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パンコール島についても、丁寧かつ分かりやすい観光ガイドやブログが複数アップされていますので、筆者からは若干の歴史的背景等について紹介させていただきます。
馬国の島の観光情報を見てきましたが、今回のパンコールは面積において最も小さい島です。但し、人口密度が高いので、他の島と比較して「人密度が高い島」と言えます。
名称 | ペナン島 | ランカウイ諸島 | ティオマン島 | パンコール等 | レダン島 |
所属地域 | Penang | Kedah | Kedah | Perak | Terrenganu |
面積 (km2) | 2,465 | 478 | 136 | 18 | 25 |
人口 | 722,000 | 99,000 | 3,000 | 20,000 | 2,000 |
空港 | 国際空港 | 国際空港 | 国内空港 | – | 国内空港 |
アクセス | Penang Bridge | フェリー | ボート | フェリー | ボート |
半島側とは車の往来を遮断しているので、島民はほぼ全員が二輪車で移動しています。車は観光客用のものが充分動いているようです。
パンコールを取り巻く歴史
かつては近隣の漁師、商人、海賊が休憩する拠点であったパンコールですが、17世紀に、オランダ人がペラク州の錫の取引を監視するために砦を建設しています。(ごく一部が Dutch Fort として観光目的で残っている)
このコタ・ベランダ(オランダの砦)は、1670年に「オランダ東インド会社(VOC)」により海賊を威嚇する目的で建てられました。1690年に一度マレーシア人によって破壊され、1743年にオランダ人が再建しています。
1873年から翌年まで、本土ペラクの中国系秘密結社や王位継承にかかわる皇族の内紛から、地域的な内戦状態が悪化した時期があり、この時期にパンコールも内戦の影響を受けたと言う情報がありますが、具体的な被害については資料が見当たりません。
1874年には、イギリス政府とペラクの王位との歴史的な条約(パンコール条約)が締結され、ペラクの内戦が終息します。これがマレー半島全体を領土とするイギリス植民地支配の実質的な始まりとなりました。
その後、2000年代まで特筆すべき史実はありません。
パンコール条約については、この記事の最後に紹介します。
マリーナ・アイランド(人工島)
2000年代になり、パンコール等の対岸(半島側)にマリーナ・アイランド(人工島)が開発されはじめ、2010年に稼働を開始。2013年までに民間投資が行われ、複合開発リゾートに発展。ウォーターフロントの住宅、新しいジェッティ(マリーナ・アイランド・ジェッティ)、民間の商業マリーナ、サービスアパート、ホテル、店舗が開発されました。 ジェッティからはパンコール島への連絡船が運航しています。
2004年から2014年までの期間は、島と周辺地域の成長と開発の時期でした。 2006年には、台湾の投資によるバイオテクノロジーセンターが稼働を開始。活動には養魚と水産業が含まれ、初の収穫は2009年でした。
Batu Bersurat(碑文)
パンコール島の史跡のひとつとして岩に刻まれたBatu Bersurat(碑文)があります。
1700年代にオランダ兵によって何らかの記念で刻まれた大きな岩です。オランダ東インド会社の兵士は、1743年から1748年の間にこの地の要塞に駐屯しており、岩には1743年の日付が刻まれています。
この岩は歴史的な記念碑とされており、保護されています。
英語では、Sacred Rock、Inscribed Rock、Tiger Rockと呼ばれることがあり、オランダの高級官僚の息子を殺した虎の伝説がありました。しかし、この話はすべて間違いだそうです。
碑文にある絵は虎ではなくライオンであり、、当時のオランダの国章のライオンであることが確認されています。碑文の作者はあまり熟練していなかったかもしれません。絵の周りの線も、国章の赤い盾の形と同じです。
ライオンの彫刻の右にあるVOCのシンボルは、明らかに当時の「オランダ東インド会社」のシンボル(Vereenigde Oostindische Compagnie)であり、文字Aはおそらくその会社のアムステルダム商工会議所を表しています。
観光が収入源
観光はパンゴール島の住民にとって最も重要な収入源。2004年の津波以降、観光客はこのような災害を恐れているため、観光はやや減少しました。
連邦政府が2020年から免税地域となり、訪問者数が40%増加しました。 (2017年は103万人、2020年は142万人)
史実:パンコール条約(1874年)
1874年のパンゴール条約は、イギリスとペラクのスルタンとの間で1874年1月20日に締結された条約。ペラク沖の植民地蒸気船プルートで署名されました。
この条約は、マレー諸国の歴史において重要であり、イギリスによる統制を合法化し、マラヤにおけるイギリスの帝国主義の道を開いたものです。
マラッカ海峡の海峡植民地の総督であるアンドリュー・クラークによって主催された会議の結果でもあり、マレー半島の内戦(ラルット戦争)と、ペラクのスルタンの継承問題を解決するものでした。
時代背景(ぺラク州)と双子のトラブル
19世紀を通じてペラクは主要な錫生産国であり、既にペナン、マラッカ、シンガポールを植民地化していたイギリスにとっては重要な地域と見なされていました。
当時、地元のマレーのエリート層と中国の秘密結社との間での「ラルット戦争」( Larut Wars, 1861-1874)と、頻繁な中国の秘密結社同士の衝突によって、ペラクの鉱山からの錫の供給は乱れていました。内戦状態です。
1871年、ペラクの Sultan Ali が亡くなりましたが、相続人のRaja AbdullahでなくRaja Bendahara Sultan Ismailがペラクのスルタンと宣言されました。理由ははっきりしませんが、ここにスルタンの継承問題が発生しました。
もうひとつの問題は内戦です。当時、2つの中国の秘密結社、即ちChin Ah Yam率いるGhee HinとChung Keng Quee(鄭景貴)率いるHai Sanが、ペラクの錫鉱山の支配権を巡って絶え間ない戦いを繰り広げていたのです。
英国への政治的嘆願
Raja Muda Abdullahはこれらの2つの問題解決についてイギリスに訴えました。(シンガポールの友人、実業家のTan Kim Chengがシンガポールの英国商人と共にクラーク総督宛ての手紙を起草、Abdullahが署名)
その手紙の趣旨は、ペラクをイギリスの保護下に置き、「適切な能力を持った人物による良好な政府体制を示してほしい」というAbdullahの希望を表明したものです。
中華系の指導者も動いていました。1872年に、Chung Keng Queeが他の44人の中国の指導者と共同して嘆願書を提出。足元で起きている数千人から1万人規模の紛争解決のためのイギリスの介入を求めました。
イギリスは、これを好機と見ました。東南アジアでの影響力拡大と錫の輸出独占が視野にあったのです。その結果として、1874年のパンコール条約が締結されたのです。
結末
先にスルタンを宣言したRaja Ismailは、英国代表とマレー側代表で取り決められた会合に出席しませんでした。Raja Ismailは明らかにこの協定を認めていませんが、Raja Abdullahとイギリスの同盟を前に、もはや選択肢はありません。
結果として、Raja Abdullahがスルタンになり、別途、Perakの英国駐在官(初代レジデント・アドバイザ)が任命されました。
最後まで参照いただき、ありがとうございます。
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