【MM2H情報】クアラルンプール1RM周遊情報(3)

MM2H

この記事は、本編【MM2H体験】の詳細記事です。馬国の「おすすめ情報」まとめ記事はこちら

この記事はGOKLのPurple Route (P ルート)のバーチャル・ツアーの後編です。

前編はこちらです

さて、この「バーチャル・ツアー」の「後半」を準備したのには、理由があります。

P ルートのEast bound が、商業都市「クアラルンプール (KL)」が発祥した場所を通過するからです。

ですから、「さらっ」と説明して終わることが出来ないのです。

この場所、KLがセランゴール州の首都となり、独立宣言に繋がった歴史は「ムルデカ広場」の記事のとおりです。

KL地区が「セランゴール州の首都」になった1880年当時、マレー半島は大英帝国の統治下にあったのですが、その当時のクアラルンプールは、ようやく華人集団が商業や農業の拠点として「集落」ならぬ「町」を作り始めた時代でした。

英国とマレーのスルタンが両立する社会の中で、両方に従属していた華人集団もやはり「リーダー」ないしは「村長」的な人物を建てて、上位の権力者と交渉しながら、洪水や火事などの災害と闘いながら、地域のコニュニティーをまとめていたわけです。

クアラルンプール建設時の有力者であった、華人リーダー(マレー語で「カピタン・・・マレー語のkapitan = キャプテンと同意)こそが、Yap Ah Loy (葉亞來、1837-1885)でした。当時この人物の実力と権力はかなりのものだったようです。

彼は、錫鉱山の運営に関与しながら、警察機関が不在の1880年代にKLの犯罪者を取り締まったり、道路建設のような公共事業を取り仕切っていたのです。英国の依頼を受けて、自ら所有していた土地(現在のムルデカ広場とその周辺)を1エーカー当たり50ドルで提供した大地主です。華人の町が木造だったのを、全てブロックを使った燃えにくい建屋にしたのは Yap Ah Loy の指導によるものでした。

GOKLのPルートは、その富豪・大地主で功労者のYap Ah Loyが住んでいた場所からスタートするのです。

セントラル・マーケットと葉亞來 (Yap Ah Loy)

Sentral Market = Pasar Seni = 中央市場 ややこしいですが、全て同意語です。

Yap Ah Loyは病死する前に、この地に「中央市場」を作ることを華人社会に進言しています。実際に建設を計画・実行したのは英国政府であるという記事も多いですが、実際に建設したのは華人社会でした。

そしてこの中央市場(Pasar Seni)が開業したのは、Yap Ah Loyが亡くなった3年後の1888年だったのです。(何度も改造・移動しているので、当時の建物はもうありません)

GOKLのP ルートは、ターミナル駅から出発してPasar Seni の目の前で右折して、一度 Jalan Tun Tan Cheng Lok に入ります。このあたりは1880年代の華人街です。( Petaling Street だけではないです)

左折してPetaling Street に進んだバスは Bankok Bank停留所に止まりますが、この場所は Pasar Seni, Kasturi Walk に非常に近い位置にあります。

直ぐ近くに Sin Sze Si Ya という道教の寺がありますが、これは、Yap Ah Loy が(セランゴールの内戦時代に彼を助けた4人の守護霊に感謝して)1864年に建立した寺で、熱心な子孫たちが大事に保全している聖地です。地図上でムラサキ色で示したのがお寺で、矢印の位置にあるのが寺の門(この下の写真)です。

Bangkok Bank の停留所を経たのちに、右折して Jalan Yap Ah Loy に入ります。つまり、道路がYap氏の名前になっているわけです。

ここが、その葉亞來(Yap Ah Loy)の旧家があった場所なのです(今はありません)。

ですから、歴史に詳しいマレーシアの華人達にとって、この場所(その周辺)は極めて重要な場所なのです。

公式アプリの最新の情報では、East bound の最初の3つのバス停名が刷新されていました

  • Hab Pasar Seni (出発点です)
  • Central Market (Timur) (Kl102) (この記事と Google map では Bankok Bank のままです)
  • Bangunan Maybank (Kl103)  (Jalan Yap Ah Loy のバス停)

公式となった Bangunan Maybank (Kl103)

Pルートの東周り(East bound)の バスは鉄道駅でもある Pasar Seni Terminal を出て、Bangkok Bank を過ぎると、あとはJalan Yap Ah Loyから、延長線上のJalan Han Lekiu を通って Jalan Tun Perak にぶつかり、右折してちょっと前進した後に直ぐ左折して、シャトル・ルートの Jalan Raja Chulan に戻るわけです。

以前、この区間でバスに乗っている観光客は、ちょっと不思議な光景を目にしました。それは、Jalan Yap Ah Loy の中間にある、非公式なバス停です。

ここでは、大勢が乗り降りします。この場所には Maybank という大手銀行の支店もあるので、けっこう大きな停留所のような雰囲気だったのです。

改めて公式アプリをチェックすると、このバス停はBangunan Maybank (Kl103)として登録されていますので、間もなくGoogle map にも反映されると思います。

Jalan Yap Ah Loy は短い路地だが、このように、バス停が設置してあって、GOKLバスも、乗り降りのために停止してくれる。GOKLの運営であるDBKL(KL特別区の市庁は配慮しているのだと思われる)。新しいバス停名は Bangunan Maybank (Kl103)

Yap Ah Loy というクアラルンプールを創った「影の功労者」の自宅があった場所に、市民バスが「止まらないわけにはいかない」事情があると思います。

現地の住民がこの路線を利用する際は、「ここがKLを開発した大地主で、犯罪者を取り締まったキャプテン Yap Ah Loy の場所だったんだな」と思い出しているわけです。(イギリス統治が確立するまで、マレーシアには警察は存在していなかった)

独立時の「華人社会」と「英国行政区」の境界

Bangunan Maybank (Kl103) 停留所について、もうひとつ重要な情報があります。

このバス停を降りて、クラン川の方に歩いていくと、橋があります。これが、Klang River Bridgeです。

この橋を渡るまでは、大きく見て「旧中華街」で

あり、KLの庶民(特に華人)が長年住んできた町です。ですから、町はコンパクトで凝縮されていて、狭苦しい場所が沢山あります。

ところが、クラン川の橋を渡った先の地域は、完全に「英国統治時代の行政区」であり、大きく、格調ある建物が林立して、19世紀の欧州の行政区域そのものです。

馬国が持っている沢山の顔の中の「旧イギリス統治時代のなごり」と「昔からの中華街の場所」の違いをはっきりと体験できるのが、この橋の先と手前なのです。

中央をタテに流れるクラン川を境に、左側の大英帝国行政区(旧クアラルンプール首都中心部)、右側の19世紀からの華人居住区が広がる。中央のKlang River Bridgeを赤で示した。また中央市場と Sin Sze Sin Ya 寺をミドリで、Pルートは赤(East bound)とオレンジ(West bound)で示した。中央上部の小さな青い四角にMとあるのはマスジッド・ジャメの駅。

そして、橋を渡る直前の場所が、Yap Aha Loyが統治した最初の商業活動が行われた場所だったそうです。まさに、商業都市クアラルンプール発祥の場所なのです。

Yap Ah Loy地区から東へ

Yap氏の地域を過ぎれば、バスは Japan Raja Chulan に進みますから、次のバス停は Museum Telekom になります。このバス停から東は、このルートの前編の内容と同じです。

Purple Routeのバーチャル・ツアーはここで終了です。

次回以降、GOKLの別の路線を調査した上で記事をアップしていきます。

KLモノレールやLRT線との接続も、もっとわかりやすい絵が描けると思いますので、開発していきます。

最後まで参照いただきありがとうございます。

この記事は、本編【MM2H体験】の詳細記事です。馬国の「おすすめ情報」まとめ記事はこちらです。

P ルートの前半の記事はこちら

KLモノレールの記事はこちら

Kelana Jaya 線(LRT)の記事はこちら

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