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前回までのお話で、Raja Mahdi というスルタンの血筋の領主と、恵州客家の張昌という悪賢い華人実業家の話をしました。
どちらも、マレーシアの歴史においては、「悪役」として紹介されていますが、当時の彼らの心情は如何なるものだったのか気になります。
人を束ねて惹きつける能力があった二人ですから、最初から悪人だったわけではないはず。
では、何が彼らをモンスター級の「ヒール(悪役)」にしたのでしょうか?
彼らの立場を調べてみると、怒るのも無理はないと思える一面も見え隠れします。
今回は、怒りに燃える華人実業家であり、武装集団のリーダーであった張昌。次回は、あわよくばスルタンの候補だったRaja Mahdi の人物像を深堀りします。
張昌(Chong Chong)の独白(創作)
葉亞來の甲必丹人生における最悪最強の宿敵といえば、同じ恵州客家の張昌(Chong Chong)です。
張昌は、葉亞來に対して「底なし」の恨みを持っていました。とにかく彼は、悪役中の悪役です。なぜ、ここまモンスター化したのでしょうか?
彼の心情を考えてみましょう。以下は、筆者が創作した「張昌」の独白です。
同じ故郷から遠いマラヤの地に移住してきて、そして、有り金を全部ギャンブルで使い果たしたお前(葉亞來)を助けてLukutで料理人の仕事を与えたのは俺(張昌)だよな。覚えてるか?
ところが、お前は、ある程度貯金ができると、さっさと自分の取引を優先して、面白っそうなの芙蓉(Sungei Ujong)に軸足を移したわけだ。そして、Kaptain Shinが戦死すると、まんまと甲必丹のポジションをもらったらしいじゃないか。
こっちは、お前がいないんで、代わりの料理人を見つけるのに苦労したぜ。
Lukutでお前(葉亞來)を助けた俺(張昌=同じ恵州客家)は甲必丹「候補」にすらならないのか? 随分薄情だな。
まあ、それだけなら、「自分勝手な恩知らずの青年」で済ませるつもりだったよ。
ところが、どうだ。今度はクランバレーの赤邦 (Ampang) で錫の鉱脈が見つかったと言って、さっさと芙蓉の仕事をほっぽり出して、クラン方面に鞍替えだと?
聞けば、2つも鉱区を任されて、薬局まで開業して嫁さんまでもらって悠々自適らしいじゃないか。
Lukutで拾ってやった恵州客家の俺(張昌)には、何の連絡もせず、共同事業の一つも話がないというのは、いったいどういうことだ?
俺は、お前(葉亞來)のことなど、早く忘れようとしてたんだが、聞くところによると、赤邦地区からゴンバック川とクラン川の合流地区の「甲必丹」をお前(葉亞來)がやるだと?
冗談だろう!もう我慢ならない。俺(張昌)は恵州客家民の先輩だぞ。
そっちでリーダー格の手が足りないんだろ?だったら、一声かけるのが礼儀ってもんだろう。
なあ、葉亞來。そんなに俺と連絡を取るのが嫌なのか?そんなに、俺を仲間はずれにしたいのか?
わかったよ、それならこっちにも考えがある。
俺が怒ったらどうなるか、お前を後悔させてやるから待ってろ!お前の計画しているクアラルンプールとやらをめちゃくちゃに壊してやるからな!
以上は、これまで調べてきた史実から筆者が「推測」した張昌の心情です。何らかの資料に基づいている文章ではないので、ご了承ください。
張昌と嘉応州客家 (Kanching)
1869年の春節(旧正月)に張昌が20人でKL地区に乗り込んだ際、張昌は「憎き」葉亞來を暗殺する計画であったと伝えられています。
しかし、その時期の葉亞來の集落には、既に30人の治安部隊が昼も夜も警戒活動を展開していましたから、暗殺計画は実行できずに終わったようです。
春節は、祝いの季節です。葉亞來は、当時の張昌の殺気は充分感じていましたが、それとは裏腹ににこやかに張昌達を迎えたと伝えられています。張昌には、それが逆に皮肉に映ったのかもしれません。
もう自暴自棄に近い精神状態だったのでしょう。張昌は、こともあろうに、KL地区の有力者の Sutan Puasa の住居を訪ねて、そこで「らんちき騒ぎ」を演じてしまいます。
張昌の狙いは、この騒ぎで Sutan Puasa と華人集団との関係を悪化させることでした。
有力者の Sutan Puasa の逆鱗に触れれば、悪い評判がスルタンに伝わって、葉亞來は糾弾されて当然です。
ところが、これを見越していた葉亞來は、急いで示談金を持って Sutan Puasa の家に謝罪に出かけます。そして、示談金を渡すと「これは張昌からのお詫びです、彼は恥ずかしくて謝りに来れないので私が華人を代表して謝罪に来ました。」と説明したのです。
この出来事は、かえって葉亞來と Sutan Puasa の関係を向上させました。
これをみていた張昌の武装グループは、葉亞來への直接攻撃を諦め、KL地区を出て Kanching に向かったと伝えられています。
親友の葉四の殺害事件が起きた後、葉亞來はSutan Puasa の力も借りて恵州客家の代表団を編成してKanchingに赴きます。そして張昌に「話合い」を申し入れています。
しかし、張昌は「話し合い」を拒否。葉四の事件についても「何も知らない」と応答したのです。
葉亞來の忍耐はここで切れました。
苦楽をともにした親友「葉四の死」をうやむやに済ますことは絶対にできない。
彼はしかたなく、武装して張昌のキャンプ地に向います。
すると、張昌の武装集団は、威嚇射撃を行い、葉亞來の集団がひるむと、ジャングルに逃げ込んだそうです。
これで張昌の犯行は明確になりました。葉亞來とPuasaはKanchingに戻って、嘉応州客家の人々に、葉四の家族へ慰謝料を払うよう要求しますが、Kanching の嘉応州客家はこれを拒否します。
手を尽くしましたが、ダメです。
葉亞來が自ら武力行使に出たのは、これが初めてでした。彼は葉四殺害の隠蔽工作と、あくまでシラをきる嘉応州客家を許すことができませんでした。
結果として100人以上の嘉応州客家( Kah Yeng Chews) が死亡。「Kanchingの虐殺」として華人社会の歴史に残る武力衝突に発展したのです。この史実は、本来平和的で、公益と安全を重んじる葉亞來の人生の中の闇の記録となっています。
以後、張昌と葉亞來の間の怨恨は深くなります。事件の後、張昌は葉亞來と距離を置くようになり、やがてRaja Mahdiの武装集団と合流します。
こうして、昌と葉亞來の紛争は、Raja Mahdi の Sultan への怨恨と重なり、やがてマレー人と華人を全て巻き込む、セランゴール戦争の激化に繋がっていったのです。
当時のセランゴールを、大きく北側(セランゴール川とその北)と南側(クラン川から南)に分けた場合、北側のマレーの領主はRaja Mahdiを支援し、
同時に、Kanchingの華人社会も、Kapitan 葉亞來に敵対する張昌を筆頭に、南の Sultan Abdul Samad やTungku Kuding 側に対抗して、Raja Mahdiに加担するようになったのです。
注 : 嘉応州客家( Kah Yeng Chews) とは広東省嘉応州 (北京語で Jiayngzhou, 現在の梅州市)出身の客家系民である。英国の歴史家の中には、この集団が秘密結社「義興」(Ghee Hin) の母体だとする説があるが、華人社会では、出身地方と秘密結社を安易に結びつけることは避けている。Kongsi Networksの資料でも、秘密結社への言及は必要最小限にとどまっている。
最後まで参照いただき、ありがとうございます。
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