【MM2H情報】知っときたい 馬国政府と議会<9>

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アイキャッチ画像の写真は、”THE 13TH MAY 1969 RACIAL RIOTS The True and Fair View” という作者不明の書籍の表紙です。表紙には by jebat must die という意味不明なクレジットが印字されていました。jebat というのはマレー語の「黙れ」です。

この記事は、本編【MM2H体験】の関連記事です。馬国の「おすすめ情報」まとめ記事はこちらです。

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前回までの記事をまとめると

1957年の独立次に準備されたマレーシア憲法は、馬国初代の議会の成立を持って1959年に発行され、その後10年は、アブドウル・ラーマン政権の立憲君主国マレーシアが英国統治を脱した国家として成長していたが、

民族間(マレー人・華人・インド人)の融合政策は、ごく少数の富裕層では受け入れられたものの、マレーと華人の貧困層の国民の支援を得られず、

憲法153条の趣旨も、解釈によって不公平間を助長する側面もあり、マレーシア国内各地では民族間の小競り合いや衝突が繰り返されるようになっていた。

1969年5月10日の総選挙で、与党の体制が傾く結果を見た野党の革新グループがクアラルンプール(KL)で連日集団のパレードを行う中、反マレーを剥き出しにしたスローガンと、路上でのマレー人への挑発を行った。

大きなほうきを車に積んでKLの街をパレードする野党の若手メンバー photo by THE 13TH MAY 1969 RACIAL RIOTS The True and Fair View

5月13日、行きすぎた挑発に対して、与党の保守系マレー人組織が対抗行動(パレード)を企画したが、それを実行する日の朝からマレー人の若年層が、KLの拠点(セランゴール州の首長宅)に集結し、

間も無く武器を持ってKL市内で華人を対象に攻撃を始めた。

彼らもやがては攻撃の対象となった。事件当時のパレードの貴重な写真。THE 13TH MAY 1969 RACIAL RIOTS The True and Fair View

かくして、華人とマレー人を中心とする紛争がKL市内で大規模に広がったことで、驚いた警察首脳と政府は、競技の上で外出禁止令を発令し、警察の機動隊を紛争現場に派遣。当初は催涙ガスによる鎮圧を始めたが、やがて「射殺許可」とも言える射撃命令が発行され、

夕刻には陸軍も加わり、銃撃による死者が出る惨事に発展。放火で難民となった1000人以上の華人とマレー人は市内のスタジアムに非難。13日とその後の数日の動乱の結果、数百人を超える死者が出るマレーシア最大の国内暴動となった。

その後の、政府の動きと政情への影響を調べました。

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 非常事態宣言

1969年5月10日の総選挙の結果と、13日に死傷者を多数出したKLでの暴動(五十三事件)を受け、当時の国王 Sultan Ismail Nasiruddin Shah 陛下による国家非常事態宣言 (Proclamation of Emergency) が発令されました。

同日、政府に変わり、全権を統治する臨時国政理事会、英名 National Operatins Council (NOC), Majlis Gerakan Negara (MAGERAN) が設置され、Rahman首相ではなく、副首相のTun Abdul Razak を最高責任者として運用を開始します。

憲法による国家運営は一部凍結され、馬国議会も停止状態とされ、NOCだけが、事件発生後の18ヶ月間の全ての意思決定権を与えられました。

NOCは、何よりも先ず、マレーシア国内の法と秩序を維持する国政管理を実行し、非武装での地域監視組織、陸軍による治安部隊、そして警備隊を従えました。

新聞報道は15日に禁止されましたが、18日には解禁となり、21日以降は検閲対象となっています。

ただし、この時に外国の報道活動は禁止されています。市民が外国のニュース記事を所持していた場合は補導され、外国のレポーターは糾弾されました。これは主に、マレーシアの陸軍が全てマレー人組織であったことで、マレー人に有利な武力統制が行われていることを報じていた外国のメディアを締め出す目的があったようです。

当時のNOCによる、非常事態宣言下での特別法である Emergency (Public Order and Crime Prevention) Ordinance 1969 が発令されています。

2ヶ月以内には、外出禁止令もほぼ解除され、国家的な法と秩序は回復しました。

五十三事件がもたらしたもの

この暴動事件については、実に様々な発生原因説や、事件の背後にある陰謀論などが、今でも馬国内で静かに渦巻いていますが、国民の大半は、原因や、経緯について改めて議論することを嫌います。

事件を体験した一部の有識者は、事件当時その場所にいなかった人物が、この事件について発言することを極端に嫌っているようです。

筆者は、この事件の根本原因や、陰謀論や犯人探し的な議論はできません。しかし、この事件をバネに、マレーシアを前向きに変えていく動きが出てきたことは、必ず確認しておくべきことだと信じて編集しています。

次の、いくつかの史実をご紹介します。

首相の交代

1970年9月22日、事件発生から17ヶ月後に、マレーシア議会(Parliament)が再開する頃にはNOCの責務は終了し、これまでの経緯から、初代 Tunku Abdul Rahman 首相は退陣に追い込まれ、新たに副首相だったTun Abdul Razakが首相に就任しています。

次世代政治家が声を上げた

事件当時、総選挙で議席を失った与党UMNOの代議士の一人が Mahathhir Mohamad でした、同氏はこの時、落選という結果に悲嘆することなく、暴動事件をはっきりと「政府責任」であると主張。特にAbdul Rahman首相に対し、マレー人に富の分配を齎す政策をうち出さずに、成り行きに任せた「単純思考」と避難しています。

Mahathhir 氏は首相から反感を買い、結局はUMNOから追放されますが、同氏がこれをバネに著した The Malay Dilemma という名著はこの時に生まれています。この書籍で、Mahathhir 氏は、マレー人を経済的に支援する action programme を提唱したのです。

与党連合の拡大発展

1973年には、当時の連合与党出会った Alliance Party は連合規模を拡大し、連合名を Barisan Basional (BN) と改名、それまで野党であったGerakan, PPP, PAS の3つの政党が連合に加わっています。

New Economic Policy (NEP)

1971年。政府は New Economic Policy (NEP) を発動します。NEPは、マレーシア経済を拡大(GDPの飛躍的増大)を目指し、既得権である華人の富を奪うことなく、マレー人の経済占有率30%を達成するという冒険的な計画でした。

1970年当時のマレーシア経済におけるマレー人の占有率は4%でした。これを30%に上げるためには、差分の26%以上のマレーシアの国民生産を20年以内に実現するものでした。

暴動事件と直接の因果関係を説明することには無理がありそうですが、affirmative actin plan の一つとして、1974年に、クアラルンプール市が、セランゴール州から離れて「連邦直轄区」に再定義されています。

憲法153条が初めて具体性を持った

New Economic Plan (NEP) は、憲法153条の内容を具現化するものでした。

実は153条文はリード委員会の提案で、憲法発布以降15年経過した時点で見直すべきという申し送りがあったのですが、その期限は1972年であり、

五十三事件の衝撃が大きすぎたために、見直しは実現していません。

代わりにNEPが 153条を具体化したものとして、マレーシア経済におけるブミプトラの占有率が、目標の30%に達することが期待されてきたわけです。

1991年時点で、この目標は達成されず、その後の National Development Policy に引き継がれています。

そして、 National Development Policy を1991年に実施したのが、他でもない、 Tun Dr. Mahathhir Mohamad首相(当時)なのです。

NDPはマハティール首相の物語の一部として紹介されている(英語版のみ)

参考 Emergency Ordinance 1969

Emergency (Public Order and Crime Prevention) Ordinance 1969 (略称EO)は、五十三事件後に設立したNational Operatins Council (NOC), Majlis Gerakan Negara (MAGERAN) により制定された新法で、2013年まで効力があった。

EOが発動された場合、逮捕された者は、司法による介入を待たず、国の刑務所に無期限で収監されるという非常に厳しい法律。反政府勢力の危険人物に適用された経緯がある。

現在、この法律は失効したが、同様の無期限収監は Prevention of Crime Act 1959 (PCA)を持って有効との情報がある。

出典: wikipedia 英語版 Emergency (Public Order and Crime Prevention) Ordinance, 1969

終わりに

筆者は1995年に初めて馬国のプロジェクト事業に参加する機会を得たのですが、当時筆者は企業の一員でした。

半国営のプロジェクトを、マレーシアのブミプトラの会社と共同で受注して、これを遂行する上で、契約には30%のブミプトラの占有率の制限がはっきり示されていました。

この時、もし、誰かが、筆者にマレーシア憲法の成り立ちと153条の意味、そして1969年の五十三事件のことや、NEPの失敗などの話をしっかりしてくれていたら、

この国のブミプトラ政策への理解は当時と全く違ったものになっていたでしょう。

知らないということは、恐ろしくもあり、また残念なことでもあります。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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