【MM2H情報】真説KLが生まれた19世紀<19>

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1873年末

セランゴール戦争が終結すると同時に、壊滅的な状態のクアラルンプールの復旧が始まります。

戦禍のセランゴールはブログに書けない凄惨な月日でしたが、ボロボロになったクアラルンプール(KL)を元の錫鉱業のメッカに立て直し、行政区としてインフラを整備することは並大抵の話ではありませんでした。

今回と次回の「真説KLが生まれた19世紀」は、KLの華人キャプテン葉亞來のKL復興の履歴を辿ることで、いよいよ「セランゴールの首都」としてのKLへ成長する過程がわかります。

今回も、Kongsi Networks のウェブサイトの記事を中心に、専門家やWikipediaの内容を統合した内容になります。

市民戦争の代償

Sultan の名代として総督として戦争を終わらせたとされる Tungku Kudin でしたが、彼もまたセランゴール全体の領主たちから猜疑心を持った目で見られたようです。

Pahangからの遠征部隊を要請したのは Tungku Kudidn でしたが、その Pahang軍も終戦後にすんなりPahang国に帰還せずに、しばらくはセランゴールに滞留しながら、支援の代償として地域の租税徴収の権利を主張したのです。結局、 Pahang軍は Kuala Selangorと クラン地区の租税徴収の権利を一定帰還保持しています。

こういった支援の代償の支払いは、Pahang軍だけでなく、セランゴール戦の最終段階で正規軍を支援した英国海軍の一部も部隊にも一定期間の錫鉱区の割譲といった支払いが行われています。

多額の「戦争サービス料金」の徴収は Tungku Kudidn の名声を汚したようです。この地に身を置くことが困難になった総督は1876年には Kedahの国に帰郷しています。

Tungku Kudin以外にも、イギリス政府や、マラッカの投資家も戦争被害を訴えてきています。

Tungkku Kudin by wikipedia “Klang War”

大英帝国とセランゴール

内戦状態が続きたセランゴール地区には英国が投資して建設してきたインフラや港湾施設がありましたから、これらが破壊されたことを重くみた英国政府Tungku Kudin を支援して早く戦争を終結させる動きを見せました。

英国政府が Sultan 側の Kudin を軍事的に支援したのは、Raja Mahadi がマラッカ海峡で行った海賊行為が色濃く影響しています。

もとより、英国はマラヤへの内政干渉はしない方針でしたが、セランゴールでの大規模な内戦や、その北のペラック地方での華人秘密結社同士の内戦などを理由に、その方針を変更します。

そして、セランゴール内戦終結を待たずに、1873年9月の時点で、英国政府はマラヤへの内政干渉の自粛令を撤廃したのです。

これ以降、英国政府は、マレーシア半島の「間接行政」を開始します。

当時のセランゴールのスルタンであったAbdul Samadも、英国への抵抗はせず、早々にセランゴールの保護を英国に依頼する書簡を提出しています。事実上の「服従宣言」と言えます。(1875年)

マレー半島の各地方に配置された大英帝国の行政官は「レジデント」(Resident) と呼ばれてました。そしてセランゴールの初代英国レジデントは J.G. Davidson という行政官でした。

ペラックの華人集団から始まった紛争の最終決着として、パンコール島の近くで調印されたパンコール条約は、それ以降のイギリス統治権について正式に地域のスルタンが合意した条約として有名です。

パンコール条約に係る記事はこちら

葉亞來のクアラルンプール復興事業

文字通り「命がけ」でKLを守った葉亞來を待っていたのは、焼け野原と、破壊し尽くされた錫鉱区の施設や街のインフラです。

キャプテン葉亞來の伝承が語られる時に、いかにも彼が、KLの街を整備・統制して順風万歩で都市開発をしたかのような文章が多いのですが、実際のKL復興は、ほとんど希望「ゼロ」に近い「無謀」な努力だったようです。

初代レジデントのJ.G. Davidsonが1875年にKLを視察した時の報告文では、

殆ど全ての錫鉱区は、内戦中に完全に水没。建屋・機器・資材は焼失ないしは破壊された状態。戦後の業者は借金で錫鉱区を建て直していたが、返済は滞り、債権者の圧力が強い中、商社からの資金調達もほぼ不可能な日々であった。

Kongsi Network

KL復興後にマレー連邦全体のレジデントの総督に就任したFrank Swettenham によれば、当時の葉亞來の奮闘努力を評して、もし彼の「忍耐力が無かったら、おそらく中国移民はこの国に定着しなかった」とまで言わせています。

image photo by envato elements

葉亞來のKL復興事業は、錫鉱業を中心に、1874年初頭から1880年の6月ごろまでの6年半続きました。

何よりもまず、現地の刑法と秩序を建て直して、住民を集めました、1875年までに、クラン地区から2000名、芙蓉地方からも600人の錫鉱労働者を集めています。

これまでの物語を読んだ方は、この数字がいかに大変な数字がご理解いただけると思います。

当然ながら、当時の葉亞來の肩には多額の借入金の重圧がのしかかりました。1879年までの錫の取引市況は低迷していて、豪州で新たに開発が始まったことから単価が下がっていたのです。

レジデントのDavidsonもセランゴール総督府の信用保証を発行するなどして、葉亞來を支援していたようです。

葉亞來は現地のマレーの農民にも働きかけて稲作を奨励することで、食料の自給率を高める施策を取りました。

一時は、破綻寸前まで落ち込んだ葉亞來の錫鉱区の財政は、1879年の奇跡的な錫価格の高騰に救われます。

そして、1880年が半年過ぎた時点で、葉亞來は全ての債務返済を終えています。そして同じ年の3月には、英国政府がKLをセランゴールの首都に定めています。詳しくは次回の記事に述べます。

1884年、復興後のクアラルンプール source : wikipedia “British Malaya” The photo is in public domain

次回(このシリーズ最終回)はこちら

最後まで参照いただき、ありがとうございます。

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