この投稿は、本編「実録:馬国で育つ」の関連記事、そして別の本編「修行体験」の詳細記事でもあります。
筆者家族が馬国への移住を決意して日本を出てから6年と半年が過ぎた2006年の春。
2年以上世話になった天才華人のビンセントの配下で修行していた筆者は、また新たな運命的展開に巻き込まれます。
2005年から2008年にかけての4年間というのは、世界的なエネルギー開発ブームがあった時期です。中東での石化プラント建設の需要はバブル期にありました。建設される設備もより大規模になっていました。
企業の経営戦略に関わる内容について詳しく説明することは出来ないのですが、とにかくこの4年間、日本のプラント建設業界も、重電メーカーも海外のプラント需要に対応するために、経験者を世界中から集めていたのです。
客先は中東の民族系エネルギー会社だけでなく、欧米の大手エネルギー資本です、日本企業は実力100%以上を要求されていました。
プラント建設の設計や資機材の調達のための遂行要員は、少なくとも5年の経験を必要とする業界です。
天才商人の提案に追随せず
【がちで起業】本編でお話ししましたが、筆者が馬国で道を誤ったのは「金儲け」という実態の無い概念を起業することの目的にしてしまったことです。
「金儲けをする」という目的のなかに、具体的な到達点はありません。
1億円もうかれば次は2億円、それを達成したら次は10億、そして次・・・
目的が「金儲け」なので幾ら儲かっても「達成」したことにはなりません。
筆者が修行した天才商人のビンセントには、このことに関わる重大な悩みがありました。
彼の商売は年々拡大していて、2005年には馬国内の製造業を買収するまでになっています。このメーカーは馬国の電材メーカーのひとつで、従業員は50人以上はいました。
ところが、このメーカーはビンセントの会社を相手取って訴訟を起こしていたのです。訴訟理由はビンセントには全く心当たり無く、予想外のものでした。
彼の個人資産は数億円レベルです。それだけで親戚縁者から「援助」の申し出が後を断たなかったようです。
3人の子供は使用人に預けた状態で、彼は長女がどのようにして育ってきたか記憶がありませんでした。
毎日の営業戦略、顧客対応、メーカーとの意思疎通に明け暮れていて、気の休まる時間もありません。
これが、私が起業時に描いていた「金儲け」の実相だったのです。
そういう毎日の中、彼は自分の事業から撤退したがっていましたから、筆者に「資産を供与するから事業を引き継いでくれ」と依頼してきたわけです。
筆者は、ビンセント社長が如何に裕福でも、その実、とても苦しい毎日を送っていた事実を見聞きしていました。だから、丁重にお断りしたのです。
即戦力が必要
筆者は2005年にビンセント社長(仮名)の悲願、「日本の企業D社(つまり筆者が所属していた企業)への電材の売り込み」を実現していました。
件(くだん)のエネルギー事業ブームで、D社が受注した中東の大型プラント向けの電源ケーブルの受注に成功したのです。
当時のプラント建設の規模はD社にとっても空前の大事業でしたから、ビンセントの会社が請け負った馬国のケーブルの受注額は巨額でした。
筆者を雇用した2年分の人権費や、横浜に設置した日本の出張所費用もも容易に回収できていたのです。
筆者は、この件のアフターサービスのために、しばしばD社の応接室に出入りして担当技術者や購買担当と面会していたのですが、
ある日、D社の業務担当の上級管理職に声をかけられて、思いもよらぬ依頼を受けます。
「6年前に退職したことは忘れて、正社員として年功ベースで復帰してほしい。」
つまり、復帰すればその瞬間から同期の社員と同じ待遇で雇用する、その後の昇進のチャンスも約束する、賞与も払うというのです。
ただし、曲げられない条件はありました。
■定年まで絶対に離職しないことを約束する
■退職金はゼロから勤続年数を評価し直す
■49歳を過ぎたら採用できない
当時筆者は48歳になっていました。
長男を私立医大で学ばせる
D社から提示された「正社員」の処遇は、筆者の長男が目指していた馬国の私立医大の学費を何とか捻出できるレベルでした。
ビンセントからの報酬では、私立医大は困難でしたし、長男には奨学金を取れるレベルの学力はありません。
D社幹部の依頼を受けることにしました。
この瞬間から筆者の就業目的は「長男を医師にする」という明確なゴールに変ったのです。
D社が要求した仕事内容は、6年毎まで筆者が担当していた業務ですから、知らないことは何もありません。
むしろ馬国での6年の顧客対応の修行や電材の知識は、以前の筆者の専門知識をさらに増幅させるに足るものでした。
発展的解消
華人社長へは長いメールを打って辞任の意思を伝えました。
「なぜ辞める?」
当然ながら、華人集団からは厳しい追及がありました。
筆者は、ごく常識的に1か月後の退職を通知していましたし、もとより雇用契約の無い関係にありましたから、法的な問題はありません。
D社に戻ることで年収が上がるという事実も正直に伝えました。
ビンセントにとっては複雑な話でした。(事業を引き継ぐ話は既に断った後です)しかし、彼は「筆者が彼の事業の本質を理解した上で日本の企業に戻っていく」という構図を歓迎しました。
「D社に戻って以降、我々の事業が価値ある事業だったことをよく説明して欲しい」というのが彼の希望でした。
まだ、D社への売り込みは続けるという強い意志が伝わってきました。発展的解消です。(日本の企業文化の影響からか、残念ながらビンセントの会社とD社の取引はこのあと激減します。)
KL在住の家族はもろ手をあげて賛同しました。
筆者の交代要員はすぐに見つかりました。日本の重工業系企業からの定年退職者を雇用したのです。
筆者は、2006年の6月にD社に「再入社」しました。
本人は単身で日本に帰国、家族はその後12年に亘り馬国での生活を続けたのです。
この話の続編は、別の記事で紹介させていただきます。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。