【馬国】 19世紀ペラ州の歴史(8)

馬国

アイキャッチ画像の写真。左からクラーク総督、監督官のバーチ、新スルタンのアブドゥラ(1870年初頭)

前回の投稿では、英国の初代「行政監督官」であったジェームス・バーチがペラ地域(現在はペラ州)のマレーの首長達の攻撃を受けて暗殺された事件を紹介した。

前回の内容にも含まれているが、マレーの権力者集団がバーチ暗殺を企てるまで英国統治に反発した背景に、英国植民地政府のクラーク総督が決行した「パンコール条約」とその条約の中心人物となった新スルタンのアブドゥラが、英国が意図した通りの役回りを演じるという筋書きの挫折がある。

挫折に至る一連の現地事情について、前述の英国官吏のスウェッテンナムの記述を紹介したのだが、今回は、また別の視点から、同じ英国の植民地事務官でマレー語の研究か、そして歴史家でもあったリチャード・ジェームス・ウィルキンソン (R.J. Wilkinson, 1867 – 1941)が書き残した “A History of The Peninsular Malays with Chapters on Selangor and Perak” (Kelly and Walsh, 1923) を参考に、当時のペラ地域に起きていた英国植民地政府の苦闘とマレーの首長達の疑心暗鬼と利害の衝突を深掘りする。

ウィルキンソンは典型的なマルチリンガルであり、仏語、独語、ギリシャ語、伊語、そしてスペイン語を自在に操り、後には英国海峡植民地の高等官組織に文官候補生(カデット)として入局しマレー語と福建語も修得している。彼は1823年にロンドンで設立された、アジアの言語・歴史・文化・地理などを研究する学術団体 Journal of the Malayan Branch of the Royal Asiatic Society(JMBRAS)における重要な寄稿者だった。

バーチ駐在官の暗殺に繋がった英国側のリーダー達とマレーの権力者の意思疎通についてのウィルキンソンの史実の解説は切れ味が鋭く公平で、英国植民地政府の判断ミスや暗殺されたバーチ本人の行動履歴や分析は価値が高い。このウィルキンソンの来歴や彼の書籍は日本語では紹介されていないようだが、馬国(このブログだけのマレーシアの略語ではあるが)を知る上で重要な情報源と言えそうだ。

今回から、いくつかの投稿に分けてウィルキンソンの史実探訪をまとめて紹介したい。

パンコール条約の功罪

このブログでも何度も紹介し、ブログの主である筆者が日本版ウィキペディアに投稿した通り、パンコール条約(以下「P条約」)は、「独立前のマラヤ連邦内の領主(スルタン)が初めて英国政府による司法・行政権の行使を認め、その後のマレー半島における英国政府のプレゼンスを決定づけた条約であり、歴史上意義深い」のだが、条約をまとめたのは、海峡植民地に就任してまもないクラーク総督であり、普仏戦争(1870-71年)で圧勝したドイツのマレー半島進出が懸念視されていた時期であり、英国はペラ地域の錫鉱山の輸出の利権を確保したいという深い経済戦略も秘めていたため、全体的に「急いで」「手っ取り早く」ペラ地区の華人による紛争や、スルタン制によるマレー社会の権力闘争に決着をつけたかったという特殊事情が絡んでいた。

英国植民地政府は、シンガポールやペナンを拠点とする英国占領軍の武力支配を背景に、現地では支配力に乏しい軟弱で日和見主義的な皇太子のラジャ・アブドゥラを新スルタンとして公認・認知する代わりに、ペラ地区の「行政権」を英国の行政監督官に「委ねる」という(英国支配を強める上で決定的となる)外交的な一手を打った。

P条約は英国の軍艦の船上で、圧倒的な外交的威圧を受けた状態で主要なマレーの権力者と華人のリーダーが署名した条約だが、英国側が利用したラジャ・アブドゥラへの現地マレー社会の信頼度があまりにも低かった事実を英国は充分評価していなかった。優柔不断で信頼できないスルタン候補であったアブドゥラが、本当にスルタンになれるとはマレーの首長たちは思っていなかったようである。

もっと驚くべき事実がある。それはマレーの首長たちだけではなく、肝心の植民地政府首脳も、当初から新スルタンのアブドゥラをまともな権力者として評価してはおらず、コントロールしやすい外交の道具として位置付けたことだ。

歴史家の証言

以下はウィルキンソンの書籍からの抜粋(英文)をグーグルの Gemini を使って翻訳したものを筆者が若干訂正したもので、文章として必ずしも読みやすいものではないが、大変参考になる情報ではある:

「(公開された書簡類からは)Birch が最初の Resident of Perak に任命されたことが、当時の海峡植民地総督のSir Andrew Clarke の主導によるものであったかどうかは明確ではない。我々はそれを推測できるのみである。Birch はパンコール政策の熱心な支持者であり、自身の上官の考えを忠実に実行する人物だった。セイロンで訓練を受け、豊かな行政経験を持つ有能かつ精力的な官僚でもあったのだ。

Perak 滞在中、彼は詳細かつ率直な日記を書き残した。そして、この日記の写しが彼から 英国政府首脳(Secretary for Malay Affairs)へ随時送られていたことから、執られた政策の路線は海峡植民地政府によって本質的な点において承認されていたと推定できる。

Birch は Malay 語を知らず、マレー半島の Sultan たちとの外交交渉に雇用された経験もなかった。しかし、(海峡植民地における)専門的助言者は、「絶対的な服従を確保するためには、大英帝国の意向を現地の領主たちに知らしめることだけが必要である」と定めていた。この見解が正しく、かつ Perak地域のスルタンとして Raja Abdullah の選定が正当なものであったと仮定するならば、Perak が必要としていたのは 英国の外交官ではなく管理職であった。そして Birch の活力と過去の実績は、彼を海峡植民地の役人の中でも最も優秀な管理職として際立たせていた。

彼(Birch)は 1874 年 10 月 30 日に Penang を離れて新しい任地( Perak地域)へと向かい、数日後に Batak Rabit にあるスルタンの邸宅に到着した。

当時のBatak Rapid での記念写真。中央2列目の右側にスーツを着た英国人が写っている。おそらくはスウェテンナムである。

彼が若気の至りで犯したかもしれないいかなる過ちについても日記に書き残されている。だが、そこにあるラジャ・アブドゥラの短所にまつわる記事は、公開するにはあまりに奔放な表現で記録されていた。

Sir Andrew Clarke はラジャ・アブドゥラについて警告を受けていた。それでも「パンコール条約」に関する公開公文書の中で、アブドゥラへの信頼を表明していた。公文書の同封文書において政府有識者も ラジャ・アブドゥラを「並外れて鋭敏で聡明である」と描写していた。このことから(隠された意図を)推し量ることができる。彼らはある程度 Raja の素行の保証人となっていた。しかし、Birch は自らの見解を隠さなかった。Batak Rabit で ラジャ・アブドゥラに会った日から、彼を軽視し、自らの考えを英国政府関係者に報告していた。

当時の植民地トップの 3 人全員が、スルタンという王位の人柄などは「取るに足らない」という見解だった。実のところ彼らは、アブドゥラの短所を見て、これは、むしろ「植民地政策推進の助けになる」と見ていたのである。

Perak 到着の 4 日後に、Birch はこう書いている。「この人々に対しては、きっぱりとした決断力以外には何も必要ないことが分かる」。約 15 日後、「毅然とした態度こそが、すべてを成し遂げると信じる。そして彼(Abdullah)に対して、我々は毅然かつ威圧的でさえなければならん。確かな助言者が居るのにそのアドバイスを受けない男に委ねられた国に神の加護があらんことを! 彼のことを考えると、しばしば絶望的になる。だが、彼は所詮「操り人形」に過ぎない。(いずれ)我々が助言する通り行動だろう。」

これは外交的な言葉ではない。行政管理官が新スルタンと円満に協力し合うことを期待されていたなら、このような独白が記録されたはずは無い。さもなければ Birch は(不敬罪で)本国に召還されていたはずである。」

出典:A History of The Peninsular Malays with Chapters on Selangor and Perak” (Kelly and Walsh, 1923)

これが真実であれば、暗殺されたバーチは英国の「無理な」植民地政策の犠牲になった気の毒な人物である。

最後までご覧いただき感謝申し上げます。この記事の写真は全てWikipediaに掲載されたPublic Domain の写真です。ウィルキンソンの書籍から転載したものではありません。

次回もウィルキンソンの書籍を参考に、バーチ暗殺の背景となっていた史実を深掘りします。

前回の記事(バーチ暗殺劇)はこちら

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