【馬国】 19世紀ペラ州の歴史(9)

馬国

前回の記事では、19世紀のマレーシア事情に詳しい歴史家のウィルキンソンが解説する史実を紐解いた。表面上は諸般の事情を円く納めたパンコール条約の奥底にある海峡植民地政府の隠された意図を考えた。

外交面で無視することができない「スルタン」という「王位」の継承を条約の主文で謳いながら、史上初めてペラ地域に英国人の監督官を常駐させることの合意を勝ち取ることが植民地政府の眼目であった。

本音では、英国首脳がほとんど評価していなかった弱腰のスルタンを懐柔・傀儡化することで、英国の行政監督官をフロント・エンド(現地)で動かし、(欧州文化から見れば)気狂いじみた搾取や奴隷文化を解体し、ペラ地域での英国の財政支配と輸出利権を確保する予定だった。

全ては「新スルタンの合意の上」という江戸時代の「葵の御門」をフル活用するためには、新スルタンが本物の「キレもの」であってはならなかった。

しかし、当時の海峡植民地政府の首脳達は、そのフロント・エンドで繰り広げられていたマレーの既得権や行政システムについて、かなり甘く見ていたようである。本日の投稿は、英国側の誤算と言える当時の現地事情を深掘りする。

絶望的な地域財政

ウィルキンソンの著書から、英国の行政監督官となった Birch が見た現地の財政システムを見てみよう。マレー社会はすでに貨幣経済を運用してはいたが、債務者となった民衆はこれまで見てきたような残忍な奴隷制度に支配されていたし、全ての商業行為はスルタンと首長達の無秩序な搾取構造の中にあった。

「海峡植民地における最初の行政監督官(Resident Birch)に課せられた職務は、極めて困難なものであった。暗殺事件が起きてしまった今、教訓を得た我々から「何をすべきであったか」を指摘することは容易である。しかし、ペラ地域に到着した Birch には、そのような道しるべは存在しなかった。彼は全く経験したことのない種類の行財政制度に直面したのである。「どこに財源を求めればよいのか?」Birch は何度も自問せざるを得なかった。

スルタンは Perak River の河口に税関を所有しており、ここでの税収はスルタンの歳入(年 10,000 ドル)と二名の族長の歳入(それぞれ 1,000 ドル)だった。しかし内陸部には、さらに多くの関所があり、そこでは下級の族長たちが独自に徴収していた。過度な取り立てによって貿易の大部分が停滞していた。既存の関税収入を集めれば Birch 一人の俸給を賄うことは出来たであろうが、そうするとスルタンの利権やペラ地域の一般行政の予算は無くなってしまう。アヘン、酒類、賭博からの収益はスルタンの後継者に当たるラジャ・ムダ(皇太子)の特権(perquisite)であり、相応の埋め合わせ(quid pro quo)がなければ自ら利権を手放すようなことはなかった。

マレー社会にも財務長官(ベンダハラ、マレー語の役職名:Bendahara)が居るのだが、この人物(職位)は一部の通行料と人頭税を歳入としていた。小規模な村落の族長も、それぞれ独自のささやかな利権を持っており、それらの利権は彼らにとって大きな意味を持っていたが、しかしこれは容易に現金に換金できるものではなかった。すべての族長が握っていた絶対的価値とも言える利権は、「住民に強行労働(forced labour)を課す権利」であり、これは人道的な海峡植民地政府が行使を望むべき権利ではない。

最後の手段である新税の導入は、住民の不満や徴税人への抵抗、そして暴動(rising)を引き起こす可能性を意味していた。

ペラ地域の財政(Finance)はあらゆる行政の中核をなすものであるにもかかわらず、Birch は最初から絶望的と言える財政的困窮の立場に立たされていることに気づいた。」

出典:”A  History of The Peninsular Malays with Chapters on Selangor and Perak” (Kelly and Walsh, 1923)

ジェームス・バーチの決断

以前紹介したスウェッテンナムや、今回紹介している歴史家のウィルキンソンは、英国がマレー半島を植民地支配する原動力について、「言わずもがな」の事実を文章に残していない。それは、紛れもなく「軍事力」であり、マレー社会と対峙しても絶対に負けない「武力」に他ならない。

なんとなれば、過去の記事で紹介した悲惨な「ラルート戦争」を終結させたのは英国の軍事力であり、パンコール条約の調印において現地の権力者達の抵抗意識をあらかじめ弱体化せしめたのも英国軍の蒸気船 HMS Pluto に他ならない。これは植民地政府が使う客船であるが、当時の英国の海軍力を象徴するような蒸気船だった。

圧倒的な軍事力を見せつけた上で、外交面では極めて紳士的にマレー半島に入植した英国政府であった。しかし、ある局面では自国の目的の達成に向けて「強行に立ち回る」という選択肢は常に掌中にあった。

財政面で先の見えないペラ地域を任されたジェームス・バーチその人も、この時に英国としての強行路線を貫く覚悟を持った。

再びウィルキンソンの著作から引用しよう。

「今振り返れば、Birch のやり方は軽率であった。彼はスルタン以外の誰とも行政上の問題を議論することをしなかったのだ。このこういった意思疎通の拒否により、Birch は貴重な情報源から自らを遮断し、不完全なデータに基づいて決定を下すこととなった。

調査を行っていれば誤解を避けることができたはずの苦情(grievance)も、聞き入れられず一蹴された。例えばパンコール条約では、ディンディン(ペラ地域沿岸の一地域)の境界を「マラッカ海峡のチャートシート No. 1 に記載されている Bukit Segari」と規定していた。しかし、この時のチャート上の Bukit Segari は本物の Bukit Segari ではなく、内陸へ約 10 マイル入った Bukit Sunting Baloh として知られる丘であった。マレー人たちはチャートの誤りについて何も知らず、境界が誤った場所に設定されつつあると不満を訴えたが Birch はこの件に踏み込もうとしなかった。また、彼は Krian(Larut 地区のさらに北の領域)がイブラヒム大臣の領地に含まれていないと思い込んでいた。大臣は Krian を主張し、植民地政府 に提出された文書を参照するよう Resident に求めた。Birch は参照先に目を留めたものの、調査は行わず、大臣が納得するような対応をしなかった。

最も酷かったのは、族長達の世襲制の利権に対する彼の態度である。彼はそれを単なる blackmail(揺すり・喝上げ)とみなしていた。Resident として赴任したばかりの最初の1ヶ月でさえ、彼は交代前のスルタンであったイスマイルに次のように語っている。

「Perak の族長達に通告する、……彼らの誰一人として自らの名で課税することは許さない。税収はすべて適正かつ指定された場所と決まった手順で、そしてスルタンの名においてのみ徴収されなければならない。もし彼らが自らの利害だけで税を徴収しようと試みるならば、我々(植民地政府)は力づくでそれを阻止することになるだろう……」

出典:”A  History of The Peninsular Malays with Chapters on Selangor and Perak” (Kelly and Walsh, 1923)

行き詰まりから破綻へ

ウィルキンソンは、以前紹介したスウェッテンナム(パンコール条約でクラーク総督の補佐をしていた有能で若い文官)の記録だけではうかがい知ることができない当事者の心理戦を記録している。

以下の抜粋にあるとおり、バーチ監督官の最大の誤算は、いかに新スルタンが統率力の無い人物であっても、スルタンはスルタンであり、彼の示達(文章であれ口頭指示であれ)を「ペラ地域の族長達が拒否することはなかろう」という安易な盲信だった。

マレー社会を論ずるまでもなく、組織のトップにある人間を意思疎通のシングル・ポイントオブコンタクト(Single Point of Contact)としてとらえる考え方は理にかなっている。これは欧米でも日本でも原則的な組織統制の手順である。しかし、このことにはひとつの大きな前提条件があって、それは組織のトップが本当にトップとして組織内で認知され、納得されているという条件である。

植民地政府もバーチも、当時の軍事力を背景としたパンコール条約と、条約に明示した新スルタン(ラジャ・アブドゥラ)の認知こそは、ペラ地域内のすべての族長たちの揺るぎない合意形成であると信じていたのだが、どうもそれは絵にかいた餅であったようだ。

次に紹介するウィルキンソンの記録内容は1875年1月のパンコール条約締結から1年後の出来事であることに留意願いたい。

「1875 年1月、Resident は Perak の族長を集め、彼らの前で Sultan Abdullah と Ex-Sultan Ismail の間の和解をもたらすことによって、外交的な大転換を試みた。

だが、それは失敗に終わった。和解は成立せず、Raja Ismail は Regalia(王権の象徴)の引き渡しを拒み、Sultan Abdullah を正式に即位させることはできなかった。Pangkor Treaty に新たに署名した族長は一人もいなかった。 Birch はそのうちの一人である Maharaja Lela に署名を強要しようとしたが、Maharaja Lela は逃亡した。Ismail 自身も署名しないことに対して様々な弁明を行い、Perak を統治しようとする British Government の支配力を強めるためのあらゆる試みに対して族長達が感情的に反対していることを、Resident Birch に対して極めて明確に示した。」

日本の天皇制の即位式に必ず引き渡される三種の神器と同じものがレガリア(Regalia of Sultan)であり、マレー社会においては三種ではなく、様々な宝物や紋章などの貴重品一式が引き渡される。ウィルキンソンの記述が正しければ、パンコール条約締結後1年が経過した時点でも、まだアブドゥラ新スルタンは正式に「戴冠」していなかったことになる。その戴冠式の代わりとしてバーチが最大限の敬意を持って準備したイスマイル・アブドゥラ会談だったが、それも失敗に終わり、パンコール条約の根幹である新スルタンについての合意事項は「ちゃぶ台返し」状態に陥ったのだ。

「失敗の後、Birch はトラブルを覚悟した。そして、人々を威圧するために Larut から Sikhs(シーク教徒の警備隊)を呼び寄せ、砲艦(gunboat)を配備させた。しかし、そのような警戒措置は無用であった。chiefs は敵対行為を回避することを切望しており、交渉を望んでいたのである。彼らは、「海峡植民地政府の意向を当地の権力者に知らしめることだけが、絶対的な服従を確保するために必要である」という見解に対して、単に消極的抵抗(passive resistance)の政策を採用していたに過ぎなかった。Birch は交渉に応じなかった。彼は断固とした態度と決定力に対する自身の信念に執着し、Sultan 以外と議論することを拒否し続けた。そして、これが手詰まり(deadlock)を生み出した。

半独立状態にあった封建的な族長達は、(植民地政府が何を言おうと)自分たちの最も重要な既得権利を(英国側に付いた)Sultan Abdullah の手に委ねるつもりなど毛頭なかったのである。

その間にも、Resident の立場は財政的に追い詰められつつあった。地税(land-tax)はなく、人頭税(poll-tax)もなく、Malay の「farms(征税請負)」や専売制も存在しなかった。既存の地方税収は、欧州並の行政にかかる多額の費用と相殺すると、大した金額にはならなかった。Resident は自らの俸給、交通費、特定の chiefs への手当、Sikh ガードの給与、および Police の給与を賄わなければならなかった。彼は chiefs への提示額において慎重にならざるを得ず、実際には出し惜しみ的な姿勢を強いられ、同時に国のすべての ryots(庶民・農民)に対する poll-tax や hut-tax(hasil kélamin)といった新税について話さざるを得なかった。しかし、そのような提案は受け入れられるものではなかった。

族長達は課税そのものに反対していたわけではなく、その資金が他者の手に渡ることに憤慨していたのである。また、その支出の目的も Perak の Malay 人たちの承認を得られるものではなかった。(バーチ就任とともに英国側から派遣されてきた) corporal(巡査長)と警官隊は、地元の headman(村長)とその従者たちの競争相手となっていた。警官隊が余計者や成り上がり者として嫌われていたのに対し、headman は世襲の権利によって敬われていた。行政は二重化されつつあり、新しい機構は古い機構よりも悪質であるように思われていた。アジア系の警官は必ずしも謙虚ではないし、彼らの挙動も必ず正義の道を辿るというわけでもない。」

出典:”A  History of The Peninsular Malays with Chapters on Selangor and Perak” (Kelly and Walsh, 1923)

それでも尚、英国政府が最後の手段である「軍事力」にものを言わす段階にはなっていない。ここは、監督官であるバーチ氏の官吏手腕にかかっていたのだ。

「Resident は奮闘を続けた。彼は Perak River 沿いの Bandar Baharu に行政本部、あるいは一種の公式な「首都」の建設に着手し、ペナン島の華僑達から Perak の revenue farms(征税請負)に関する良好な入札(tenders)も取り付けた。しかし Sultan もまた、自らの方法で revenue を徴収していた。異議申し立て(expostulation)が功を奏しなかったため、Birch は海峡植民地政府に面会に行き、総督である Andrew Clarke が Sultan Abdullah 宛てに書いた厳しい叱責の手紙も持ち帰った。しかし、これが和睦をもたらすことはなかった。Birch はその後、Ex-Sultan Ismail に Singapore (植民地政府)を訪問するよう促そうとしたが、Ex-Sultan はこれを拒否している。

Resident Birchが強い個性と優れた手腕を持つ administrator であり、精力的な人物であったことに疑いはない。彼は Perak に生き残った Malay 人の従者たちの間で、今なお記憶され、称賛されている。しかし彼は、族長達の passive resistance(消極的抵抗)に苛立ちを募らせていた。1875 年 1月の日記には、Sultan (Abdullah) に対する長い不満をぶちまけた後、次のように記している。

「私自身のためにも、そしてこの国の平和のためにも、Ismail が Sultan であったならどんなに良かったことか」

この感情の爆発は、それ自体としては十分言い訳の立つものではあったが、Pangkor 政策に対するある種の否定発言(あるいは疑惑)であり、日記に残すことは憚られる内容といえよう。

出典:”A  History of The Peninsular Malays with Chapters on Selangor and Perak” (Kelly and Walsh, 1923)

最後までご覧いただき、ありがとうございます。

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