【MM2H情報】真説 KLが生まれた19世紀<6>

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前回のお話で悲惨な「戦死」を遂げた盛明利(Kapitan Shin)が祀られている寺院が、現在のスレンバン市のラサ地区(Kampung Rasah、Bukit Rasah 近郊)と、クアラルンプール連邦特別区の2か所に残っています。

クアラルンプールのチャイナタウンにある150年以上前の寺院「仙四師爺廟」は、マレーシア、特にクアラルンプールの華人社会にとって特別な寺院として継承されています。

そしてこの寺院は極めてひかえめ(low profile)ながら、参拝者の献金を地域の学校に寄付し続けており、150年以上が経過した今も「社会貢献」を旨として生きていた華人指導者の意志を繋いでいるのです。

非常に残念なことは、日本の観光ガイドや、日英の Wikipedia のようなネット上の情報には、この「仙四師爺廟」がどのような経緯で、何故建立されて、何故大切に保守管理されているかについて充分な説明がなされていないことです。セレンバンの寺院の方は、その存在すら知られていないのではないでしょうか?

この記事をアップした2024年の2月末時点で、ネット上で解読できる中国語の資料や、有識者の紹介文、そして「仙四師爺廟」が直接運営するWebsiteを解読しましたので、内容を要約してご紹介します。

筆 者
筆 者

寺の名称を覚えにくい場合は、次の等式を参考にしてください。

「仙師爺」+「四師爺」=「仙四師爺」

マレーシアで華人の友人と会話されるときに、ここでの情報がお役に立てば幸甚です。

前回の記事までに順次紹介した情報源に加え、次のWebsiteの情報を参照しました。
MyTravel我的大馬旅行「仙四師爺廟」(全て中国語です)

「仙四師爺廟」の公式Websiteのアーカイブ

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甲必丹「盛明利」の伝説

1860年にKapitan Shinが、芙蓉の錫鉱業地域の利権争いに巻き込まれ、彼が所属した「海山公司」の勢力が敗退したことは、前回の記事でご紹介済です。

前回の記事はこちら

Kapitan Shin が戦死した史実というのは、彼が敗走して密林を移動しているあいだ、不幸にも敵の首長と遭遇し、斬首されるという悲劇的なものでした。

その場に居合わせた海山公司のメンバーの目撃なのか、あるいは伝説的な物語なのか、詳しい背景は判明しませんが、Kapitan Shinが首を撥ねられた瞬間、彼の身体からは白い鮮血が噴出したと言われています。

マレーシアの伝説に詳しい方は、ここで「おやっ」と思いませんでしたか?

そうです、ランカウイ諸島に伝わる「マフスリの悲劇」と似た話です。

1819年のランカウイの伝説で、当地の有力者の親族から嫉妬された女性が、無実の罪で何日も木に縛り付けられ、最後には彼女自身の家系に伝わる特別な剣(つるぎ)で処刑された話です。

この伝説でも、無罪のマフスリが処刑された瞬間、純白の鮮血が沸き上がったと伝えられています。その後、ランカウイは7年間呪われてしまったというのです。

芙蓉の「甲必丹」(Kapitan)であった盛明利が亡くなったのは1860年ですから、40年前のランカウイのマフスリ伝説が、マレー半島の華人社会に伝わっていたとしても不思議ではありません。

Kapitan Shinは当時非常に評価の高い、聡明な偉人でした。彼の戦死は恵州客家のコミュニティにおいては極めて悲惨、そして許すことのできない惨事でした。そのこともマフスリ伝説とダブります。

一説には、盛明利を殺したマレーの首長は白い鮮血を見て、恐れおののいて許しを請うたという話も残っているそうです。信心深い華人集団が、盛明利の呪いを恐れて、懸命に供養を続けたとしても不思議ではありません。

芙蓉の華人による「千古廟」の建立(芙蓉)

盛明利の戦死のエピソードは、当地の華人社会の間で伝説となり、Kapitan Shinは神話化されました。そして彼は、恵州客家の出身者を中心とする華人達によって神霊として尊ばれることとなります。

1861年、彼の部下たちは、芙蓉のRasah(亞沙)に「千古の廟」としての寺院を建立し、英霊を永遠に供養することを誓ったのです。

SerembanのRasah地区近隣にある「千古の廟」
寺の門の横にあるプレートの一番上には、はっきりと「甲必丹 盛明利」の文字がある!

この時から、華人社会はKapitan Shinの神霊を「仙師爺」と呼ぶようになりました。

現在の Kampumg Baru Rasah の近く、Tuanku Jaafar Hospital の南の赤い星印が、現存する「千古の廟」の場所。

世襲制を良しとしない華人「甲必丹」の継承理念

華人社会の「甲必丹」が継承される時、Carstens教授が「華人集団らしい特徴」と指摘している文化があります。

前任者について、供養のための寺院が建立されるほど崇拝され、神格化されていているような場合でも、いざ華人集団の「トップ」である「甲必丹」の地位を継承するとなると、「世襲制」とはしなかったという事実です。

戦死した当時、盛明利には2名の子息が居ましたが、何れもKapitan職は継承していません。前回の記事のとおり、全員一致で選ばれたのは「葉亞石」でした。(その後「葉亞來」が継承している)

恵州客家が数多く在籍していた「海山公司」のような、「運命共同体」においては、華人の人々は、「本質的に力のある人」にリーダー格を与えるという厳しい原則を守っていたのです。

このことは、血のつながった子孫に自動的に皇位を継承しようとするスルタン系の民族文化とは全く違います。

同じ19世紀、セランゴールや芙蓉地区の皇位や地主の継承は、例外を除き、「血筋は争えない」という原則を貫いていたのです。

このことは、セランゴールで巻き起こる長い戦乱の原因にもなっています。

「仙師爺」の分霊(KL)

次回以降の物語で、葉亞來は、芙蓉を出て、現在のクアラルンプール(略してKL、中文では今も昔も「吉隆坡」)に移動することになります。

詳しい経緯は次回に紹介しますが、亞來はKLに定着した後、1864年に自ら芙蓉の「千古の廟」に向かい、「仙師爺」の神位を分霊としてクアラルンプールの自宅に移し、1873年まで祀ったのです。

その後、葉亞來は、廟の場所が不適当だと感じ増田。そして、自身の庭(現在の廟の場所)を信者に寄付して、皆から資金を集めると、正式に「廟」を建設し、1875年に「仙師四爺廟」を開廟したのです。

この「仙師爺」の御霊(みたま)を祀った経緯こそが、現在のKL中華街にある「仙師四爺廟」の起源であり、基礎なのです。

「四師爺」とは?

仙師四爺廟で「盛明利=仙師爺」とともに祀られている「四師爺」は、セランゴール内戦時にKLの甲必丹となった「葉亞來」の部下です。彼の名は、戦闘指揮官の「鐘炳來」(チョン・ビンライ)です。

「鐘炳來」も、やはり広東省出身でした。彼は、医術を専門とし、マラヤに初めて来た際はペラ州で人々の治療に当たりました。

通称「常勝将軍」と呼ばれ、参戦した戦いにおいては連勝していたようです。しかし、やがては、敗北を経験するようになり、クアラルンプールが焼失するほどの悲劇にも遭っています。

彼は、それでも失脚せず、わずか1年足らずで軍隊を再編して反撃を開始し、3日でクアラルンプールを奪還したと伝えられています。

「鐘炳來」が病死した後、「葉亞來」は彼の功績を称え、像を彫り、「仙四師爺廟」に「仙師爺」と共に祀ったのです。

現在の「仙師四爺廟」

現在、「仙師四爺廟」の内部は、3つの部分に分かれており、本堂には「仙師爺」(左)と「四師爺」(右)の2つの神像が設置され、華光大帝の神座、譚公爺の神位、そして「葉亞來」の神位も本堂の右側に供されています。

グーグルマップの航空写真です 中央の赤い枠が「仙四師爺廟」、左の黄色い枠がPasar Seni (Central Market) 青い線がGOKLバスのルート、右上の黄色い二重線が Jalan Yap Ah Loy。 中央の下の黄色の矢印は、この下にある廟門の位置。

左側には関帝文昌君が祀られていて、左側の付祠には観音堂があり、右廳の付祠には義勇祠があり、クアラルンプールを守りながら壮烈な犠牲を払った英霊が祀られているのです。

仙四師爺廟は1881年や1938年に何度か大規模な修復を行いましたが、日本軍が統治した時期には廟務が停止し、廟の内外が深刻な被害を受けました。1949年には廟の大規模な修復が行われています。

政府の保護もあり、「仙四師爺廟」は経済的に安定しました。宗教活動を通して社会に還元するという精神を貫いており、毎年収入の一部を国内の学校の奨励金に充てて、学費を出せない学生を支援し、慈善団体に寄付しているのです。

入り口の位置は上の写真の黄色い矢印の場所。

参考  海山公司

海山公司は、当初は「洪門」(天地会)と呼ばれた組織に由来すると言われているが、主に南洋で活動し、特にマレーシアで活発に活動した結社である。

1799年に海峡植民地のペナン州ジョージタウンで、惠州客家人や順徳、番禺などの広府人を中心とした組織が設立した集団で、後にその勢力はマレーシア全土およびシンガポールに拡大した。

記録によると、シンガポールで最初に秘密結社によって引き起こされた闘争は1824年に発生している。1825年、英国植民地政府は、多くの秘密結社の中で、「義興」、「海山」、「合成」、「華記」の4つの派閥であった。

19世紀マレーシアの君主や王侯は、地域内の紛争において海山(Hai San)や義興公司(Ghee Hin)に紛争支援を要請している。

「海山」の本部は、発足当初からペナン島のジョージタウンに設立され、マレーシア各地に支部を持った。錫鉱業が繁栄したセランゴール州のクアラルンプールとカジャンが最も重要視されたと言う情報がある。

現在のベラ州では、19世紀甲必丹の鄭景貴のリードでタイピン開拓され「Larut戦争」が勃発。また、葉亞來によってKLが開拓された際に「セランゴール内戦」が発生し、秘密結社同士の戦闘や、マレーの王侯の利益争いに華人結社が巻き込まれる事態となった。

こういう環境であったから、当時の鉱山労働者は、夫々の出身地に基づいて、同郷の華人の運命共同体である秘密結社に「強制的に」加入させられたり、「保護」を求めたのである。

出典:Wikipedia 中文 「海山公司」

最後まで参照いただき、誠にありがとうございます。

Serembanの近くにお住まいの方は、是非「千古の廟」の現在のお寺を訪ねてみてください。

スレンバンの「千古の廟」の正門には、現在は「仙四師爺千古廟」という表札がある。KLの廟との関連をわかりやすくしたものと思われます。

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