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1870年10月までの大規模な紛争で多数の死傷者を出しながら、なんとかクアラルンプール、特にAmpang地区、を死守したキャプテン葉亞來ですが
侵略軍のトップにいるRaja Mahadi を含め、Syed Mashhor や張昌といった敵の司令塔となっている人間を殲滅したわけではありませんでした。
この時の、葉亞來陣営や Tungku Kudin の戦略に、Syed Mashhorや張昌の暗殺を計画する案があったかどうかは不明です。
恐らく、敵の首脳をピンポイントで叩く計画は無かったと(筆者は)推測できます。なぜなら、葉亞來たちは、Ampangを守り切った後、KL地区の「防衛」を徹底することに力を入れていたからです。
今回は、葉亞來の防衛体制に再度切り込んだMashhorと張星の攻撃とその結果の一連の史実である「Rawang 戦」を解説します。
この部分は先に区分した「第2期KL戦」(1871年5月~6月)です
Syed Mashhor 軍の再編
Ampang 戦が勃発した1870年の暮れから、翌年の1871年の1月まではイスラムのラマダン月でしたから、この期間はセランゴール戦争も、無言の自粛というか、当然ながら戦争をするような雰囲気っでは無かったはずです。
華人集落においても、1871年の2月初頭は「春節」ですから日本で言う旧正月のお休みです。
そう言うわけで、1871年の5月まで、セランゴールは穏やかな日々を送ったのだと思います。
さて、
前回、Ampangの戦いで敗走したSyed Mashhor は、Ulu Selangor に逃げたという史実がありました。
Ulu Selangor とは、セランゴール川のかなり上流の位置、慶応州客家の居住地のさらに北です。
1870年の暮れからラマダンが開けて休みが終わると、MashhorはUlu Selangor に兵を集め始めました。
今回は特 南方の Langkat 地区(Sultan Abdul Samadのお膝元)から徴兵できたのですが、Mashhor の戦略として、あくまで北方の Ulu Selangor に新兵を集結させたのです。
徴兵の時間は半年ありましたが、その期間、Mashhor は改めて1,000人規模の軍隊を集結させています。この動員力は恐るべきものでした。
この時の、張翔の武装集団の規模や徴兵状況は、記録が見当たりません。恐らくは、やはり北方のKanching に残っていた慶応州の客家族から数百人規模の徴兵を行っただろうと思われます。
Rawang の戦い
1871年5月。
Mashhorと張昌の軍勢は、個別にKLに向けて進軍を始めています。
この時、葉亞來陣営は、Chung Pianを司令官として、複数の防衛部隊を組織しており、
KLの北は、Rawang地区に500人の武装集団を野営させていました。(恐らくは Stockade)
このRawang に最初に足を踏み入れたのは、Mashhorの軍隊でした。Mashhor軍は、Rawang防衛隊の倍の規模です。
Chung Pianの部下の防衛隊長は直ちにKLに伝令を送って、「援軍」を要請します。
KL陣営は、すぐに500人の兵士を北上させます。これで葉亞來側も1000人大勢です。恐らくは、張昌部隊の数が、このRawang戦での軍勢の差なのだろうと思います。
Rawangでは、前回同様に多くの死傷者が出ました。しかし、より地元に近いChung Piang司令官の武装組織は、うまく3チームに分かれて、相手を翻弄して、非常に効率の良い戦略で戦い抜いたという史実があります。
曰く、弱体化したフリをして、一旦引き下がって、後方に回り込んで再び攻撃する方法であるとか、複数の中規模の武装集団に分かれて、相手を挟み撃ちにするといった手法でした。
最初に敗走したのは、1000人も居た Mashhor の部隊でした。Mashhor個人は相当消耗したようですが、結局は生きながられて、Rawang地区に張昌の集団を残して、Ulu Selangorに撤退します。
「張昌」の最後
1871年6月
Mashhorが撤退したニュースがKLに届くと、葉亞來たちは、このチャンスに、張昌軍団の殲滅を計画します。
このため、KLで指揮をとっていたChung Piangは、Rawangに移動して直接指揮を取りました。
そして彼は、200人で構成した3つの小隊を編成し、残りの300人を動員して自ら張昌部隊に正面から攻撃をかけます。
Chung Piangは、マレー人が混在する張昌部隊の一部に、非常に防備の弱い部分を発見します。張昌が、この時なぜマレー人の部隊を持っていたかは不明ですが、これが弱点になりました。
Chung Pianの部隊が、張昌の野営地をほぼ壊滅させると、張昌は90人の小隊を率いて北方へ脱出を図りますが、Chung Piangが手配していた別の中隊に阻まれ、ついに張昌部隊は殲滅させられますs。
張昌はこの史実を最後にセランゴールの歴史から姿を消します。
葉亞來の陣営は、最後まで張昌の遺体を発見できず、また、Ulu Selangorの Mashhor も張昌部隊の敗北の報告を受けますが、張昌の行方は全くわかないまま、戦死したものとみなしています。
Tungku Kudin の Ulu Selangor 攻略計画
6月に決着したRawang戦は、またしても葉亞來軍団の勝利に終わりました。
これまでの戦いの特徴は、
・葉亞來の直属の司令官である Chung Pianを司令塔とする、一枚岩の戦略と、統制のとれた攻撃と守備
・相手の本拠地に近づかずに、自陣に近い地域で戦った葉亞來軍が頭脳戦で相手を凌駕していた
・葉亞來と異なり、Mashhorも張昌も自ら前線に立ってしまったため、指揮官同士の連携がうまく取れなかった
と言うことになりましょう。
次回は、Klang で正規軍の全体を見ているTungku Kudinが葉亞來軍団に直接指示を出して、Mashhor の陣取るUlu Selangor への「進軍」を行います。この進軍は 1871年の8月に実施されるのですが、
これが、セランゴール戦争の転機になります。
起承転結で言うなら、これまでは「起承」ですが、次は「転」です。
次回の戦況解説を読む前に、1870年から1873年のKL史上の位置を確認しておきましょう。下の図の通りです。
最後まで参照いただき、ありがとうございます。
次回のお話しはこちら
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