなど他の港との過当競争に直面します。
そして、アジアの商人はマラッカを迂回し始め、都市は貿易港としての地位を低下させ始めました。
このように、ポルトガルはマラッカ支配を確立するという野望を実現できた半面、アジアの貿易ネットワークをひどく混乱させてしまったのです。
当時のマラッカ市
ポルトガル領マラッカの概要です。
この都市にはアラビア人、ペルシャ人、トルコ人、アルメニア人、ビルマ人、ベンガル人、タイ人、ペグー人、そしてルソン人など、多くの商人コミュニティが存在。
最も影響力があったのはイスラム教徒のグジャラート人とジャワ人、コロマンデル海岸のヒンドゥー教徒、そして中国人でした。
ポルトガルの薬剤師トメ・ピレスによれば、1512年から1514年までの間に最大で84の方言が話されたとされています。
アルバカーキは人口を約10万人と推定しましたが、現代の見積もりでは約4万人の都市とされています。
この都市は湿地地帯に建設され、厳しい熱帯の森に囲まれており、生計に必要なすべてのものを輸入する必要がありました。たとえば、重要な食糧である米はジャワから供給されていました。マラッカの人口を支えるために、少なくとも年間100隻のジャンク船がさまざまな場所から米を輸入していました。そのうち約50〜60隻はジャワから、30隻はシャムから、20隻はペグーから来ていました。
マラッカには約10,000の建物がありましたが、ほとんどの建物は藁でできており、約500の建物のみがレンガで建てられていました。また、適切な防御施設が不足していました。当初は、竹の柵以外の城壁がなく、これは一時的な防御のために設置されました。
そして、裕福な商人たちは、商品を地下の倉庫で保管していました。
ポルトガルの行政と外交
アルバカーキは住民に対して、通常通り自分たちの事を進められることを保証しました。
ニナ・チャトゥはマラッカの新しいベンダハラであり、ヒンドゥー教コミュニティの代表に指名されました。実は、このインド系の人物ニナ・チャトゥこそ、アルバカーキと、マラッカに拘束されていたポルトガル人捕虜との連絡役を勤めたポルトガル国の支援者だったのです。
ジャワ、ルソン、マレーのコミュニティも独自の法官を持つようになりました(ただし、ジャワの代表ウティムータ・ラジャは、亡命中のスルタンとの共謀のためにすぐに処刑され、交代)。
ローマ法に従ったポルトガルが、マラッカで行った初の裁判は、正義の行為として評価されています。
ニナ・チャトゥの支援を受けて新しい通貨が鋳造され、11頭の象の上から市民に投げられました。伝令がポルトガル語とマレー語で新法を宣言し、ポルトガルの軍隊がトランペットとドラムを演奏しながら行進し、現地のアジア人に欧州列強の文化を印象づけました。
同盟国を確保するためにペグーとシャムに外交使節が派遣され、重要な食料供給源である米などの供給業者を見つけるために、ポルトガルに敵対的なジャワ人に変る取引が模索されます。アルブカーキはマラッカ攻撃中、使節をシャムに送り、外交使節の交換しています。
アルバカーキは戦前からヒンドゥー教徒などの商人コミュニティの代表者の訪問を受け、ポルトガルを支持する意向を伝えられています。 また、シャム王はマフムード・シャーを軽蔑してポルトガルを支持しました。ペグー王国もポルトガルを支持することを確認し、1513年にペグーからのジャンク船がマラッカで貿易に到着しました。
アルブカーキが市に滞在している間、多くのマレーとインドネシアの王国からの使者や大使が到着し、ポルトガル国王に捧げる贈り物を献納。アルブカーキがマラッカを去った際、市民はその出発を悼みました。
ポルトガルと中国
マラッカには、明の法律に反して中国から流れてきた華人商人のコミュニティが存在しました。おそらくスルタンからはあまり良く扱われなかったのでしょう、ほぼ全員がポルトガルを支持し、隣接国とポルトガルとの関係をとりもったのです。見返りにポルトガルの安全保障と通商支援を行い、華人コミュニティは利益を得ています。
この頃、ポルトガルと中国(明朝)は始めて交易を開始しています。1516年、マラッカにも滞在していたポルトガル外交官のトメ・ピレスはマヌエル1世王が中国の正徳帝に派遣した使節団を率いて広州に向かいました。
ピレスは1521年1月に北京に到達しましたが、その前にマラッカのスルタン・マフムドからの使節が陳情しており、ポルトガルとの紛争に関する援助を正徳帝に訴えていました。後継者である建靖帝は、これを受け手ポルトガル使節団を広州で人質とし、ポルトガルがマラッカをスルタン・マフムドに返還するまで解放しないと決定したのです。
使節団のほとんどまたは全員が財産を奪われ、拘禁され、多くが捕虜として残酷な扱いを受け手死亡、あるいは処刑され、中国でのポルトガルの活動は禁止されました。
それでも、多くのポルトガル人がマラッカから中国への貿易や密輸を継続していたようです。
段階的な関係改善と中国沿岸での日本の倭寇(海賊)の討伐支援の功績が認められ、1557年に明はついにポルトガルのマカオ(澳門)での定住を許可しています。観光地マカオの発祥です。
ポルトガル勢力の終焉
17世紀初頭に、「オランダ東インド会社」が東洋のポルトガルの権力と対立します。
当時、ポルトガルはマラッカを攻略困難な要塞に変え、マラッカ海峡の海上航路とその地域の香辛料貿易へのアクセスを制御し、1568年にアチェからの攻撃を撃退していました。
オランダとの衝突は、当初は小規模な侵入や小競り合いでしたが、1606年に最初の本格的な試みとしてオランダ艦隊がマラッカを包囲、ケープ・ラチャードの海戦に発展しました。(11隻の船で指揮官コルネリス・マテリーフ・デ・ヨンゲが率いたVOC艦隊)
オランダは敗北しましたが、ゴア副王マルティン・アフォンソ・デ・カストロ率いるポルトガル艦隊はより多くの犠牲者を出しています。
そして、この戦闘はジョホール国の軍勢をオランダと連携させる引き金となり、後にアチェ国と同盟を結ばせる結果となっています。
同じ時期、アチェ国は強力な海軍力を持つ地域大国となり、ポルトガルのマラッカを潜在的な脅威と見なしていました。1629年にアチェ国のイスカンダル・ムダは数百隻の船を派遣してマラッカを攻撃しましたが、この作戦は壊滅的な失敗に終わりました。
ポルトガルの情報源によれば、彼のすべての船が壊滅、約19,000人の兵士を失ったとされています。
しかし、オランダは現地の同盟国と連携して、1641年1月にポルトガルからマラッカを奪います。
このオランダ、ジョホール、アチェの共同努力により、ポルトガル権力の最後の要塞が壊滅し、遂にその地域でのポルトガルの影響力が低下しました。
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オランダは都市に定住し、マラッカは遂にオランダ領となりましたが、オランダはマラッカを主要拠点とするつもりはなく、代わりにオリエントでの拠点としてバタヴィア(現在のジャカルタ)の建設に集中しました。
モルッカ諸島の香辛料産地にあるポルトガルの港も続く数年間でオランダに陥落し、アジアにおける最後のポルトガル植民地は、20世紀までポルトガル領ティモール、ポルトガル領インドのゴア、ダマン、ディウ、およびマカオに限定されることとなります。
まさに栄枯盛衰です。
最後まで読んでいただき、誠にありがとうございます。
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