【MM2H体験】おすすめ情報(72)Pasar Seni

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馬国の史跡、観光地、歴史を調べる際、ネット上の英語・マレー語・中国語の情報を参照すると比較的に英語版のほうが日本語版よりかなり情報量が多いのが常ですが、

今回調べた Pasar Seni (つまり Central Market、KLの中央市場)の歴史情報については、英語版と中国語版に(興味深い)違いがありました。特に、この市場設備を創ったのは誰かという点で欧米の知見と華人の知見に違いがありそうです。

誰もがご存知の、クアラルンプールの「セントラル・マーケット」の歴史について、実は華人社会と欧米とは異なる視点の情報が出回っているようです。

そして、19世紀にPasar Seniの建設を指示した「葉亞來」という華人のリーダーは、(良くも悪くも)力のある人物であったようです。この記事の末尾で紹介する情報だけでは説明しきれない人物のようなので、別の機会に馬国内の華僑の歴史とともに調べてみたいと思っています。

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マレー語の Wikipedia による紹介

マレーシアのクアラルンプール市内に位置するPasar BudayaまたはPasar Seniは、興味深い場所。この場所はクラン川沿いで、Daya Bumiの近くに位置している。

かつては、クアラルンプールの主要市場として、魚、肉、鶏肉、野菜などの生鮮食品や日用品が販売され、当時のクアラルンプールの住民や錫鉱夫たちの日常生活のためのマーケットであったが、1985年に大改装され、アップグレードされた。

現在、Pasar Seniはマレーシアの文化、芸術、工芸品の展示および発展のための文化の中心地である。ここには、マレーシアの伝統的なバティック製品や民芸品を販売するショップが集まる。

Wikipedia に掲載の Central Market (Pasar Seni)の入り口

美しくカラフルなバティック製品は、マレーシアの伝統的なバティック手法で作られたもので、それぞれがユニークで他とは異なる。バティック以外にも、古美術品やアジアの工芸品、お土産品、手工芸品などを扱う店舗も並ぶ。そして、多くの訪問者が興味を持って見守る中で、肖像画家や細工職人が様々な場所で作品を制作している。

建物の外では、川岸に隣接した円形劇場があり、伝統的なパフォーマンスや現代のダンス、音楽コンサートが行われている。バティックの絵画や皮影劇、ダンス教室など、さまざまなイベントやショーが開催される。

出典:Wikipedia “Pasar Seni” Bahasa Melayu

中国語版 Wikipedia による沿革

19世紀後期、クアラルンプールの華人社会は、英国統治下での華人リーダーであった「葉亞來(Yap Ah Loy)」の指導により、伝統的な市場を建設することを決定した。そして、中央市場は1888年に開業。市場の建設は華人が主導したが、建築や装飾はマレーシアの伝統的な特色を取り入れ、中国人街に建設された。この市場は建設後、増え続ける小売業者と商人の数に対応するため、何度も拡張が必要となった。

各言語の wikipedia で紹介されている説明当時の Pasar Seni.

現在、中央アートギャラリーの外観は1930年代の拡張以降、ほぼ変わっていないが、建物全体は1937年にほぼ完成したもの。1980年に中央市場は移転。(国政により一時は取り壊されるという危機にあったが)マレーシアの歴史協会が解体計画を阻止し、連邦政府に市場の修復を促した。これに応じて、連邦政府が900万RMを投資し、中央市場をマレーシアの芸術と工芸品の市場に改装した。

1986年4月15日、Melewar Leisure社が中央アートギャラリーの運営権を取得し、そこではさまざまな地元の芸術作品や工芸品が販売された。そして2004年には、中央アートギャラリーはKHA Seng Groupによって独立運営されることになった。新しく設立された中央アートギャラリー有限公司は観光業や文化の発展に重点を置き、巨額の修復投資を行い、7万平方フィートのスペースを提供し、地元のアート界に販売市場を提供することを目指した。

出典:Wikipedia 「中央艺术坊」

英語版 Wikipedia による沿革

元の建物は1888年にイギリスによって建設され、イギリスの植民地である英領マラヤにありました。クアラルンプール市民や錫鉱夫たちのための生鮮市場として使用されていました。このウェット・マーケットは、KLのフィーダーバスサービスの中心であるクラン川バスターミナルの近くに位置していたため、初期の都市住民にとって非常に便利でした。

1889年、1895年、1920年、1921年に拡張が行われました。1933年までに、倉庫への拡張により、市場は現在の規模になり、約16万7000ドルかかっています。

クアラルンプールは1970年代に急速な発展を遂げ、ウエット・マーケットも解体される計画が浮上しました。しかし、マレーシア遺産協会(the Malaysian Heritage Society)が介入して、解体に反対する請願をまとめたことにより、この場所は「遺産地区(Heritage Site)」として宣言されました。

1981年にクラン川の河岸に高層ビル「ダヤブミ」の建設(日本の熊谷組)が進む中、市場は解体から救われました。再利用のための改装工事は1985年10月に開始され、1986年4月に完了、1986年のPATAカンファレンス開催時に公式に発表されました。セントラル・マーケットは新しい、活気あるカラフルなスタイルに改装され、一般的にはパサール・セニ(Pasar Seni)として知られていますが、公式にはパサール・ブダヤ(Pasar Budaya)として知られています。

左端の赤いひし形が Daya Bumi  その横が Pasar Seni 中央右のタテの赤線が Petaling Street 中央左下の長方形が Kelana Jala Line の Pasar Seni 駅

メインビルの裏に位置するセントラルマーケットアネックスは、かつては映画館が入居していましたが、2006年にオープンしました。アネックスにはさまざまなエキセントリックな美術館があります。これはクアラルンプールで重要なアートスペースの一つであり、地元アーティストの作品が展示される一年を通して活気のある活動の中心地です。

Central Market Annex (wikipedia English & Chinese version)

メインビルに隣接する新しく変貌したKasturi Walkは、歩行者専用の屋根付き通路です。2011年にオープンし、Kasturi Walkは、魅力的な現地のスナックや精巧なお土産を販売するさまざまな屋台が特徴の屋外雰囲気を持っています。この通りはストリート・ミュージシャンや路上パフォーマンスの”buskers”の活躍場所として知られています。

出典:Wikipedia “Central Market, Kuala Lumpur”

経営元のウェブサイトによる紹介文

クアラルンプールのセントラル・マーケットは、マレーシアの文化、芸術、工芸の中心地であり、市の中心部に位置しています。1888年にwet market(生鮮品市場)として建設された歴史的価値の高い建造物は、初期の市場機能に始まり、やがて、観光客・買い物客・芸術愛好家が集う場所へと長い道のりを歩んできました。

現在、セントラル・マーケットはクアラルンプールでは必見の名所となっており、地元の手工芸品・織物・お土産・コレクターズアイテム・地元のスナック等、ユニークな買い物体験を提供します。一歩中に入れば、単なる小売業の集合場所を超えた、マレーシアの遺産や建築物の素晴らしさを味わえる体験になります。

セントラル・マーケットには「アート」へのこだわりがあります。それは、別館として(イリュージョン3Dアートミュージアムや、アートハウスギャラリーなどの)様々な文化が融合するアートギャラリーを取り込んだ歴史に表れています。中央市場アートレーンは10のユニークなスタジオから成るアートコーナーで、地元アーティストによるエキサイティングな作品が展示されています。

Website のダイレクトリーはしっかり出来ている。 やはりオーナーは華人の会社であり、 Jalan Ah Loy の影響が大きいようだ。

出典:Central Market Kualalumpur

参考  KLを創った華人商人「葉亞來」

葉亞來(イエ・ヤーライ、Yap Ah Loy、1837年3月14日〜1885年4月15日)は、本名を德來といい、字は桂軒、号は茂蘭と称す。彼は中国広東省惠陽出身の南洋客家の人物であり、クアラルンプールの第三代甲必丹(キャプテン・首領)であった。クアラルンプールの開拓に貢献した功労者。

1859年、(当時22歳)の葉亞來はマレーシアの現在のPort Dickson近郊に移住。

1861年、24歳の葉亞來は地区の第3代甲必丹(華人集団の首長)に選ばれる。1年間のみの任期であったが、当時の担当地区は平和であり、彼の評判と地位を高めた。

1862年、葉亞來は当時のクアラルンプールの甲必丹(華人首長)であるリウ・レングァンの招待でクアラルンプールに移り住むと、地域の管理を手伝い始めた。当時のクアラルンプールは人がまばらな村だったが、葉亞來らのマネジメントで活気づき始めたという。

1868年、リウ・レングァンが年老いて体が弱ってきたため、葉亞來はクアラルンプールの第3代甲必丹(首長)の地位を引き継ぎ、セランゴール州のスルタンと地元のマレー指導者の承認を得ている。この間、彼は「クアラルンプールの王」とも称された。

wikipedia に掲載されたYap Ah Loy

1873年11月、内戦が終結した後、セランゴール州のスルタンによって正式に甲必丹(首長)の称号を受け、中国からの移民を集めてクアラルンプールの再建やセランゴール州の土地開発を始め、新しい鉱山を開設し、道路を建設し、経済復興に尽力した。

1879年、葉亞來はクアラルンプールで最も裕福な人物となり、全盛期には、彼は5000人の錫鉱労働者を雇用し、最も多くの錫鉱を所有する商人であった。

当時、クアラルンプール市内の土地の3分の2は彼の所有であり、英国政府は1883年に地所を彼に授ける際、地価の返済を免除する特別許可を与えている。1881年にはクアラルンプール市が火災に見舞われ、町全体が瓦礫になった際、葉亞來は家を新築する資金を提供し、すべての建物は煉瓦で建てられ、町の景観が一新され、イギリス人から称賛と尊敬を受けたという。イギリス政府がクアラルンプールの行政権を取得した際、葉亞來は反発することなく行政権を全て引き渡している。

1885年4月15日、葉亞來はクアラルンプールで亡くなり、広東義山に埋葬さた。彼の死後、クアラルンプールの甲必丹(首長)の地位はイエ家の将軍に引き継がれたが、葉亞來の才覚には及ばず、特権も次第に削減され、その後二度と華人の甲必丹(首長)が任命されることは無くなった。

イギリスの植民地政府は、葉亞來の貢献を讃えるために、クアラルンプール市中心部にある葉亞來の旧居の前の道路を「葉亞來街」(Yap Ah Loy Street)とした。マレーシアが成立した後、この道路の名前は「葉亞來路」(Jalan Yap Ah Loy)に変更され、現存している。

左下にPasar Seni、右上が Jalan Yap Ah Loy … Petaling Street はこの地図の南南東にある。

出典: Wikipedia(中文) 「葉亞來」

最後まで参照いただき、ありがとうございます。

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