マレーシア情報 セランゴールの歴史

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この記事は、本編【MM2H体験】の関連記事です。

クアラルンプールとプトラジャヤを含む8000km2のセランゴール州について、その成り立ちを確認しました。

やはり、スルタン国として、もっとも歴史が古いのはマラッカであり、ポルトガル以降のジョホールのようですが、セランゴール地域には紀元前の青銅器が出土しているようですね。

クアラルンプールに住む方、旅行される方は、この記事をご一読いただければ、セランゴール州がどのような歴史を持つ場所なのかわかるようになっています。

歴史を含む日本語の説明文書は、ネットでもなかなか見つけにくいです。

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セランゴールとは

セランゴールは、アラビア語の敬称であるダルル・エサン(真実の住処)としても知られています。マレーシア13州の1つであり、クアラルンプールとプトラジャヤの連邦直轄領を囲んでおり、マレー半島西海岸に位置、北はペラクに、東はパハンに、南はヌグリ・センビランに、西はマラッカ海峡に接しています。

州の山脈はティティワンサ山脈に属し、ミャンマー南部、タイ南部、マレー半島を覆うテナッセリム丘陵の一部です。

州都はシャー・アラムであり、王宮の首都はクランであり、最大の都市はカジャン。ペタリン・ジャヤ(PJ)とスバン・ジャヤ(SJ)はそれぞれ2006年と2019年に市の地位を得ました。セランゴールは、サラワク、ジョホール、ペナンと同様、市のステータスを有する都市を1つ以上含む4州の1つです。

2022年の国内総生産(GDP)RM3840億(約$820億)は、マレーシアで最大の経済規模であり、馬国GDPの25.6%を占めています。

マレーシアで最も発展した州であり、高速道路や交通などのインフラが整備され、人口も最大です。生活水準が高く、国内で最小の貧困率を誇ります。州の面積は8104km

地名「セランゴール」の由来

「セランゴール」という名前の起源は不透明で、堅固たる語源学的説明が無いため、さまざまな議論を呼んでいます。

一般的な説明は、マレー語の言葉「langau」(同地域の一部の湿地帯に生息するハエ)に由来するというもの。

地元の伝説によれば、ポルトガルによるマラッカの征服後に逃れた戦士が、旅の途中でここで休憩し、木の下で休息していた折、しつこいハエに悩まされ、それをきっかけにこの地域を探検することになりました。定住することを決定したとき、戦士はこの場所を「satu (se) langau」(大きなブローフライ)と名付けたそうです。

ある説明は、クアラ・セランゴールとセランゴール川沿いに見られる特定の木の種「mentangau」に由来する可能性があるというもの。

別の議論では、州の名前はタミル語で「町」または「村」を意味する「ur」を含む「Salang Ur」という用語に由来する可能性であり、サラン人の村を意味します。

また、「刺す」(salang)と「太陽で乾かす」(jemur)の2つの単語の組み合わせに由来するとも言われており、かつて「裏切り者が刺されてから太陽で干される場所」だったことに由来する可能性もあるようです。

歴史情報

マレー半島の古代人類の発祥がクラン地区だった可能性があります。根拠は、クランとその近くで発見された紀元前1500年前後の青銅器時代の斧や青銅製の鐘、およびクランまたはその近くで発見された「tulang mawas」(「猿の骨」)と呼ばれる鉄製の道具があります。

Photo : wikipedia “Selangor” 持ちもまれたものかもしれませんね。

以後、最初のマラッカ王国発祥の時代あたりからまとめてみます。

中世(15世紀)

1405年から1433年にかけて、明朝の鄭和がアジア地区を航海して作成した地図に、現在のセランゴールの位置にあたる「吉令港」の記述があります。

15世紀、セランゴール地域はマラッカ王国の支配下にありましたが、当時のセランゴールは統一された領域ではなく、クランやジェラムなどの個別の集落が河川流域に存在していました。

マラッカ5代目スルタンのムザッファル・シャーの統治下(1446-1459)では、クランの首長にはトゥン・ペラクが任命されたという記述が「マレー年代記」に残っています。

「マレー年代記」の伝説によると、マラッカの6代目スルタンであるマンスール・シャーと明朝から嫁入りした中国皇族の女性「ハン・リ・ポ」を両親とする息子が現在のセランゴール地域内のジェラムという集落の王(raja)に任命されたとあります。華人の流入の理由は、この場所に中国の鉱夫が来ていたためと考えられています。

ジョホール王国の統治時代

1511年にマラッカ王国がポルトガルに陥落すると、この地域はジョホール王国の支配下に入り、後にジョホールのベンダハラ家の息子であるSri Agar Dirajaが統治しました。

17世紀には、ジョホールがスマトラ川の種族との戦争に巻き込まれ、ジョホールのスルタンはその戦いに海を隔てたスラウェシ島南部のブギス人(Bugis)の傭兵を動員。ジョホールが1679年に勝利すると、ブギス人は(マレー半島に)留り、この地域で力をつけ始めました。

多くのブギス人がセランゴールの沿岸地域に定住。セランゴール川やクラン川の河口などがブギス人の移住地となっています。この時期、スマトラの西から出たミナンカバウ族(Minangkabaus)も17世紀か、あるいはそれ以前からセランゴールに定住していたようです。

セランゴール王国の発祥(1766)

スマトラからのブギス人とミナンカバウ族はジョホールの支配を巡って争い、ミナンカバウ族の支持を受けたRaja Kecilがセランゴールに侵攻しましたが、1742年にブギス人に追い払われました。そして、1766年、ブギス人の指導者Raja Salehuddinによって、現在の世襲セランゴール王国がクアラ・セランゴールを首都として設立されました。従って、セランゴールは、ブギス人によって設立されたマレー半島唯一の州として特異な存在なのです。

マレーシアの略歴とセランゴール王国発祥の位置関係 Wikipedia “Selangor”

19世紀には、セランゴールの経済は錫の埋蔵量の開発によって急成長しました。同地区のさまざまな地域で採掘が行われ、それがクアラルンプールの成長を促しました。

内戦

1854年、セランゴールのスルタンが、クランの支配をRaja Abdullahに授け、それ以前にクランを支配していた首長の息子Raja Mahdiを世襲から排除したため、セランゴールの内戦(1867-1874)が勃発。マレーの派閥間の争いは、錫の利権を巡る闘いでもありました。

錫の採掘には、中国から多くのの移民労働者が引き寄せられ、セランゴールの首長と連携した中国系の組織となり、利権争いに関与します。そして、ペラクとセランゴールのマレー人と中国系派閥の対立、および沿岸貿易を脅かす海賊に対する懸念が高まり、ついにマレー半島への英国の関与が始まるのです。

Sultan Abdul Samad 写真は同名の wikipedia から転載

1874年、セランゴールのSultan Abdul Samadは、イギリスが統治することを許容しつつもスルタンが明らかな統治者のままである制度でイギリス居住者を受け入れました。この時期は、マレー半島の民族が全域的にイギリス支配を受け入れ始めた時期です。

セランゴールより北のペラク州の地域では、錫鉱山の利権争い等で、中華系組織とマレー皇族を含む内戦が有り、これを英国(東インド会社)が関与して納めたのがパンコール条約(1874年1月)でした。この内容は「パンコール島」の記事の後半に詳細があります。

英国植民地時代

クランは1875年から1880年までの5年間、セランゴールのイギリス植民地行政の首都となり、その後クアラルンプールに移動されました。

イギリスによってもたらされた安定のもとで、セランゴールは再び繁栄しました。1896年には、レジデントのフランク・スウェッテンハムの協力により、セランゴールはヌグリ・センビラン、ペラク、パハンと結託してマレー連邦を形成し、その首都としてクアラルンプールを選びます。

マラヤ連邦とマレーシア独立、その後

マレー連邦は1948年にマラヤ連邦に発展。そして、1957年の独立となります。

連邦は1963年にマレーシアとして知られ、既存の州がサラワク、北ボルネオ、シンガポール(イギリス植民地)と統合されます。そして「クアラルンプール市」がマレーシアの国都およびセランゴール州都として機能することになります。

1974年にセランゴール州は「クアラルンプール」を連邦政府に譲り渡します。

セランゴールのスルタンは、連邦直轄領とセランゴールの境界にアーチを建て、このアーチを(BangsarとPetaling Jayaの間のFederal Highwayをまたぐ)Kota Darul Ehsanとして記念しました。譲渡後、州都はShah Alamに移されています。

新しい行政首都となるように設計されたPutrajaya (約49km2)は、連邦政府によってセランゴールで建設されます。Sultan Salahuddinは再び連邦政府に土地を譲渡するよう求められました。そしてPutrajayaは2001年に連邦直轄領となっています。

セランゴール王国

セランゴール州のスルタンは、セランゴールの立憲君主です。

1959年の憲法には、スルタンの職務、権限、および義務が規定されており、その中でスルタンの職務は州の行政権を有し、州内のイスラム教の宗教の長でもあり、また州内の「名誉と尊厳の源泉」であると宣言されています。

セランゴール王国の王級  Wikipedia “Selangor” より

この地位は世襲的で、唯一セランゴール王室のメンバーしか保持できません。現在の統治者は、2001年以来この地位を保持しているシャラフッディン・イドリス・シャー皇太子陛下(His Royal Highness Sultan Sharafuddin Idris Shah)です。

スルタンの写真は、まず上のスルタンの氏名+ wikipedia で検索して英語版にアクセスします。英語版の写真はピンボケなので、マレー語版(Bahala Malayu)に切り替えてください。鮮明な写真が見れます。

地理情報

セランゴールは、おおよそ8,000 km²の面積を持ち、マレーシア半島の西海岸に広がっています。この州は、北側がペラク州からのバーナム川、南側がヌグリ・センビラン州からのセパン川、東と南東がパハン州とヌグリ・センビラン州からのティティワンサ山脈、西がマラッカ海峡によって境界を成すとともに、西側でクアラルンプールとプトラジャヤの連邦直轄領を囲んでいます。

地形的には、セランゴールは海岸近くでは比較的平坦で、東に向かうにつれて丘陵地帯や山岳地帯に変化しています。州の東部および中央部を取り囲む丘陵や山が、実質的にクラン川の流域と流域を形成しており、これがクランバレーとして知られ、人口の大部分が集中する地域です。クランバレーは、しばしば「グレーター・クアラルンプール」と同義に使われることがありますが、両者の用語は異なる場合もあります。

セランゴールは、マレーシアおよび東南アジアで最も都市化が進んだ地域の一つであり、クランバレーを構成する都市には、州都であるシャー・アラムやクラン、連邦直轄領のクアラルンプールが含まれています。

クアラルンプールはかつてセランゴールの一部であり、1974年に連邦政府に割譲されて直轄領を形成しました。それに続いて、1995年にはセパン地区のプラン・ベサールが連邦政府に割譲され、現在の国の行政および司法の首都であるプトラジャヤとなりました。

セランゴールは、9つの地区に分かれています。

マップの番号と以下の区画の番号は一致しています。 source : wikipedia
  • Gombak
  • Hulu Langat
  • Hulu Selangor
  • Klang
  • Kuala Langat
  • Hulu Selangor
  • Petaling
  • Sabak Bernam
  • Sepang

最後まで参照いただき、ありがとうございます。

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