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この記事は「ナシ・アヤム歴 (1)」の後編です。前編を読んでいない方は、まず前編を読んでからこの記事を参照いただくと、内容がわかりやすいです。以下のバナーから飛んでください。
本日のEye Catch 画像は、Wikipedia日本語版に掲載されている、シンガポールの有名店。
前回、英語とマレー語の Wikipedia中心の資料から、 Nasi Ayam、即ち海南鶏飯(チキンライス)の起源と来歴を紐解いてみました。
後編では、便宜上、Nasi Ayam=「海南鶏飯」と呼びます。何故なら、Nasi Ayam の源流は中国の海南島であり、調理法も海南鶏飯が源流になっているからです。
英語圏(つまりシンガポール)では、海南鶏飯は1920年頃に露天商が扱ったという史実が起源で、この料理はシンガポールの国民食であるとともに、「シンガポールから東南アジアに普及した」という説明になっています。
英語圏の資料を参照した後に、筆者は中国・海南島の言語である中国語の資料参照に進みました。
すると、驚いたことに、中国語の資料には「海南鶏飯の起源はマレーシアにある」とはっきり書いてありました。
なぜシンガポールや英語圏の資料では「シンガポール起源」で、中国語では「マレーシア起源」になってしまったのか?
この記事はその理由・背景を明らかにします。
海南鶏飯の伝来とシンガポールの独立
全ての資料(全言語)に共通していることは、海南鶏飯の露店商や店舗が(マレー半島で)始まったのは1920年頃だという史実です。この点ではシンガポール起源説もマレーシア起源説も同じです。
歴史を紐解けば、1920年~1965年までのシンガポールは大英帝国の占領地から大戦を経て日本にも占領され、ようやくマレーシアとして独立にたどり着くまでの激動期です。「シンガポール」という単独の国家は無かったわけです。
この時期、海南鶏飯が「マレー半島のどこかで」食文化になったということですから、この食事の起源を1920年から1930年とするなら、これは「英国領マレー半島が起源」ということになります。
話を現代にもどして、果たして海南鶏飯が「地理的な意味で」定着したのは、現在のシンガポールなのか?マレーシアなのか?という問いへの答えが論点です。
そしてその意味では、中国語版の資料の方が、英語版やマレー版よりも詳しく書かれていて、信頼性も若干高いと言えそうなのです。以下、要約です。
1920年頃 何処で何が起きたか?
前編では、シンガポールの博物館にある資料で、英名 Wang Yiyuan という露天商が「シンガポール」で鶏飯を売り始めたという史実でした。
一方、中国語の資料では、1920年代には既に 馬国はセランゴール州のクラン地区に店舗があったという記録があるのです。その店主は梁居清(Liang Yu Qing)という人物で、(カタカナではリャン・ユーチン)この人物がクランで開業したのが最初なのだそうです。
この事実は、1956年生まれで現役の馬国の作家「林金城」が調査した結果です。
中国語版のWikipediaによると、1920年代というのは、マレーシアで海南鶏飯が鶏飯店の料理として頭角を現した時期です。曰く、
マレーシアの学者による現地調査によれば、王義元は1936年に初めて海南雞飯を販売し始めたが、1920年代末にはすでに地元の華人、梁居清(Liang Yu Qing)がクランで雞飯を販売していた。一方で、王義元は1920年代にはすでにマラッカで同郷の人たちと一緒に雞飯の技術を学び、1930年代にセランゴール州のクランに移住して露天で販売を開始した。
出典:中国語版 Wikipedia 「海南雞飯」
この中に出て来る「王義元」という人の英名はWong Yik Yuanであり、シンガポール国立博物館にある記録の Wang Yiyuan とほぼ同じ読みなのです。同一人物かどうか、残念ながらはっきりしません。
王義元は、後にマレー半島南部の海南鶏飯の大店舗となるレストランの基礎となった人物で、梁居清(Liang Yu Qing)から少し遅れているものの、大店舗を通して鶏飯の普及に貢献しました。つまり「レストランで売れるメニュー」としての海南鶏飯を確立したのはマレーシアの華人、王義元なのです。
どんでん返しの中国語情報
英語版の Wikipedia はシンガポールの情報として漢字名が不明のWang Yiyuanの露天商が起源ですが、中国語版では、1920年代に「マラッカで複数の料理人が鶏飯の技術を学んだ」ということが基礎になっており、1930年代に「セランゴールのクラン」でも露天商をしていたというのが史実です。これは、英語版の情報をひっくり返す「どんでん返し」です。
シンガポール起源説(英語版資料)では、1940年代になってようやくMoh Lee Twee という人物が鶏飯の店舗を始めた、としていますから、この時点でシンガポール地区の海南鶏飯の店舗の開発は遅れを取っています。但し、この人が始めた「瑞記雞飯店(Swee Kee Cjhicken Rice)」は当地でとんでもなく繁盛して、Moh Lee Tweeは富豪になっていますから、社会的な認知度と鶏飯の普及率は絶大だったのです。
ところで、このMoh Lee Tweeという人の漢字名は「莫履瑞」であり、この莫履瑞という人は、前述の「王義元」(Wong Yik Yuan)の一番弟子なのです。この子弟関係は完全に確認されているので、もう、これは文句なく、地理的にもマレーシアに起源があったと言って良いのではないでしょうか?
最後に中国版がダメ押しを記述しています。それは両国で話題にしている登場人物が、全てマレーシアの華人であるという事実です。
クアラルンプールにある有名な海南雞飯店「南香」は、1938年にオープンし、歴史は非常に長いです。これより前に、王義元や梁居清はどちらもマレーシアの華人であり、したがって「海南雞飯」の名前の起源はマレーシアにあると言えます。
出典:中国版wikipedia「海南雞飯」
複合的歴史と商業的成功
時系列的な検証においては、馬国の料理関連の作家として名高い林金城氏や、マレーシアの学者の解明で、明らかに「マレーシア起源」ですが、
一方で、海南鶏飯を世に広めたのは、前述の莫履瑞(Moh Lee Twee)の瑞記雞飯店であり、現在でもジョホールやシンガポールには「瑞記」ブランドの鶏飯店が有ります。
つまり、マーケティング的には、1965年の独立後のシンガポールが、マレーシアを凌駕する活躍をしてきており、世界にチキンライスを知らしめたのはシンガポールだったのです。
これは、1965年にマレーシアから離脱を余儀なくされたシンガポールが、苦しみをバネに世界有数の商業国家に発展した経緯を反映した話と言えます。
Nasi Ayam の味と文化を生んだのはマレーシア、それを商業的に爆発させたのがシンガポールだというのがこの記事の結論になります。
以下は、マレーシア起源説を豪語する中国版 Wikipedia の見解です。
海南鶏飯の起源はマレーシア半島地域で依然として議論されていますが、現在では一般的にシンガポールの国民料理と見なされています。シンガポールが独立した後、華人が国の人口の比率に占める割合が高く、マレーシアよりもシンガポール政府は地元の伝統的な華人料理に注力してきています。
同時に、様々な手段を使って海南鶏飯の包装やプロモーションを行ったシンガポールが世界で最も国際的な都市のひとつであることから、食べ物が知名度を得るための十分なプラットフォームとなり、地元の海南鶏飯が世界的に有名な料理となったのです。
出典:中国語版 Wikipedia 「海南雞飯」
最後までご参照いただき、ありがとうございました。次回にご期待ください。
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