【MM2H体験】おすすめ情報(39)シンガポール(後編)

MM2H

この記事は、本編【MM2H体験】の詳細記事です。「おすすめ」のまとめ記事はこちらです。

シンガポールの前編はこちらから参照できます。

19世紀のマラッカ海峡にあった3つの交易拠点といえば、ペナン島、マラッカ、そしてシンガポールです。

イギリス東インド会社のフランシス・ライトが18世紀末に、現在のケダ州のスルタンと交渉してペナンを租借した頃、シンガポールは、当時のジョホール王国の一部で低迷したままでした。

ジョホール王は事実上、オランダの支配下にありましたから、王国があると言ってもあまり勢いはなかったといえましょう。ポルトガルとオランダのせめぎ合いが現地の発展を妨げていたのです。

これを活性化させたのが、同じ英国の Sir Thomas Stamford Raffles (ラッフルズ、1781– 1826)です。

ラッフルズとジョホールの「シンガポール条約」

ラッフルズは卓越した戦略家だったようです。

彼はシンガポールの潜在価値を「東インド会社」に納得させ、1819年の1月末にシンガポールに上陸。オランダとは話をせず、ジョホールの反主流派と密約します。

ラッフルズが交渉したのは、ジョホールで軍事・財政面の実権を握っていた官僚の Abdul Rahman とその勢力であり、この頃のマレー半島の東、リアウ諸島に流刑にされていたジョホール王の兄、Hussein を君主に仕立てる計画を持ったのです。

ラッフルズは、密かにHussainをリアウ諸島から脱出させ、名目上のジョホール王( Sultan of Johor) として認知してしまいます。(実際にはフセインを年棒5000ドルで買収、Abdul Rahmanの組織にも年間3000ドルの報酬を約束)

見返りとしてHussain は、ジョホール王の名義で、シンガポールをイギリスの交易拠点として承認すべく1819年2月初頭に「シンガポール条約」に署名してしまいます。

ラッフルズは上陸から2週間程度でこれをまとめました。電光石火の動きです。しかし、この当時のシンガポール島の人口はわずか1,000人前後でしたから、正統なジョホール王やオランダにとっては、まあ「それなりの出来事」だったのだろうと思われます。

by George Francis Joseph, oil on canvas, 1817 source : wikipedia “Stamford Raffles” (by Kelson)

シンガポールの潜在価値を高く評価した英国の先見の明ですね。

海峡植民地(Straits Settlement)の一翼

ラッフルズの密約から5年後に、新たな条約が署名されると同時に、シンガポールは完全に英国領、つまり、イギリス王室の領土となります。

そして1826年(ラッフルズ総監が死去した年)、イギリスはペナン、マラッカ、シンガポールの3つの植民地を統合して、「英領インド」に組みする「海峡植民地」 (Straits Settlement) を成立させましす。この「海峡植民地」は、イギリスと「英領インド」の直接統治下に置かれ、イギリスの植民地行政制度が施工されたのです。

1836 年に、シンガポールは「英領インド」の首都に選定され、1860年には人口8万人の都市に成長。このうち過半数が、この地で作られた「胡椒」と「ガンビールノキ」の栽培のために中国からの連れてこられた安価な華人労働者でした。(「ガンビールノキ」は日本では、仁丹や正露丸の原料)

1865年当時のシンガポール sosurce : wikipedia “Singapore” ( by Eothan )

1867年になるとシンガポールは「英領インド」から外れてイギリス直轄領地となり、1890年には世界的な天然ゴムの貿易拠点に成長します。

英国海軍の軍事拠点

20世紀に入り、第一次大戦が終わると、英国は大英帝国の覇権を広げるべく、シンガポールを軍事拠点として強化し始めます。

建設工事は遅れ気味だったようですが、1938年には世界最大の船舶用ドライドックや、世界有数の軍事用の桟橋( floating dock, jetty )、英国海軍の実働6ヶ月分の燃料を供給できる貯蔵タンクを持つに至りました。

A British Danae-class light cruiser inside the Admiralty IX Floating Dry Dock at Singapore Naval Base, in September 1941. source : wikipedia “Singapore Strategy” ( by Nick-D )

しかし、英国は、戦略面では東南アジアを軽視しすぎていました。

当時の英国軍は欧州の安全保障に重点を置いており、シンガポール周辺は、有事の場合にだけ欧州から応援を出す算段だったので、1939年の世界大戦になると、シンガポールには手が回らず、他国からの侵略に対処できなかったのです。

第二次大戦と戦後のシンガポール

日本軍がマレーシアからシンガポールに南下してくる頃、英国軍はシンガポールの安全保障に力を尽くせず、1942年に、当時のチャーチル首相が「英国史上最悪の大惨事と屈服」を表明したシンガポールの陥落につながります。

日本占領下のシンガポール source : wikipedia

日本はシンガポールを「昭南島」と名付けて統治しましたが、3年も経たない1945年に自体は逆転、大戦に敗れると同時に当地から撤退をよぎなくされます。英国統治の再開です。

しかし、日本軍を撃退できなかった英国軍も、現地での信頼を失う形でその使命を終えます。

1956年には、シンガポール国内世論を反映した代表者と英国との交渉が進み、シンガポールは、軍事と外交を除くすべての内政管理を独自に行う権利を勝ち取ります。独立への大きな前進です。

その後の1959年5月の選挙で、同国の人民行動党(PAP)は圧倒的な勝利を収めました。初代ヤン・ディ・パータン・ネガラ(国家元首)として、ウィリアム・グッド卿が就任しました。やがてPAPの実権は初代首相の「リー・クアンユー」に引き継がれていきます。

この頃のシンガポールの悩みは共産主義者の動きでした。

マレーシアとの連合と離別

PAPの指導者たちは、シンガポールの将来はマレーとの強い結びつきにあると考えていました。マレーと再統一することで、共通の市場を創造し、シンガポールの持続的な失業問題を緩和し、経済に利益をもたらすと考えていました。

しかし、PAP内には共産主義者の支持派も存在し、統合に反対し、PAPから分裂。

マレーの与党である国民統一マレー機関(UMNO)は、当初はPAP政府への不信と、シンガポールにおける大規模な華人人口が人種的バランスを変える可能性を懸念し、統合のアイデアに懐疑的でした。

しかし、共産主義者による権力奪取への抑制の意味から、リー・クアンユーの交渉努力もあって、統合のアイデアを支持するようになります。マレーの指導者とリー氏は英国からのマレー連邦の独立に文字通り人生を賭けた調整を続けたのです。

1963年9月16日、シンガポールはマレーシア、ノースボルネオ、およびサラワクとの協定条件に従い、新しいマレーシア連邦の一部になりました。この協定に基づき、シンガポールはマレーシアの他の州と比較して、比較的高い自治権を勝ち得ていました。

source : wikipedia “History of Malaysia” ( by Muffin Wizard ) 「シンガポールのリー・クアン・ユー(上)、ノースボルネオのドナルド・スティーヴンス(中央)、およびサラワクのスティーブン・カロン・ニンガン(下)によるマレーシア連邦の形成を宣言した日の写真。

しかし、マレーシアとシンガポールは、政策の違いにより、頻繁に対立するようになり、マレー連邦の指導者から敬遠されるようになります。リー・クアンユーは、ブミプトラ優先主義には公然と反対し、平等な競争社会を主張しました。このことがマレー連邦において大問題になっていきます。

そして、2年後の1965年、マレーシア議会の全会一致の議会制定法により、シンガポールはマレーシア連邦から一方的に追放されたのです。

マレーシアから追放された瞬間、それはシンガポールは共和国が独立した瞬間でした。

新興国シンガポール

初代首相「リー・クアンユー」の独立宣言

私にとって、今は苦渋の時です。生涯、私は二つの領域の合併と統一を信じてきました。私リー・クアンユーは、自由と正義の原則、多くの人々の福祉と幸福の探求、平等な社会を築くことに基づき、本日1965年8月9日に、シンガポールが永久に主権民主主義、ならびに独立国家であることを宣言いたします。

シンガポールの独立を発表するテレビ中継 (8月9日)

独立自体が、かつてのマレー独立運動の盟友であった、マレー連邦指導者との決別でした。独立宣言の生放送や記者会見の最中には、リー氏が自制心を失って涙し、会見を中断する場面さえあリました。

 Lee Kuan Yew, First Prime Minister of Singapore, sourse : wikipedia “People’s Action Party” (by Varavour )

国民の多くがスラムに住み、仕事は無く、アヘンが街に蔓延し、風俗が乱れ、市民が暴徒と化すこともありました。しかし、最も頼りにしていたマレー連邦から見放された瞬間から、リー・クアンユー首相はシンガポールに「経済の奇跡」をもたらしたのです。

人種間の差別や汚職を撤廃し、教育においては完全な実力主義を実現しました、シンガポール国民は急速にインテリジェント化して、非常に学力の高い国に変貌していきます。国民全員にユニークな貯蓄制度を納得させるとともに、国家的で国民本位の住宅開発を断行。これがうまく機能しました。

苦渋をバネに、シンガポールは急速に発展し、大韓民国や中華民国(台湾)、香港とともに「アジア四小龍」の一角として認知されるようになったのです。

世界銀行の『ビジネス環境の現状』の報告では、シンガポールは9年連続で世界で最もビジネス展開に良い国に選定された。経済平和研究所が発表した2022年のビジネス環境ランキングでは10位にランクインしています。

Singapore downtown skyline with river at dusk. source : envato elements

最後まで読んでいただき、誠にありがとうございます。

🔳 シンガポールの前編はこちらから参照できます。

🔳 マレーシアの「おすすめ」80選 → まとめ記事はこちら

🔳 MM2Hの本編に戻る →本編【MM2H体験】

タイトルとURLをコピーしました