【MM2H情報】真説 KLが生まれた19世紀<5>

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葉亜來はルクト(Lukut)の錫鉱区で商売を始ると、次第に近隣の錫鉱区である ラサ(Rasah、亜沙)へと自営業活動の範囲を広げるようになります。

前回のお話はこちら

ラサの鉱区は、現在のヌグリ・スンビラン州のセレンバン市中心から南東に約1~2Kmの場所であり、ルクトからは北東に50kmのあたりです。(マップを参照下さい。この絵では、スレンバンとSungai Ujong とRasahは全部同じ場所にあるということになります。)

Rasah の村は、現在のスレンバンの中の一部。

19世紀当時のセレンバンは、中国語では「芙蓉」、マレー語では古くから Sungei Ujong として知られていました。現在はSerembanに改名されましたが、中文(漢字)では昔も今も「芙蓉」のままです。

芙蓉では、古くから既得権を持っていたマレー人の地主の下で、17世紀頃から多くの華人が錫を採掘しはじめました。

華人労働者が増えてくると、集団の指導者(まとめ役)が必要となります。こういった指導者の任命は、芙蓉だけではなく、広く英領マラヤ内で Kapitan (カピタン、中文で「甲必丹」)という称号で運用されていました。(後述)

芙蓉では、1858年からラサ地区で錫鉱業を発足してで成功していた華人がKapitanとして選抜されました。

この指導者、盛明利(Shin Min Lee)は、死後、「海山公司」などの華人集団に神霊として崇められる存在となる大人物でした。葉亞來は、この盛明利から強い影響を受けて成長します。

今回は、「芙蓉」(Sungei Ujong)を舞台に、盛明利と葉亜來の出会い、盛明利の不遇の死、そして指導者としての仕事を葉亜來が継承するまでの史実を紹介します。

Wikipedia(英文・日本文)の記述には、幾つかの矛盾や疑問点があるため、これ以降の史実については、Kongsi Networkの Website ”The History of Yap Ah Loy” と、シャロン・A・カーステンズ名誉教授の書籍 ”Studies in Malaysian Worlds” Singapore Univ. Press, 2005 by Sharon A. Carstens にある史実を拠り所にまとめています。

Kapitan Shin との出会い

今日の物語の登場人物をリストします。

氏名英表記生年-没年概要
葉亞來Yap Ah Loy  1837-1885 この物語の主人公
盛明利Shin Mei Lee1822-1860芙蓉の華人「甲必丹」だが戦死する
劉壬光Liu Ngim Kong18??-1868盛明利の右腕(用心棒)
葉亞石Yap Ah Shak     18??-1889 「海山」のリーダー

盛明利と劉壬光は、何れも広東省は恵州府出身のFei Chiu Hakkaであり、華人秘密結社の Hai San (海山) のメンバーだったことです。 同郷であった葉亞來も、この時(あるいはそれ以前から)海山の一員であったと考えられています。 

19世紀の華人のシンジけートの一つ「海山」の幹部の記念写真。 wikipeedia 資料より

そして、この地で葉亞來と知り合いになった葉亞石もまた、裕福な客家系民の人間であり、当時「海山」シンジケートのリーダー格でした。この人物も後日、KLの成り立ちの時期に大活躍します。

葉亞石は葉亞來を非常に高く評価していたようです。事実、葉亞來が Kapitan Shin(盛明利)の自衛部隊のメンバーに引き入れられたのは、彼(葉亞石)の紹介であり、亞來はすぐに劉壬光のアシスタントクラスの武人(用心棒)となっています。

KLがセランゴールの首都に決まる直前の1860年頃、恵州客家の華人リーダーたちが、この芙蓉(Sungei Ujong)で一時的にも終結したのは、歴史の必然であったか、偶然であったかは今はわかりません。しかし、この4名の活躍はマレーシアの華人社会においては非常に重要な意味を持つことになるのです。

Kongsi Networks やCarstensの説明では、葉亞來は、出身が恵州客家であったために、ごく自然に「甲必丹」の盛明利や、その部下の劉壬光と知り合いになり、富裕層の葉亞石の信頼を得たとされています。

「甲必丹」とは

19世紀のマレーシアでは、大量にマラヤに移住してきた華人集団のまとめ役(キャプテン)が不可欠でした。そこで、力のある華人商人に「甲必丹」(Kapitan)という称号を与えて、一定の権限や権威を認めていました。つまり、その土地のスルタンや英国の統治者達も認知していた「華人の族長」のような存在だったのです。

当時のKapitanの条件は、財力や商才だけでなく、腕力もある文武両道の人財が選ばれていたのです。(Carstens)

Kapitan(カピタン)というのは、英語のCaptain(キャプテン)のポルトガル語の表現がマレー語になったもので、日本においてもオランダ東インド会社が江戸時代の商館の責任者を「甲必丹」(カピタン)と呼んだという史実があるほどで、19世紀の世界では一般的な言葉だったようです。

19世紀のマラヤは英国の統治下でしたから、Kapitanという表現には違和感があったでしょうが、既にオランダ領時代に定着したマレー語であり、発音もほぼCaptainと同じなので、そのまま流用していたものと思われます。

今回のアイ・キャッチ画像は、盛明利の英霊を含む4名の心霊を祀っているSin Sze Si Ya Temple (仙四師爺廟)(グーグル・ストリートへの投稿写真)

Sungei Ujong (芙蓉)

マレーシアのヌグリ・スンビラン州、Seremban市(人口55万6千人)は、19世紀にSungei Ujong(芙蓉) としてよく栄えた土地で、古くは「マレー年代記」に「Parameswaraがマラッカ王国設立前に訪れた」という記録まであります。

17世紀中頃から、華人が錫を採掘し始め、1859年には、初めての華人首長であるKapitan 盛明利(Shin Mei Lin)が選出されました。

18世紀中頃、2名のマレーの首長(Dato’ KelanaとDato’ Bandar)が華人から錫税や保護料を徴収していたのですが、次第に利権争いに発展してしまいます。そして、1860年には武力衝突に発展しました。

現在の地名である Seremban が正式名称となった今も、中国名の「芙蓉」は変わっていません。

注:英語版と日本語版のWikipediaでは、錫鉱脈の発見は1870年とされているが、これは誤り。中国語のWikipediaでは上記のとおり錫鉱脈の発見は17世紀とされており、Kongsi Networks やCarstensの著作にある盛明利や葉亜來の伝記の内容と矛盾しません。

盛明利(Kapitan Shin)

盛明利(Shin Mei Lin, 1822-1860)は、中国広東省惠州市の生まれ。頭脳明晰で、高学歴でした。商業活動でも成功しますが、やがて、南洋に新天地を求めて英領マラヤに移住します。

1858年、盛明利はマラッカに到着すると、地元の商店に雇われ、才能を見込まれて副店長に昇進し、雑貨や錫の取引を手伝っています。その後、37歳の盛明利は恩師の命令でSungei Ujong(芙蓉、現在の Serembang) の亜沙(Rasah)に錫鉱会社を設立。これが成功して当地の名士になります。

「芙蓉」(Sungei Ujong)の初代 Chinese Captain (Kapitan=甲必丹)に就任して、現地のトラブルを解決していましたが、1860年の内乱(「露骨の戦」)に巻き込まれ、殺害されてしまいます。彼の死後、多くの支持者より「仙師爺」として崇められ、部下の大将である鍾炳來とともに「仙四師爺」と呼ばれました。

彼が神霊として祀られた理由と経緯は、次の記事で紹介します。

出典:中国語版のWikipedia 「盛明利」より

芙蓉の内戦と盛明利の敗北

葉亞來の伝記に話を戻します。

1860年、芙蓉地区で内乱が発生しました。

当時の錫鉱脈の地主であったマレーの族長による課税額が過剰だという理由で華人の鉱山経営者が蜂起したという説(Carstens)があるのですが、

Wikipediaや、Kongsi Networks の情報によれば、この内乱は、芙蓉地区の2名のマレーの族長が、採掘場所の利権の問題で争いを始め、華人集団がこれに巻き込まれたとしています。

日・英のWikipediaにおいては、英国の駐在官吏が介入して解決したといった内容がサラッと書かれているだけで、華人集団が内乱に巻き込まれた件については説明がありません。(ましてや、Wikipediaでは芙蓉地区の錫の採掘は1870年以降とされており、実際に史実から乖離してしまっています。)

内乱は、半年で終わりましたが、Kapitan Shin(盛明利)が率いた華人部隊がサポートした一派は敗走してしまいました。

もともと盛明利のグループ(おそらく「海山」グループ)は充分な武器を所持していなかったようです。劉壬光や葉亞石も内乱に参加していましたが、戦況が悪く、彼らリーダー各の3名は戦場でバラバラに離散してしまいます。

盛明利は、敗走して一時近隣の密林に入り、再び芙蓉に戻る道を探索するうちに、敵のマレー人族長に発見され、残酷にも首を撥ねらてしまいます。戦死です。

劉壬光は、当時の小型の大砲の砲弾を足に受けて負傷したため、マラッカ時代に葉亞來を助けた葉福(Yap Fook)が経営する商業集団(公司)に逃げ込んで数週間治療を受けて生き延びます。

内戦に参加した他の多くの華人集団は、南西のLukut方面に敗走し、当時のLukutのマレーの族長であったRaja Juma’atというマレー人族長に保護されることになったようです。

葉亞來は、盛明利のグループが敗走したことを知ると、近隣の密林に逃げ込み、そこで「炭焼き」を営む住人の居に隠れます。しかし、すぐに敵のマレー人部隊に場所を特定され、銃砲による闇討ちに遭ってしまいます。

足に銃弾を受けて負傷した葉亞來は、再び密林に姿を隠しますが、出血多量でかなり重篤だったとされています。 運よく、次の日には同胞に発見され、Raja Juma’atが管理するLukut 地区に運ばれて一命をとりとめています。

盛明利の華人グループが、充分な武器を持たず、戦いに敗れたことは、後(のち)にセランゴールの内戦に臨む運命にあった葉亞石にとって、とても貴重な教訓になったはずです。

内乱は6週間程度で終結しましたが、Kongsi Networksの情報では、この内乱で殺された華人は4,000人前後であったと伝えられています。

筆 者
筆 者

恐らく、この数字は当時作業員として中国から連れて来られていた奴隷労働者に近い「苦力(クーリー)」ではないかと思われます。商人や中流階級の華人の人口はそれほど多くないはず。

葉亞石が芙蓉地区の「甲必丹」を継承

芙蓉の内戦は、中文の Wikipedia (中文維基百科)に於いては「露骨の戦い」と呼ばれています。多数の犠牲者が出ましたが、1861年には和睦が成立しており、戦死した盛明利の後継者として、(芙蓉の華人集団をまとめる)次の「甲必丹」を選ぶことになります。

関係者が全員一致で選抜したのが、当時、盛明利に次ぐNo.2の指導者であった「葉亞石」 (Yap Ah Shak、本名「葉致英」)でした。

亡くなった盛明利の右腕だった劉壬光は、この時期に負傷していたためか、「甲必丹」候補には挙がっていません。

葉亞石は、選抜された当初は、この「甲必丹」職を受け入れたものの、自ら芙蓉のCaptain Chinaの任を続けるよりは、自分の商売に専心したいという希望があり、

このため、葉亞石本人が高く評価していた「葉亞來」(当時若干24歳)を大抜擢することを華人集団に提案します。そして、葉亞來は本当に「甲必丹」に就任してしまったのです!

内戦後の芙蓉の華人人口は数百人であった(Kongsi Networks、苦力を除く?) とされているので、大規模な自治体ではないですが、

全く無名の移民であった青年が、マラッカに到着してから僅か7年で、錫鉱業地域のひとつである芙蓉(Sungei Ujong)のCaptain Chinaに就任したことは、当時としても大変な快挙だったという話です。

これが、Lukutでの料理人としての成功に続く、「葉亞來」の第2の出世劇です。

参考 Kongsi Network について

通称 “Kongsi Networks” は陈永杰(Tan Weng Kit)さんと沈文华(Sin Mun Wah)さんの2名をリーダーとする “The History of Yap Ah Loy” の編集プロジェクト・チームです。西暦2000年9月12日までに葉亞來の一生を編纂した執筆者の集まりです。

このプロジェクトがネット上で公開している葉亞來の伝記は非常に権威性が高いと言えます。何故なら、このプロジェクトは、

1.      セランゴールの Fei Chew Association(恵州会館)関係者の協賛を得ている
2.      クアラルンプールの Sin Sze Si Ya Temple (仙四師爺廟)関係者の協賛を得ている
3.      セランゴールの史実の権威であるJ.M.Gullickの複数の書籍の内容を根拠としている
4.      クアラルンプールの史実に詳しい4件の中分の書籍の内容を根拠としている

からです。 編纂内容はほぼ全て英文であり、2024年2月末現在、このウェブサイトは参照可能です。

確認したわけではないですが、このWebsiteに記載されている史実は、葉亞來の子孫たちが監修しているはずなので、伝承としては葉亞來の親族が認めた内容と考えられるのです。

参考 J.M.Gullick

ジョン・マイケル・ガリック(1916 – 2012)は、イギリスの東洋学者です。主に植民地化前および植民地時代初期のマレー社会の画期的な研究で知られています。代表的な著作に

『Indigenous Political Systems of Western Malaya』(1958年) 、
『Malay Society in the Late Nineteenth Century: The Beginnings of Change』(1987年)、
『Rulers and Residents: Influence and Power in the Malay States 1870–1920』(1992年)

の3作があります。後述のCarstens教授もGullickの著作を古典として参照しています。

参考 Sharon A. Carstens

シャロン・A・カーステンズは人類学名誉教授。1980年にコーネル大学で人類学の博士号を取得し、1987年から2017年までPSU人類学部で教鞭を執りました。カーステンズ博士はまた、2008年から2015年までアジア学のカリキュラムコーディネーター、2010年から2015年までPSUアジア研究所の所長を務めました。彼女の長期にわたるマレーシアの中国系住民に関する民族誌的研究は、都市部と農村部の両方で、アイデンティティ、宗教、民族史、ジェンダー、マスメディア、そして多言語の言語実践とイデオロギーに焦点を当てています。カーステンズ博士はまた、中国、香港、米国、カナダでの中国語/英語のバイリンガル教育における教育およびカリキュラムの問題についても研究しています。

出典: Portland State University, Anthropology Department

最後まで参照いただき、誠にありがとうございます。

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