この記事は、本編【MM2H体験】の関連記事です。馬国の「おすすめ情報」まとめ記事はこちらです。
シリーズ7回目の本日。
いよいよ、19世紀のセランゴールとクアラルンプール発祥の場面を深堀りします。
セランゴールで19世紀後半に巻き起こった戦乱と、クアラルンプールの誕生について正しい理解をするためには、まず、何よりもセランゴールのスルタンの来歴をチェックする必要があります。
スルタン関連の歴史をおさえておかないと、セランゴール戦争(別名 Klang War)の背景が見えなくなってしまいます。
情報収集に四苦八苦しましたが、運よく英文のWikipediaに歴代スルタンの来歴が記載されていましたので、ダイジェストでご紹介します。
前回までのお話(1〜6話)を読んでおいてくださいね。
セランゴール・スルタンの来歴
- 1766–1778 Sultan Salehuddin Shah ibni Almarhum Daeng Celak
- 1778–1826 Sultan Ibrahim Shah ibni Almarhum Sultan Salehuddin Shah
- 1826–1857 Sultan Muhammad Shah ibni Almarhum Sultan Ibrahim Shah
- 1857–1898 Sultan Abdul Samad ibni Almarhum Raja Abdullah
- 1898–1938 Sultan Sir Alaeddin Sulaiman Shah Ibni Al-Marhum Raja Musa
18世紀前半、セランゴール地域は古くからマレー半島南部を支配してきたジョホールのスルタンの領地と見なされていました。
しかし、この地に根を下ろしていたRaja Lumu bin Daeng Celak(Raja Lumu) は、北のPerakのスルタンの認知を得て1742年にスルタンのタイトルを持ったとされています。これ以降、セランゴールのスルタンは、ペラックのスルタンの認証を受けて即位しています。
というわけで、セランゴールの初代スルタンはSultan Salehuddin Shah(在位1766–1778)です。
このスルタンは、Daeng Celakというブギス族(現在のスラウェシに起きた民族)の子孫。したがって、継承されるスルタンの血筋は、元はマレー半島に流入したブギス族のの移民ということになります。
資料には、ほぼ世襲制で続いたスルタン家の「母方」の血筋が全く説明されていませんので、父方のブギス族以外にどういった血筋が入ってきたかは不明です。
したがって、あまりブギスにこだわるのも考えものです。
2代目スルタン(在位1778–1826)は、一度Kuala Selangor地区をオランダ軍に占領され、本人も追放された経緯がリます。しかし、近隣のスルタンのサポートやご本人の不屈の努力でセランゴールを取り戻し、1918年からは英国に急接近して領地を確保しています。ご承知の通り、大英帝国はスルタンの領土管理と宗教文化を侵害することはありませんでした。
2代目のSultan Ibrahim Shah が亡くなる直前の1824年、英蘭条約以降、マラヤ全土は英国民地となります。
3代目スルタンのMuhammad Shah の時代(在位1826–1857)は、19世紀真っ只中です。Lukutや芙蓉の錫工業が成功し、マレー半島では錫の採掘が政治経済のドライビング・フォースになります。現在のクアラルンプールのAmpang地区でも錫鉱脈が見つかり始めています。
しかし、Muhammad Shah はスルタンとしてセランゴールの領土を十分管理監督できていなかったため、セランゴールの5つ地区で、独自の領主が錫の採掘権や租税などの利権を取り合って群雄割拠するようになりました。この時の5つの地区というのが、
- Bernam
- Kuala Selangor
- Kelang
- Langat
- Lukut
さらに、Muhammad Shah が、他界する直前に「側室の息子」と「義理の息子」の間の確執を生むような采配をしたため、これがセランゴール戦争の火種となったのです。
さらに、Muhammad Shahは、後継者の任命について指示を残さずに他界したため、約2年間の間後継者の決定がなされず、皇室に混乱が生じてしまいます。
4代目スルタンのAbdul Samad (在位1857–1898)は、前代のスルタンの弟の息子でLangatの領主であったが、他に後継候補が見つからなかった関係で「棚ぼた」的にスルタンに就任。激動の19世紀のスルタンとして91歳まで生き延びてセランゴールを采配したが、就任直後から「セランゴール戦争」の混乱に翻弄される運命を辿るのです。
クアラルンプールが始まった瞬間
1857年、まだ葉亞来がKLに根を下ろす前。
3代目スルタンMuhammad Shah の義理の息子であるRaja Abdullahは、スルタンから分配を受けたクラン側流域の領土を有効活用して、錫鉱脈を掘り当てることで一旗あげる夢を持っていました。彼はポジティブな性格でしたし、なにしろ彼の親類であるRaja Jumaatは、Lukut地区の錫工業で大成功した有識者です。
彼は、LukutのRaja Jumaat と共同事業を起こすことを決意します。そして、守備よく2名の華僑の豪商から3万ドルの資金を受けることになりました。
2名のRaja(セランゴールの地域領主)の第一歩は、Lukut の錫鉱区から経験のある華人集団をまとめて移住させることでした。そして、87名の華人集団をクラン川中流のAmpang地区(現在のKLCCのあたり)に移住させます。
当時、華人集団もこのAmpang地区には錫鉱脈があると評価していたようですが、その時の華人の人名や秘密結社の情報は見当たりません。(見つかり次第、ご紹介します)
当時のAmpangは密林です。開拓は困難を極め、熱病が横行して、作業集団は激減しました。それでも2名の領主はギブアップせずに、150名もの華人を再度リクルートしてAmpang地区の開発を続けます。
2年後の1859年、葉亞来が、不要でKapitan Shinと取引を始めた頃、Raja Abdullah とRaja Jamaat の事業体は、最初の錫の輸出取引を実現しています。
KLという街の経済の原動力が回り始めた瞬間です。
クアラルンプールの初代「甲必丹」
クラン川流域の領主であるRaja Abdullah によるAmpangの錫鉱業がヒットすると、やがて錫取引の華人商人が乗り込んできました。
最初にこの地に入植したのはHie Siew(丘秀)と Yap Ah Sze (葉四)の2名です。彼らはLukut で錫鉱区を所有していましたが、Ampang のニュースを聞いて、彼らのリソースを提供しに来たわけです。
2名は、Ampangから少し下流に営業拠点を設けるべく、場所を探しました。
そして、見つけたのが、西から流れ込むクラン川と、来たから流れてくるゴンバック川の合流地点(写真)。現在のMedan Pasar なのです。そして丘秀は、クアラルンプールの初代華人「甲必丹」のタイトルを持ちます。
彼らが拠点を設けた河岸の反対側には現在、ムルデカ広場があります。そしてこの河岸の東と南には、葉亞来たちが立ち上げた中華街が広がっているのです。
最後まで参照いただき、ありがとうございます。次回は、主人公「葉亞來」がKLに乗り込んできた時点のお話です。
この記事は、本編【MM2H体験】の関連記事です。馬国の「おすすめ情報」まとめ記事はこちらです。
そして、次回のお話はこちら・・・いよいよ葉亞来がKLに乗り込みます