【MM2H情報】真説 KLが生まれた19世紀<8>

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この記事は、本編【MM2H体験】の関連記事です。馬国の「おすすめ情報」まとめ記事はこちらです。

Raja Abdullah が Raja Jumaatと協力して資金調達。苦労して安邦(Ampang)地区で錫鉱業を興した史実は前回の記事で紹介しました。この鉱区からの最初の錫の輸出は1859年頃でした。

ただし、1857年~59年当時のクアラルンプール地区は、近隣の椰子の木の葉で作った屋根の伝統的な住居(アタップ・ハウス)が数軒、商店が数軒の、ごく小さな村落でしかありませんでした。どうやって作業員を管理していたのか不思議なぐらいです。

シンガポール国立大学の資料に含まれていた、1880年ごろのクアラルンプール(つまり、このマップはセランゴール戦争の後の状態)星印は丘秀が始めて商店を置いた位置。

ご当地の住人として、Sutan Puasaが代表していたスマトラ出身の移民たち(Mandailing族:後述)も、ごく少人数のグループであったため、華人作業員達を助けたとは思えません。むしろ、急増する錫鉱区の華人労働者の集団に圧倒されて影が薄くなる運命にありました。

錫鉱脈が見つかって、将来が有望な安邦(Ampang)地区。

しかし、英領マラヤにおいては、まだ重要拠点ではなかったこの場所は、実質的な労働力、そして「街づくり」を進める原動力に欠けていたのです。

英国の統治者たちも、まだKLに注目していませんから、都市開発はサポートしません。資金を出している二人のRaja達もKLから遠く離れた場所に住んでいましたから、自ら市町村のライフラインやインフラを整えるつもりはありませんでした。

いよいよ葉亞來がKLに乗り込む時

KLで商売の拠点を始めた丘秀葉四は、安邦(Ampang)の錫鉱区で採取された錫を買い取って、様々な消費財を提供し始めました。

しかし、上記の通り、現地は生活のためのインフラが不足しており、さまざまな人種やグループが集まりつつあり、移動してくる華人作業員の数も急増していましたから、

華人集団全体の面倒を見て、彼らを統率する「甲必丹」の仕事はかなりの負担でした。

ちょうどその折、芙蓉で起きた紛争で負傷した同郷の「劉壬光」がLukutに敗走して怪我を治し、マラッカに引きこもっているという情報が甲必丹丘秀の耳に入ります。

丘秀は早速、劉壬光に手紙を書き、「KLに移動して事業を手伝ってくれ」と懇願。

芙蓉に戻る予定のなかった劉壬光は、丘秀の依頼に答えるべく、KLに赴くと丘秀の右腕として新集落「クアラルンプール」の華人集団の管理を手伝い始めます。

ところが、わずか1年も経たずして、丘秀が病に倒れてしまいます。そして、華人「甲必丹」の地位は、あっけなく劉壬光に引き継がれるのです。(丘秀は、ほどなく他界したという情報です)」

1861年、「棚からぼたもち」のような状況で、華人の首長となった劉壬光

「好事魔多し」とよく言われる如く、劉壬光にも多変な危機が迫って来ます。(詳しくは次回以降の記事をご参照)

マレー半島の歴史上最も長く続いた市民戦争。「セランゴール戦争(英名:Klang War)」です。

このことを予期していたか否かは、定かではないですが、劉壬光は、すぐに芙蓉の甲必丹「葉亞來」に声をかけることにします。これは、とても良い判断でした。

1862年、葉亞來劉壬光の招きに応じてクアラルンプールにやってきて地元の管理を手伝い始めます。彼の到着以降、小さな集落であった華人のクアラルンプールの開発はどんどん進み、葉亜来自身も2箇所の錫鉱区を任されて個人の事業を拡大します。

芙蓉で修行させてもらった恩師のことも忘れていませんでした。

1864年、葉亞來は戦死した「仙師爺」である「盛明利」の神霊をKLの自宅に持参。その後の数年間「仙師爺」を供養。1967年には、広く同胞の供養・参拝を受け入れるべく「仙四師爺廟」の基礎づくりを始めています。

この頃、葉亜来は、丘秀劉壬光が成し得ず、また、先住民であったSutan Puasa が実現できなかったクアラルンプールという街を「全面的に受け持つことになる」とは、未だ予想していなかったはずです。

筆 者
筆 者

役者が揃ってきました。次回は、いよいよセランゴール戦争のお話になります。

まったく世襲制を取らない華人の甲必丹

芙蓉で殺害されたKapitan Shin、芙蓉のKapitaを自ら退任した葉亞石、病に倒れたKLの丘秀、いずれの場合も、甲必丹の継承相手は「子孫や親類縁者」ではなく、あくまで「適任者」です。

前回紹介したセランゴールの歴代スルタンの継承は、基本的に世襲制であり、世襲できなくとも、義理の息子など、近親者を継承相手にしています。

華人集団が、KLのような都市開発で、非常に大きな役割を果たし、大英帝国のマネジメントが高く評価した背景には、このように、自分の子孫よりも組織の将来を優先して考える華人文化が拝見にあります。

筆 者
筆 者

個人よりも組織を優先するあたりは日本の文化にも似ていますが、しかし・・・

現在の日本の政治家は、どちらかというと、スルタン型の世襲制に近い文化になっていて、本質的に大きな偉業を成し遂げられる集団ではなくなっているように見えます。 2024年3月

クアラルンプールの発祥にまつわる混乱

マレーシア、シンガポール、ブルネイの政府が1877年に設立した「マレーシア支部東洋学会誌」Journal of the Malaysian Branch of the Royal Asiatic Society (JMBRAS)の記録によれば、クアラルンプールを発足したのは、「クラン川流域に錫鉱業を誘致して華人集団を入植させた Raja Abdullah(セランゴールの第3代 Sultan Muhammad の義理の息子)だ」とされています。

しかし、セランゴール全体を視野に史実を見るなら、既に1840年代にクアラルンプールの16km ほど北のセランゴール川沿いに華人の工業関係者が入植していましたし、

クアラルンプールの北東に位置するUlu Klang 地区には、スマトラ(現在のインドネシア)から移動してきた Mandailing 族の領主であるRaja Asal と調整役のSutan Puasa が移住してきていました。

そして、Sutan Puasa は、1840年には既に安邦(Ampang)地区に住居を持ち、何がしかの商売を始めていて、Mandailing族の代表としてセランゴールのスルタンとも連絡をとっていたという史実があるのです。

読 者
読 者

あれ・・・ それって、これまでの話と違うんじゃないですか? 

一部の有識者の見解では、KLという「場所」を村落として発祥せしめたのはSutan Puasa とMandailing族だとしています。

筆 者
筆 者

KLの発展を解説する資料を見てきましたが、筆者も、何故、Sutan Puasa の名前が大きく取り上げられていないのか疑問に思いました。

調べてみると、どうもSutan Puasa は1870年代にKLの統治から排斥されて、投獄されてしまったようです。つまり、反逆者扱いなんです。

不遇のKL開拓者 Sutan Puasa

以下は、シンガポール国立大学の研究結果です。

スマトラのMandailing 族である Sutan Puasa は1830年代にクアラルンプールに移住したと伝えられている。Journal of Southeast Asian Architecture (Vol. 12 Sept 2013, National University of Singapore)によれば、

1850年代には彼は既にAmpang Streetに住んでいて、同地域の調整役としてセランゴールのスルタンとも意思疎通をして、この地域を管理していた。

丘秀と葉四が安邦(Ampang)地区の錫鉱区の成功を知ったのは、実は、Sutan Puasa の情報であり、2名はSutan Puiasa の提案に応じて現在のKL地区に移動してきている。

葉亞來が華人集落の「甲必丹」に任命された際にも、スルタンの認知を得るために、前任者の劉壬光は Sutan Puasaに相談して解決している。

一方、Sutan Puasa はスマトラのMandailing族の移民であり、彼らMandailing集団は、やがて同地域の華人社会の人数に圧倒され、セランゴール戦争の期間には、マレー社会と英国の政治的な動きにより、敵視されて、排除されてしまう。

そしてクアラルンプールの管理主体は、英国政府の介入もあって、3代目の「甲必丹」となった葉亞來に移管されることになる。

Sutan Puasaの集団は、KLの管理者集団から排除されたことを不服として、英国政府と戦いに勝ったスルタン系の領主を相手に武力行使をしようとして有罪判決を受け、投獄される。

しかし、その後、情状酌量の判決が出て釈放されたSutan Puasaは、親族を頼ってクアラルンプール地区のBatu RoadやChowkit Roadに撤退して隠居生活に入り、1905年にKLで他界している。

参考 「マレーシア支部東洋学会誌」

「マレーシア支部東洋学会誌」(JMBRAS) は1877年にシンガポールに設立された王立アジア協会のマレーシア支部が発行している学会誌で、主にマレー半島、サバ・サラワク州、ラブワン、及びシンガポールの史実を発表している。マレーシア支部はクアラルンプールに在り、マレーシア、シンガポール、ブルネイ各国の政府が運用資金を提供している文化・地勢・歴史学会。

The Journal of the Malaysian Branch of the Royal Asiatic Society (JMBRAS) is a scholarly journal published by the Malaysian Branch of the Royal Asiatic Society (MBRAS). The journal covers topics of historical interest concerning peninsular Malaysia, Sabah, Sarawak, Labuan and Singapore. It was founded in 1877 in Singapore.

最後まで参照いただき、ありがとうございます。

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