マレーの真実から最後に紹介するのは “A Mezzotint” というタイトルの説話である。
この「メゾチント(Mezzotint)」は、銅版画の「凹版(おうはん)直接技法」のひとつで、黒から白への柔らかい中間調(グラデーション)を表現できるのが特徴。フランス語で「黒の技法」を意味するマニエール・ノワール(Manière noire)とも呼ばれる白黒版画の技法である。

この画像は世界最初のメゾチントの作品とされている1643年のPortrait of Amelie Elisabeth von Hessenという作品(作者はLudwig von Siegen (c. 1609 – c. 1680))出典は Wikipedia の資料である。
専用の「ベルソー」、あるいは「ロッカー」と呼ばれる目の細かい櫛状の道具を使い、版の表面全体に無数のさくれ(目立て)を作って真っ黒になる状態を作る。その後、スクレーパーやバニッシャーでさくれを削ったり磨いたりして、光の当たり具合や豊かなグラデーション(中間調)を表現する。
独特の世界観や雰囲気を醸し出す方法として、ヨーロッパを中心に普及した画法である。
一方、スウェッテンナムによるこのタイトルの説話は、19世紀マラヤの女性の生涯がどんな生涯であったか彼なりに美しく描いた説話になっている。序文にあたる部分のマレー人女性の一般化は彼自身の19世紀時点での評価であり、現在のマレー人女性の人生とは大きく異なる。
前回同様、段落ごとのサブタイトルは筆者の個人的な作業、あるいはAIによる翻訳機能の産物である。この説話の後半は悲劇の物語として秀逸であるが、スウェッテンナムがコメントしているとおりであれば、本当にあった話に多少の脚色が加わったものである。
マレー人女性の境遇
長年にわたり、あらゆる階層のマレー人たちと親しく接してきた。その経験から、私は次のような結論に達した。
マレー人女性の人生というものは、たいていの場合、そこに世俗的で味気ない一面が存在する一方、恋愛や情緒に彩られた出来事も決して珍しくなく、悲劇に至っては、おそらく西洋人の間よりも頻繁に起こるように思われる。
それにもかかわらず、ごく普通のマレー人女性の生涯をありのままに書き記し、その物語を西洋の読者にとって興味深いものに仕立てることは、やはり難しいだろう。その理由は、マレー人女性が、ほかの東洋の女性たちと同じように、外の世界から隔てられた生活を送っているからである。
マレー人女性が少女の頃、日々付き合うのは自分の家族だけである。たとえ男性と顔を合わせる機会があったとしても、言葉を交わすことは、まずない。ほかの少女たちとの交流も非常に限られており、年長の女性たちは、未婚の女性を子供として扱う。
知的な教育を受ける機会はあまりにも乏しい。それだけに、上流階級の女性たちの中には、人前に姿を現し、自分の意見を述べることのできる立場に達すると、驚くほど優れた知性を発揮する者が少なくないことに、こちらが驚かされるほどである。
マレー人女性は、子供時代から直接、大人の女性へと移行する。すなわち、彼女たちには、事実上、少女としての青春時代というものが存在しないのである。夫を選ぶことについても、女性自身が関与する余地はない。婚約者が花婿として彼女を迎えにやって来るその日まで、相手の男性の顔を一度も見たことがない場合さえある。私たち西洋人から見れば、この国の伝統や社会的偏見は、女性にとって著しく不利に働いている。
しかし、マレー人女性にも、女性としての本能や資質、性格が備わっており、それらは、より恵まれた環境に暮らすほかの国の女性たちと、大きく異なるものではない。ただ、彼女たちには自分の願望を追い求める機会がほとんどなく、「女性の権利」というものについても、事実上、何も知らないのである。彼女たちにとって、その権利とは、自分自身の魅力や優れた知性、あるいは財産を持っていることによって、男性に対してどれほどの力や影響力を行使できるか、という範囲に厳密に限られる。
さて、何世紀にもわたって受け継がれてきた慣習や、幾世代にもわたって制定されてきた法律であっても、人間の自然な衝動を押し殺すことはできない。そうした衝動を表に出すことを抑制したり、罰したりすることはできるかもしれないが、衝動そのものを消し去ることはできないのである。
マレー人女性が少女時代の恋愛というものを許されないのであれば、誰かから熱烈に愛されたいという願望や、自分自身の意思で何かを選びたいという欲求が満たされるチャンスがあるとすれば、それは人生のもっと後の時期になって見つかることになる。
そればかりではない。他人の愛情を呼び起こしたいという願望や、好奇心を満たしたいという気持ち、あるいは自分の肉体的な魅力がどれほどの力を持っているかを試してみたいという欲求も、やはり後年になって、はけ口を見いだすのである。
もっとも、ここでもまた、冒険の余地は限られている。なぜなら「離婚」が容易に成立し、「再婚」も簡単にできるからである。
それでも、赤道から声が届くほど近い土地に暮らす人々の間では、情熱が激しく燃え上がる。そして、マレー人というものは、慣習も、法律も、あるいは物事を容易に解決できる仕組みさえも、男女関係において彼らが激しい情熱に駆られた狂気や、盲目的な愚行、さらには犯罪的な悪行に走ることを、完全には防ぎきれないようにできているのである。
これは、ある意味では、いっそう奇妙なことである。なぜなら、マレーには「グランディ夫人」に相当する人物が存在しないからだ。
訳註:「グランディ夫人」これは、英国の劇作家トマス・モートン(Thomas Morton)の戯曲『Speed the Plough』(1798年)に由来する。劇中では実際には登場しない人物だが、他人の行動を道徳的な観点から批判する、世間体を気にする人々の象徴として知られる。
19世紀の英国では、Mrs. Grundy という言葉は、世間の道徳的監視や、因習的な道徳観そのものを意味するようになった。そして、この種の問題に関して、どれほど重大な過ちを犯した男女であっても、社会がその人物に背を向けることはないのである。もし道徳というものが緯度によって左右されるのであれば、少なくともその一つの側面については、赤道の南北かなり広い範囲にわたり、西洋の基準から見て、明らかに緩やかな道徳観が支配していると言えるだろう。
ここまで私が述べてきたのは、マレー社会のあらゆる階層の女性たちについてである。彼女たちは、ヨーロッパ人やほかの国籍の人々と混じり合うことがなく、たとえ接触があったとしても、ごく儀礼的な付き合いに限られる社会に暮らしている。繰り返して言うが、こうした女性たちの人生を物語にしたところで、外国人にとっては退屈な読み物にしかならないだろう。
もちろん、ときには例外もある。悲劇的な話や、人の哀れみを誘うような話が、時折、耳に入ることがある。しかし、そのような話が伝わるのは、マレー人同士の間か、あるいは、マレー人たちから深い信頼を寄せられ、何事も隠さず打ち明けてもらえる、ごく少数の同情心あるヨーロッパ人だけである。
しかも、そのような場合でさえ、実際に起こった出来事だけでは、物語の土台としてあまりにも貧弱である。そこから立派な建物を築き上げようとすれば、建築者はさまざまな材料を付け加えなければならないだろう。
しかし、そうすることで、かえって建物本来の性格が失われてしまうのである。マレー人たちは、竹やヤシの葉を使って家を建てる。せいぜい上等なものでも、木材と草葺きの屋根を用いる程度である。そして、ある意味では、こうした頼りない材料で造られた住居は、そこに暮らす人々の、筋道の定まらない人生を象徴している。
教育と解放がもたらすもの
ここまで私が述べてきたことから、マレー人女性に最も必要なのは、多少の教育と、多少の自由を与えることだと思われるかもしれない。
しかし、私はそれを疑問に思う。その種の実験は、実験を行う側にとっては大いに興味深いものであっても、実験の対象となる者にとっては、時として命取りになることがある。少しばかりの知識を与えることよりも、決して実を結ぶことのない希望の種を心に植えつけることの方が、はるかに危険なのである。
教師の仕事がきっかけで、それまで子供を取り巻いていた環境のすべてに不満を抱かせることは充分ありうる。そして、これまでの生活よりも良いものを手に入れるか、さもなければ何もいらない、という強い決意を抱かせることも難しくはない。しかし、教育によって洗練された知性が求めるものを、いよいよ満たさなければならない時が来ると、教師にはもはや助ける力がない。おそらく教師は、すでに手の届かない遠くへ去っているだろう。
誤った方向へ導かれた少女の孤独な魂は、昔ながらの故郷の家にも、旧来の考え方から抜け出していない同胞たちの社会にも、ほとんど慰めを見いだせないのである。
私がこうした深刻な想いに引き込まれたのは、エドワード・キャスカート(Edward Cathcart)という人物が、折に触れて私に打ち明けた、断片的な話を思い出したからである。
彼の物語を紹介する前に、まずこの人物について少し述べておかなければならない。
エドワード・キャスカート
私が初めてキャスカートに会ったとき、彼は二十一歳ほどだった。背が高く、髪や肌の色は濃く、均整の取れた体格をしており、しなやかで力強い青年だった。
彼はインドで名を知られた英国植民地行政官の息子だった。しかし、両親はすでに亡くなっており、寛大で、彼を甘やかしがちな伯母のもとで育てられていた。
少年は英国の名門パブリック・スクールで教育を受けた。そこで彼は、知的才能においても、あらゆる運動競技における卓越した能力においても、ひときわ目立つ存在だった。
多くの英国の少年たちとは異なり、彼は音楽にも並外れた才能を持っていた。
偉大な作曲家たちの作品を数多く暗記しており、当時流行していた音楽もほとんど知っていた。そして、耳にした曲なら、ほぼ何でも楽譜なしで演奏することができた。そればかりではない。彼の立ち居振る舞いには、人を引きつけずにはおかない魅力があった。その人気は、特に男性たちの間で驚くほど高かった。彼が親しい友人たちのうちの誰か一人を特別扱いしていると思い込んだ男たちが、それをめぐって口論するのを、私は一度ならず見たことがある。
その一方で、彼には別の一面もあった。それは生来の性格によるものでもあろうし、父親も母親もほとんど記憶にないという境遇のためでもあったのだろう。
彼は我が強く、自分の欲望に甘く、自分自身の利益にも無頓着で、他人の利益にも思いを巡らせないところがあった。その魅力的な人柄と数々の才能に心を奪われた周囲の人々は、少年時代には彼のわがままを許し、成人してからも甘やかして、彼を駄目にしかねない扱いをしてきたに違いない。
しかし、それにもかかわらず、彼が周囲から受けた賞賛によって悪い影響を受けたことを示すものは、何もなかった。もっと弱い性格の持ち主であれば、簡単にうぬぼれてしまうであろうほどの賞賛だったのに。
キャスカートは英国を離れ、東方へ向かい、マレーの地に将来を求めた。そこでも彼の能力は、たちまち人々の注目を集めた。その物腰と社交術も、彼に多くの友人をもたらした。というのも、彼はその若さにして、すでに世慣れた人物だったからである。
生まれながらの語学の才にも恵まれており、現地の言葉を習得するのに何の苦労もなかった。すべてが、彼の輝かしい将来を約束しているように見えた。
断片的な記憶から語られる物語
これから先については、彼が私に語ってくれたことを、できる限りそのまま繰り返すしかない。
話は曖昧で、断片的である。出来事の数も少なく、それ自体がどれほど興味を引くものかも疑わしい。しかし、それらの出来事を他人に伝えるには、それ自身に語らせるほかない。彼が私のもとに残したものを、一枚の完成された絵に仕立てようとすれば、かえってその輪郭を損なってしまうだろう。
それらの出来事を絵に例えれば、その絵が描かれた紙はあまりにも古く、色彩はあまりにも褪せている。今さら絵の具を塗り重ねたところで、うまく修復することなどできないのである。
アラブ系マレー人の首長とその家族
キャスカートが初めて東洋の地を訪れた頃、マレー諸州の一つに、アラブ人の血を引く首長が住んでいた。その血統には、おそらくマレー人の血もいくらか混じっていたであろう。
しかし、それでもなお、土地の人々とは明らかに区別できるほど、アラブ人の血統を色濃く残していた。この首長は自分と同じ階層の女性を妻に迎えていた。ただし、妻の方は、容貌にも性格にもマレー人としての特徴が強く表れていた。
マレー諸州のどこにでも、このような、いわゆるアラブ系の家族が見られる。彼らはもともと、旅をしてきたサイイド(Seyyid)の子孫である。
訳註:「サイイド」はSayyid、Seyyid などと表記され、イスラム世界では一般に預言者ムハンマドの子孫とされる男性に用いられる敬称である。マレー半島では、アラブ系のサイイドが現地の有力者の娘と結婚し、その子孫が宗教的・社会的に高い地位を得る例があった。
そうしたサイイドたちは、近年であれ、はるか昔であれ、マレー半島に流入し、その土地の名門の女性を妻に迎えたのである。その子孫たちは、ラジャの子供たちと同じような敬意を払われ、同じ称号で呼ばれていたのである。
首長に話を戻そう。この首長は温厚で知性もあったが、いささか個性に乏しい人物だった。彼には多くの息子と、ただ一人の娘がいた。その娘は、正式には「ウンク・シェリファ(Unku Sherifa)」と呼ばれたが、家族や親しい人々の間では「ロン(Long)」という愛称で呼ばれていた。
不幸なことに、この少女には、両親とも兄弟たちとも共通するところがほとんどなかった。
母親は中年の、優しく穏やかな女性で、魅力的な物腰の持ち主だった。かつては美しい女性だったのかもしれない。しかし、そのように想像させる面影は、今ではかすかに残っているだけだった。兄弟たちは、一人を除いて、容貌は明らかに平凡であり、知性についても、誰一人として並以上の才能を持ってはいなかった。ところが、それとは対照的に、娘は並外れて魅力的だった。背が高く、ほっそりとして優美な体つき。肌の色は非常に明るく、顔立ちにはアラブ人特有の特徴が表れていた。広く高い額、まっすぐな鼻、驚くほど美しい瞳、眉、そしてまつげ。キューピッドの弓のような形をした唇と、まばゆいほど白く、完璧に整った歯並び。卵形の顔と、えくぼのある顎。
豊かな漆黒の髪をたたえた頭は、細い首の上にしっかりと据わっていた。小さく繊細な手足、まだ成熟しきっていない体つき、そして高貴な身分への誇りを感じさせる身のこなし。
これが、私の友人キャスカートが初めてウンク・シェリファに会ったときの、彼女についての描写である。家族との知性の隔たり
この少女と家族との間には、容貌の点で大きな違いがあったが、しかし、彼らを隔てていた知性の溝は、それよりもはるかに深かった。私は以前、どこかで次のような言葉を読んだように思う。「一家にただ一人の娘が、両親や兄弟たちよりも優れた知性を持っているというのは、重大な不幸である」
もっとも、私の記憶が正しいかどうかは分からない。どこで読んだ言葉なのか思い出せないからである。しかし、この言葉は、まさしく今回の場合に当てはまっていた。
というのも、彼女が家族よりも優れた知性を持っていたことは、間違いなく、彼女の心に自分の家族に対するある種の軽蔑を生み出したからである。そして、家族よりもさらに知性の乏しい近隣のマレー人たちに対しても、同じような気持ちを抱かせた。
一方、それは彼女を、異なる人種に属し、より高度な教育を受けた人々へと引き寄せることになった。運命は、まさにそうした人々と彼女を巡り合わせることを選んだのである。
新しい価値観
ウンク・シェリファは、まだほんの子供だった頃、十歳くらいから、英国領のある土地へ長期間滞在するようになっていた。そこで彼女は、ある高官の妻にかわいがられるようになった。その女性には、ウンク・シェリファとほぼ同じ年頃の娘が二人いた。
このアラブ系マレー人の少女が、その家庭と親しくなるきっかけとなったのは、おそらく彼女の美しい容貌と並外れた知性だったのだろう。そして、その愛らしい物腰によって、彼女はすぐに二人の聡明な英国人少女たちの友人となり、いつも行動をともにする仲間になった。
ウンク・シェリファの父親は、何事にも鷹揚な男だった。おそらく、自分の娘がそれほどの関心を寄せられていることを誇らしく思ったのだろう。また、娘が自分やほかの子供たちよりも優れた資質を持っていることを感じていたため、これほど恵まれた人々のもとに娘を預けることを、喜んで受け入れたのである。
英国人高官の家で、その妻や娘たちと絶えず一緒に過ごすうちに、ウンク・シェリファは、ヨーロッパ人と顔を合わせ、言葉を交わすことに、すぐに慣れていった。現地の少女たちに共通する内気さも、急速に消えていった。
こうした生活、すなわち、アラブ人の血を半分引く少女が、英国人の家庭でいつでも歓迎される客として過ごす中で、知らず知らずのうちに受けていた教育は、数年間続いた。その間にウンク・シェリファは、洗練された生活環境を好むようになったばかりではない。その鋭い目には、自分の家や同胞たちとは、物腰も外見もまったく異なって映る人々との交際そのものを、好むようになっていた。
ところが、やがて英国人の友人たちは、東洋の地を永久に去ってしまった。彼女は故国へ戻り、父親の家で再び暮らすことになった。そして、過去と現在を比較し、魅力の乏しい将来の見通しについて思いを巡らせるための時間だけは、いくらでもあったのである。
新たな英国人の友人
ウンク・シェリファが故郷に戻ってみると、父親の家から数マイルしか離れていない場所に、一人の英国人官吏が駐在していることが分かった。この官吏は、首長である父親と頻繁に会談していた。そして首長は、娘をその白人官吏に、いささか誇らしげに、早速紹介していたのである。
こうして少女は、ほどなく、この見知らぬ英国人と親しくなった。
彼女にとって幸運だったのか、それとも不運だったのか。新たな友人となったその人物は、騎士道精神に富み、純朴な心を持つ紳士だった。彼はこの土地の人々に心から同情を寄せていた。そして、孤独な駐在生活を明るくしてくれるこの少女に対しても、自然と温かな愛情を抱くようになったのである。
ウンク・シェリファ、すなわち、新しい友人もほどなくそう呼ぶようになった「ロン」には、自分と同じ身分で、ほぼ同じ年頃の少女の友人が一人いた。この二人は、ほとんど毎日のように英国人官吏を訪ね、その家で長い時間を過ごした。朝になると馬車でやって来て、夕方には家へ帰っていったのである。
すでに述べたように、首長とその妻は、非常に鷹揚な人々だった。二人は、このような付き合いにまったく満足していた。というのも、娘の生まれ持った知性と、特別に恵まれた教育の機会によって、彼女はすでに、両親の昔ながらの考え方や限られた理解力を超えた知識の世界へ進んでいたからである。
両親もそのことを理解しており、娘が喜ぶのであれば、それでよいと思っていたのだ。
こうした関係は、運命がキャスカートをこの辺鄙な土地へ送り込むまで続いた。キャスカートがやって来たことで、二人の少女たちは、ときおり、自分たちともっと年齢の近い青年と一緒に過ごせるようになった。しかも、その青年は、これまでの英国人の友人よりも、はるかに魅力的だった。以前からの友人は、二人の少女のどちらの父親であってもおかしくないほど年上で、いつも彼女たちを子供として扱っていたからである。
キャスカートとウンク・シェリファの出会い
キャスカートが初めて彼女に会ったとき、年上の少女は十六歳か十七歳だった。彼女は、これまでに受けてきた特殊な社会的教育のために、少女というよりも、自分の階級と民族にふさわしい大人の女性の物腰を身につけていた。
そして、ここに運命のきわめて意地悪ないたずらがあった。首長とその家族は、知性、家柄、そして教育と呼べるもののすべてにおいて、その土地のほかのマレー人たちよりも、比較にならないほど優れていたのである。
そのため、この地方にいたわずか二人の白人男性は、職務上の関係からだけでなく、自らの好みによっても、首長一家との交際に引き寄せられることになった。そこには、彼ら自身が孤立した生活を送っていたことも関係していた。また、少なくともこの土地に来たばかりの頃、ほかの近隣住民たちは、彼らの目には興味を引くような人々とは映らなかったことも理由の一つだった。
したがって、その魅力は一方通行ではなく、双方にとってのものだったのである。そして首長自身も、娘に国の諸問題について頻繁に相談することで、両者の友情をさらに強固なものにしていた。自分で英国人たちを訪問する時間が取れないときには、娘に伝言を託すことさえあったのである。

親密な交際
それから一、二年が過ぎた。
いとこ同士である二人の少女は、しばしばキャスカートの住居を訪れるようになっていた。以前からの白人の友人に付き添われて来ることもあれば、ウンク・ロンの母親と一緒のこともあり、時には付き添いなしで訪れることもあった。
二人は午後になるとやって来て、慣れないローンテニスに挑戦しては、その不器用なプレーを笑い合った。あるいは、一緒に馬車で名所へ出かけたり、ただ家や庭を散策したりして、夜になって帰宅を促されるまで過ごした。
土地の人々は、この二人の少女が白人のよそ者たちと絶えず行動をともにしているのを見て驚き、いったいどういうことなのか理解しかねていた。初めのうちは噂話をしたが、その後、特に何事も起こらず、首長自身もまったく満足しているようだったので、やがて村人たちは、これは自分たちのような無知な者には理解できないことなのだと考え、その状況を受け入れるようになった。
キャスカートとウンク・ロンのような二人が、こうした環境のもとで絶えず顔を合わせていれば、男が少女の美貌と知性に強く引きつけられるようになったとしても、それほど不思議ではなかっただろう。また、彼女の方も、彼自身の魅力に気づくと同時に、彼が自分に寄せる賞賛の気持ちを感じ取っていたとしても、驚くには当たらない。
キャスカートが私にこの部分を語ったとき、彼の説明は決して詳しいものではなかった。
また、その態度からも、彼が自ら打ち明けようとしないことまで尋ねてよいとは思えなかった。しかし、私が理解したところでは、ある晩、ほかの人々が屋内で楽しんでいる間に、彼は庭でロンと二人きりになった。そして、東洋の夜の心をかき乱すような美しさに誘われ、彼女に向かって狂おしいほどの愛を告白し、自分に身を委ねてくれないかと尋ねたのである。彼女は、その申し出に対して、乙女らしい憤りを示そうなどとは、まったく思いつかなかったようだった。ただ、こう言っただけだった。
「あなたのおっしゃることには従いません。だって、もしそうしたら、私はずっとここにいることになりますもの。それでも、あなたはよろしいの?」
その単純な問いかけによって、夜を包んでいた魅惑は一瞬にして消え去った。
キャスカートは言葉を失った。そして彼の目の前には、これから起こり得るさまざまな厄介事が、突然、果てしなく広がって見えた。彼は、自分がその代償をまったく考えていなかったことにも、それを引き受ける覚悟がなかったことにも気づいたのである。
それだけではなかった。彼は今、自分が少女の目にも、そして自分自身の良心に照らしても、いかに不愉快で卑劣な姿をさらしてしまったかを、突然、痛烈に思い知らされた。
すると彼女は、たいへん静かな声で言った。「二人の人間が愛し合うときには、必ずどちらか一方の愛の方が深いものです。そして、その一方は、あなたではありません」
キャスカートは自分自身に激しい怒りを感じていた。しかし、マレー人の少女の口からこのような言葉が出てきたことへの驚きによって、その怒りも一瞬忘れてしまった。そして彼は、男と女の心が語る言葉は、世界中どこでも同じなのだと悟った。
彼は、自分を責めても責め足りないこの気まずい状況から抜け出すため、何か口実はないかと懸命に探した。
遠ざかる青年
その後の数週間、そして数か月の間、キャスカートに対するロンの態度は少しも変わらなかった。彼女は相変わらず美しく、落ち着きがあり、まったく自然体の少女だった。そして、以前と同じように明るく、知性に富んだ話し相手でもあった。
しかし、キャスカートの方は、自分が犯した過ちを強く意識していたため、以前の友人たちをむしろ避けるようになった。そして、暇な時間ができると、トラや野牛、そのほかマレーの密林に棲む動物たちを追いかけて過ごした。もっとも、その狩猟はたいてい成果のないものだった。
やがて事情が変わり、キャスカートは、それまで暮らしていたロンたちが住むマレー人社会から離れ、英国の直轄植民地へ移り住むことになった。彼は、自分が住んでいた社会の人々の考え方や人間関係を、実のところ十分に理解してはいなかったのである。そして、その土地を離れることになっても、彼はさほど悲しむことはなかった。
訳註:当時のマラヤには、行政上の大きな区分があった。
マレー諸州(Malay States):ペラ、セランゴールなど、マレー人の君主を戴きながら英国の保護・監督を受けていた地域。
海峡植民地(Straits Settlements):ペナン、マラッカ、シンガポールなど、英国が直接統治していた植民地。
キャスカートはマレー人の君主が統治する州から、英国直轄の植民地へ移ったのである。人間というものは、一度踏み外した道を、そう簡単には自分自身に許せないものである。
特に、その過ちによって自分の人間としての価値のなさを思い知らされた場合には、なおさらである。そして、しばしば人は、自分が罪を犯した相手に対してさえ、自分自身への怒りの一部を向けてしまう。とりわけ、過去にその相手から恩恵を受けていた場合には、そうなりがちなのである。
首長一家の没落
時は流れた。そして、その歳月とともに、ウンク・ロンの父親も、彼女が以前から親しくしていた英国人の友人も、この世を去った。マレーの大地は二人の亡骸を受け入れた。
しかし、二人の精神は今なお、この土地に生き続けている。一人にとっては先祖から受け継いだ故郷であり、もう一人にとっては、自ら選んだ第二の故郷だったのである。首長の死とともに、ウンク・ロンの一家には不幸な時代が訪れた。一家の財産は大きく減り、もはやその土地で最も有力な家柄ではなくなった。新たな王が統治するようになったが、その王は彼らの苦境に特別な同情を寄せることもなかった。
そして、おそらく最も不幸だったのは、長年にわたる信頼厚い友人が、(マレー人の言い方を借りれば)「失われた」ことだった。その後任者は、没落した一家の運命よりも、現在の首長の方に関心を持っていた。権力を失えば失うほど、援助を求める声だけは大きくなりそうな一家に、わざわざ関わろうとはしなかったのである。
未亡人となったロンの母親は、心優しい女性だったが、意志の弱い性格だった。不運な境遇と闘うようにはできていなかったのである。彼女には多くの息子がいたが、誰一人として十分に成人しておらず、一家の長として父親の代わりを務められる者はいなかった。
このような苦境の中で、老婦人は伝統的な慣習に促され、親戚たちから勧められ、また息子たちからもある程度背中を押されて、ようやく迷いを断ち切った。
娘を結婚させるべきだ、と決心したのである。
こうして彼女は、気の進まない助言を受け入れ、ウンク・ロンを近隣の有力者の息子と婚約させることに同意した。
その有力者は、たいそう立派な称号を持っていたが、財産の方はきわめて乏しかった。問題の若者は、まだほんの少年にすぎなかった。年齢は、婚約者であるロンよりも、むしろ若かったかもしれない。容貌は目立たず、知性は同じ階級の若者たちの平均よりも、いささか劣っていた。しかも、ほとんどずっと内陸の奥地で暮らしてきたため、振る舞いはぎこちなく、礼儀作法も知らなかった。マレー人が軽蔑を込めて「ジャングル・ワラー」、すなわち「密林育ちの田舎者」と呼ぶような若者だったのである。
運命の再会
ちょうどこの頃、キャスカートは、かつて滞在したロンが住む土地へ短期間戻らなければならなくなった。彼は少なくとも二年間、その州を訪れておらず、そこで何が起きているかについても、まったく知らなかった。
彼はすでに結婚しており、シンガポールで落ち着いて暮らしていた。
ところが、運命の奇妙な気まぐれをさらに際立たせるように、彼は、かつての首長の住居から石を投げれば届くほど近い、一軒の孤立した家に三日間滞在することになった。同行者は、軍人である友人ただ一人だった。到着した日の午後、ウンク・ロンとその母親が馬車でその家を訪ねてきた。少女はほとんど口を開かなかった。しかし、母親の方は、キャスカートとの再会を心から喜んでいることを、少しも隠そうとしなかった。
話したいことは山ほどあった。彼女は一時間ほど、昔の日々のこと、亡き夫のこと、そして、今は亡き白人の友人のことを語り続けた。その友人の数々の美徳や親切を思い出すうちに、彼女は涙を抑えることができなくなった。
やがて、同行していた軍人が姿を現し、正式に紹介された。すると、まるで誰も意図していなかったかのように、キャスカートはロンと二人で庭を歩くことになった。
母親はその場に残り、軍人に何とか自分の話を理解してもらおうと努めていた。しかし、その軍人はひどく退屈していた。彼は、この状況の意味も、その中で自分がどんな役割を演じているのかも、まったく理解していなかったのである。
ロンの懇願
無駄な言葉を交わしている時間は、ほとんどなかった。
少女は、過去を思い出させようとも、現在のひとときを引き延ばそうともしなかった。
前置きもためらいもなく、キャスカートの目をまっすぐに見つめて、こう言った。「私は、二日後に結婚することになっています」
そして、激しい感情を込めて続けた。
「そんなの、嫌でたまらないのです。私は絶対に承知しません。あの人とは結婚できません。大嫌いなのです。どうしても無理です。私はマレー人の男とは誰とも結婚したくありません。お願いです。私をここから連れ出してください。あなたと一緒に、シンガポールへ連れて帰ってください」
「本当に気の毒だと思うよ」とキャスカートは言った。
「そんなことになっているとは、まったく知らなかった。しかし、君をシンガポールへ連れて行くことはできない。連れて行ったとして、私は君をどうすればいいんだ?」
「あなたのお好きなようになさってください」と彼女は答えた。
「お願いです。私を哀れだと思って、連れて行ってください。ここに残って、あの男と結婚させられるなんて、私には耐えられません」「できないんだ」と彼は言った。「本当に不可能なんだ。私はもう結婚している」
「そんなこと、かまいません」とロンは言った。「かまいません。私を連れて行って、シンガポールに家を一軒見つけてくだされば、それでいいのです。あなたのお望みのことなら、何でもします。あなたがその気になれば、できることは分かっています。
ああ、お願いです。どうか私を連れて行ってください。ここに置き去りにしないでください。そうでなければ、私は自分を殺してしまうか、あの男を殺してしまうか、何か恐ろしいことをしてしまいます」「それはできない」と彼は言った。
「君には分からないんだ。君が求めていることは不可能なんだ。しかし、君のお母さんと話してみよう。結婚を取りやめにする方法がないか、考えてみるよ」「ああ、それでは無駄なのです」と彼女は絶望したように答えた。
「私がここに残っている限り、誰にも止められません。結婚式は明後日の夜なのですから。
母のところへ戻りましょう」キャスカートは、少女の苦しみに深く心を動かされていた。彼女に強制されようとしているこの結婚に対して、彼自身も、彼女に劣らぬほど強い反発を感じていた。
彼は母親のもとへ戻り、思いつく限りの議論と説得を尽くして、娘のために訴えた。
自分にはこの問題に干渉する権利がなく、何の役にも立てないだろうということは、終始感じていた。それでも彼は老婦人に懇願した。そして、ほかの手段をすべて尽くした後、最後にこう尋ねた。
亡くなった英国人の友人が、ロンをこれほど嫌がっている結婚に無理やり追い込むことを知ったら、いったいどう思うだろうか、と。
もっとも、未亡人の心を動かすのに、その言葉まで必要だったわけではなかった。彼女はもともと、娘に指図するよりも、むしろ娘に導かれることに慣れていたのである。キャスカートと別れるとき、彼女は涙を浮かべ、心を取り乱し、自分の孤独で頼りない境遇を嘆いていた。
責任を代わって引き受けてくれる夫もいない。信頼でき、しかも親戚たちに対して発言力を持つ相談相手もいないのである。彼女は、何かできることがないか考えてみると約束した。
しかし、結婚式の準備はすべて整ってしまっている。今さら予定を変更したり、花婿やその関係者を納得させられるような口実を見つけたりするには、もう遅すぎるのではないか、と心配していた。
運命への諦め
少女は何も言わなかった。彼女はキャスカートに、最後の望みを託して必死に懇願した。
しかし、それは失敗に終わった。もはや自分を救えるものは、死以外にないと彼女は悟った。「これが運命なのです」彼女はそう言った。
マレー人が最後に口にする言葉へと、立ち戻ったのである。同じような境遇に置かれたマレー人の少女たちは、時として、自分の命を絶つと言うことがある。
しかし、その脅しを実行する者は、きわめて、きわめてまれである。
それは、死を恐れているからではない。
私としては、むしろ、自殺というものが彼女たちの慣習に存在しないからではないかと思う。
男たちは、耐え難い重圧や苦難に追い詰められると、敵も味方も見境なく襲いかかり、自ら死を求め、そして死を得ることがある。このような行為によって、彼らは好ましからざる悪評を得てきたのである。
しかし、女たちは「メンガモック(meng-amok)」を起こさない。
彼女たちは表面上は従う。しかし、その心の奥では、人生の残酷さや、慣習によって課される義務、イスラム社会の規則に対して、激しい反抗の炎を燃やしているのである。
悲劇の結婚式
こうして、ウンク・ロンの結婚を妨げる出来事は、それ以上何も起こらなかった。結婚式は、経済的に苦しい境遇にある人々にふさわしく、質素な形で執り行われた。
その二晩後、キャスカートと軍人の友人は、結婚に伴う儀式の最終段階に出席した。キャスカートは、ひどく気が進まなかったが、それでも出席したのである。少女の顔には、石のように固まった絶望が浮かんでいた。その苦しみはあまりにも深く、望みがなかった。
彼女は、周囲で何が起きているのかさえ、分かっていないように見えた。そして、キャスカートにも、その場にいるほかの誰にも、ほんのわずかな視線さえ向けず、誰かを認識しているという様子をまったく示さなかった。
その姿を見たキャスカートは、もはやその場にとどまることができなくなった。彼は、自分の無礼な退席を取り繕うため、苦しい言い訳をして家を出た。
翌朝、彼はその州を去り、ウンク・ロンに二度と会うことはなかった。

ウンク・ロンの最期
彼女についての話は、これで終わりである。少なくとも、これから述べる短い説明を除けば、私が語ろうと思うことは、これですべてである。
結婚は失敗だった。しかも、最悪の形での失敗だった。数週間後、あるいは遅くとも数か月後には、少女は夫と離婚した。
その後のことは、この物語には関係がない。また、私はそれをキャスカートから聞いたわけでもない。
首長の娘、ウンク・シェリファは、その後、悲惨な境遇に陥った。人生という杯の底に残った、苦い澱までも飲み干したのである。
そして、哀れな年老いた母親とともに、二、三年にわたって各地をさまよった末、少女は死んだ。彼女は、故郷の人々から遠く離れた異国の地に葬られた。それから、はるかな年月が過ぎた後のことである。
彼女の幼い頃からの女友達が、目に涙を浮かべながら、ウンク・ロンの哀れな最期について私に語ってくれた。私は、その女性を見つめた。容貌は平凡だったが、上品で礼儀正しい物腰を備え、世俗的な幸福に満たされていることが、あらゆる様子からうかがえた。その姿を見ていると、私は、はるか昔に亡くなった彼女のいとこの運命と、どうしても比べずにはいられなかった。
人生の出発点では、あらゆる恵まれた条件を備えていたように見えたのは、もう一方の少女の方だったのである。まことに、我々白人が魅力的な現地人の子供をかわいがり、その子供が本来属する民族や、受け継いできた生活の中では満足できないようにしてしまうことは、危険な行為なのである。
そうすることで、彼らは子供の顔を、これまでとは異なる道へと向けさせる。しかし、その道は、歩き慣れない足には苦痛と悲しみをもたらすばかりである。そして、その道の行き着く先は、おそらく破滅であることの方が多いのだ。
キャスカートのその後
キャスカートについて言えば、奇妙なことに、彼もまた、ほとんど同じ運命をたどった。彼は無謀な行動を取るようになり、ほとんど道義心を失うところまで堕落した。友人たちを遠ざけ、困難な境遇に陥り、ある程度の不名誉を被ることになった。
やがて彼はこの国を去った。そして、何千マイルも離れた土地で死んだ。そこは、世界を包み込むほど広大な大英帝国の、数ある辺境の拠点の一つ、その境界に位置する場所だった。
私が、ちょうどこの最後の言葉を書いていたとき、大きな目と長く透き通った翅を持つ、美しい緑色のセミが一匹、部屋の中へ飛び込んできた。そして、まっすぐにランプへ向かって突進したのである。
セミは何度もひどい火傷を負った。私は何とか助けようと、あらゆる努力をした。しかし、それにもかかわらず、セミはとうとう自らの破滅を招いてしまった。今、その小さな体は、死んで硬くなり、横たわっている。
そのセミは、新しい光の犠牲者となったのである。その光は、彼女の好奇心と憧れをかき立てた。しかし、彼女は、その光が自分を焼き尽くす力を持っていることを、理解していなかった。
あのセミは、涼しい月明かりの密林にとどまっていた方が、賢明だっただろう。そこなら、少なくとも、自分と同じ仲間たちに囲まれた、慣れ親しんだ故郷にいることができたのだから。
この説話、『A MEZZOTINT』は、単なる悲恋物語ではない。

19世紀末のマレー社会における女性の地位、植民地支配下での異文化交流、教育が生み出す希望と挫折、そして個人の運命に対する社会の責任を描いた説話である。
印象的なのは、キャスカートとロンの二人が、ともに恵まれた資質を持ちながら、最終的には破滅してしまうという事実である。
そして最後に登場するセミの死が、二人の人間の運命を一つの象徴的な光景に凝縮している。
美しい光に引き寄せられた者が、その光によって滅ぼされる。この結末によって、題名の『メゾチント』は、一人の少女の人生を描いた、光と影の深い肖像画として完成している。
フランク・スウェッテンナム著『THE REAL MALAY, PEN PICTURES』(1899年)には、この話を含めて16の説話や随筆が集められているが、筆者の印象としてはこの『メゾチント』が最も印象深い秀逸な作品である。
これ以上のインパクトを約束できない以上、このPEN PICTURESを紹介するシリーズはここで終えることが賢明だろうと思う。
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