【MM2H情報】知っときたい 馬国政府と議会<8>

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この記事は、本編【MM2H体験】の関連記事です。馬国の「おすすめ情報」まとめ記事はこちらです。

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前回の「知っときたい」シリーズでは、馬国憲法第513条を主題として、マレーシアにおける、ブミプトラの法的位置付けと、マレー人や東マレーシアの民族の定義などの基礎的な設定を見てきました。

これまで調べてきた、マレー人の定義、ブミプトラに関する憲法による国王陛下の機能などについては、

英国の海峡植民地から、立憲君主制の独立国となったマレーシアの、手厚い準備と有能な指導者が結集した努力の結実だということがよく判りました。

どこかの国の憲法のように、かなり強引なお仕着せ憲法ではなく、この国の太古からの住民と、全民族が協力して運用できる、当時の理想的な立憲君主制憲法が作られていたわけです。

憲法が生まれて交付されると同時に、国王陛下の輪番制による就任が始まり、英国のウェストミンスター・システムを踏襲した、最初の国会が成立しました。

しかし、この憲法と政治体制が10年の運用を続けていく中で、マイナスの側面も表面化してきました。英国政府や、リード委員会の有識者や、スルタンの知恵を持ってしても、うまく予測できていなかった不具合が出始めたのです。

その不具合は、この国の政治体制そのものを大きく震撼させ、1,000人以上に及ぶ死傷者を出し、セランゴール州を戒厳令下に陥れ、初代首相の Abdul Rahman 氏を退陣に追い込むほどの大事件を起こしています。

それが、中文表記で言う「五十三事件」、英語表記で有名な “13 May Incident” ( マレー語表記では “Peristiwa 13 Mei” です。

それは、1969年5月総選挙 (General Election) の直後に勃発したのです。

五十三事件は、単純な地域的民族紛争ではなかった

筆者は、この五十三事件の話を、知らなかったわけではありません。

しかし、馬国に在住しながら20年も関わってきたにもかかわらず、

この事件を、筆者は「単なる華人のマレー人が石を投げ合ったり殴り合ったりした、数日の暴動事件」としか捉えていませんでした。

多くの馬国の友人も、この事件のことは、私との会話では全く口にしませんでしたし、KLのどこかに、この事件の資料館のようなものもありませんでした。

ところが、現存する英語版の wikipedia 情報(一部、日本語版でも、ある程度記載がある)をじっくり検討してみると。

この五十三事件は、日本の「二二六事件」に匹敵する、一国の政変に近い暴動事件であり、一部の研究者は、この事件は、暴動の仮面を被ったクーデターであったとする説まで紹介されていて、大変驚かされました。

この事件は、総選挙で与党が議席を大きく失ったことで舞い上がった野党勢力の、非マレー集団が、憲法153条に象徴されたブミプトラ優先政府を転覆して、

マレーシアの支配体制を塗り替えてしまおう、という野心剥き出しの行動を(クアラルンプールで)始めたものであり、

独立以降、政府の弱腰政策のために、憲法という形だけのブミプトラ経済割譲を実現していなかった政府を許せなくなっていたマレー人強硬派による、非マレーシア集団への報復攻撃を誘発したものでした。

当時の、馬国経済のブミプトラ占有比率は4%弱であり、経済的な実権は華人を中心に、ブミプトラ以外の人種の牙城となっていたのです。実際問題として、五十三事件当時のマレー人は平均的に貧困であり、また、華人社会でも、英語を話す富裕層と、英語もマレー語も話せない中小所得階級の格差が大きく、所得の低い華人も貧困にあったのです。他国の歴史でも明らかなように、格差社会の底辺にいる貧困層は、暴徒となって暴れ始めます。

国民の経済的な満足度は低かったが、そのような状態について、初代 Abdul Rahman 首相は、「独立」という一世一代の大仕事を終えた以降、強い国内政策を打ち出さないままでした。

憲法153条はうまく機能していたのか?

五十三事件の、数字 513 と、ブミプトラに纏わる憲法153条の数字 153 が、同じ数値の三桁の並びであることは、何か不気味な因縁を感じます。

前回の記事で、153条の趣旨は紹介済みですが、この内容をみて、みなさんはどのように感じたでしょうか?

筆者は、次のように漠然とした印象を持ちました。

筆 者
筆 者

確かに、ブミプトラを保護して、一定の経済・商業・教育への参加資格と区分を与えることが謳われているが、一方で、ブミプトラ以外にも差別があってはいけないと書いてある。でも、いったい、どちらが優先なのか、これじゃわからないですね?

実は、当時のマレー人も、他の民族も、同じような印象を持っていたのです。

事件の直前のマレーシアでは、マレー人優先の根本的で具体的な政策を強く要求するマレー人の集団が、この趣旨の国民運動を推進しており、逆に非マレー民族のグループは、Malaysian Malaysia (マレーではなくマレーシア人のためのマレーシア)を強調する国民運動を続けていたのです。

完全にマレー人集団とその他の、国民としての利権争いです。

詳細は書きませんが、このために、マレー連邦では、あちこちで民族間の衝突事件が勃発していました。殺人事件も、結構発生したのです。現在のマレーシアでは考えられないような政情不安が現実化してました。

マレー連邦の一部だったシンガポールでも暴動じみた事件が起きていて、結局マレー連邦政府は、華人が過半数のシンガポールを1965年に、事実上マレーシアから追放してしまったことはご存知の通りです。

このような情勢で、憲法153条がうまく機能していたかといえば、前回での記事でも紹介した通り、一部の評論家が「逆効果」だったと酷評する場面もあるほど、うまくいってなかったのです。

何が起きたのか?

1969年は、初代マレーシア政府にとって最悪の年になりました。

この年に行われた総選挙で、与党の議席数は大幅に後退。特に華人の世界では、いわゆる政府側を支援している与党の Alliance Party(後の バリサンナショナル)の一部のマレーシア華人連合(MCA)の議席は 50% 減少。

その代わりに、華人の新党を含む野党の議席が大幅に増える結果だったのです。

そして、各州の代議員の構成も、与党の劣勢が目立ち初め、クランタン州、ペラック州、ペナンのジョージタウンでは、野党が大勢を奪ってしまいました。

但し、この時の議会のバランスは、まだ与党優位に変わりはなかったのです。

最初の問題が起きたのは、5月11日と12日、選挙で大躍進を記録した野党(党名は伏せます)が、勝利を祝ってKL市内で実施したデモ行進的なパレードです。野党の勝利を祝うはずの行進とシュプレヒコールは、この時「反マレー」を非常に強く表現してしまっていました。

彼らが発したスローガンは

  • “Semua Melayu kasi habis” (Finish off all the Malays)
  • “Kuala Lumpur sekarang Cina punya” (Kuala Lumpur now belongs to the Chinese)

だったのです、それぞれ、「マレー人を一掃しよう」、「クアラルンプールは今や華人のものだ」

です。これは不味かったです。事実、暴動の原因究明に当たった特別政府の原因分析には、「全く受け入れられない挑発があった」を原因の一つとして指摘しています。

行進の途中で、野党メンバーは遭遇するマレー人をからかって回ったと記録されています。

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野党が行進した直後の、マレー系新聞社は、この非マレー系政党の行動を、マレー政府への攻撃開始と解釈し、早急に対応しないと大変なことになると報じたそうです。

マレー人の与党政党は、12日の夜から対抗措置としてのデモ行進を計画。

13日には、マレー人の行進が始まり、そして、非マレー系の中では人数比率の多い華人が、より多くの攻撃を受け、死傷者が出ます。マレー人は、パダン(マレーシア大きな刃物、ナタ)や、クリスという短刀で攻撃しました。

外出禁止令と軍隊への「射殺許可」

13日の午後7:30に最初の外出禁止令が発表されました。警官隊は催涙ガスで暴徒を鎮圧する行動を始めます。まだ、この時点では暴動は治りません。外出禁止令は、その後も断続的に発令されて、テレビ放映などで首相レベルのから国民に通達されています。

夜になると、ショッキングな政府決定の指示が警察に出回ります。「射殺許可」です。警官隊は、抵抗する暴徒を射殺して良いという「時限措置」が出たのです。

夜10時には、陸軍が動乱の激しい地区に入りました。外国のレポートでは、陸軍は、射殺許可を根拠に、複数のショップロットに、理由なく銃弾を打ち込んでいたという衝撃的な証言まで残っています。

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暴動は、その日のうちに、ほぼ全体が鎮圧されました。

翌朝の5時、KLの総合病院が死傷者を公表しました(死者はこの後も増えています)

  • 病院での死亡者80名
  • 午後07:00-08:30 の死傷者は、全て刃物で怪我をした華人
  • 午後08:30-10:30 の死傷者は、マレー人と華人の比率は50対50
  • 午後10:30- の死傷者は、殆ど全員が華人で、殆ど全員が銃砲で撃たれていた

動乱はこの後数日燻り続け、特に放火による家屋の焼失が多かったようです。暴動により家を追い出された住民は、国営スタジアム(マレー系)とメルデカ・スタジアム(華人・他)と、Chinwoo Studium (華人・他)に集められたそうです。

週末までに、華人の難民が5,000人、マレー人が 最大時で 650名、週末は250名程度に減少。

警察当局の報告で、沈静化した時点の死者は 143名の華人と、25名のマレー人、 13名のインド人と民族不詳が 15名でした。

政府からは、警察に対し、街中の遺体は、担当官の任意でどのように処分しても良いという許可が出ていましたから、多くは、クラン川や、錫鉱区のプールに投げられたり、その場で埋められたりといった処置がなされ、正確な死亡者のリストは困難でした。

国外の報道では死者600名。外国の個人の調査で800名という記録もあり、実際には失踪者を含めて4桁ではないかというコメントも残ったそうです。

補足 憲法第152条、国の言語

マレーシアの公用語がマレー語であることを規定しているのは、同国の憲法第152条1項

同じ152条において、憲法上、上記の1項と矛盾しない範囲で、如何なる言語を学んだり、使用したりすることも自由である。(無論、教えることも自由)

別途、この国の特定の州や連邦直轄区では、圏内の既存のコミュニティーが話している特殊な言語を、保護・研究することも許されている。(現地の方言や古い言語のことを規定していると思われる)

後日、National Language Acts 1963/67 という新法が公布されると、公用語として一部利用が許されていた英語の運用は無くなり、全ての公用語と司法での言語は、マレー語に統一された。(イギリス支配を完全に取り去った)

また、この新法が交付された日から、古来のマレー語の文体の一つであった Jawi 表記が、廃止され、ラテン・アルファベットである Rumi だけがマレーの文章で使う文字であると制定されている。

上段にあるアラビア文字的なのがJAWI、中央の大文字が Rumi 表記。

最後まで参照いただき、ありがとうございます。

この話は続きます。

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