【実録:馬国で育つ】起業家族の子育て回顧(Secondary)

子育て録

この投稿は、本編(馬国で育って医師になる)の詳細記事です。

20年近く勤めた日本の企業も自己都合退職。

11歳になった長男(哲男=仮名)も日本の学校を離れて家族に連れられてクアラルンプールに戻りました。

それまでの3年の馬国滞在は別の投稿でお話したとおりです。

この年の末、私たち家族は住み慣れたコンドミニアムの大家さんとの再契約を終えて、新たな馬国生活をスタートしています。

■筆者は起業家になりましたので、会社の設立と事業の開始に没頭
■家内は長男と次の就学プランを考えていました

熟慮の末、今回はKLの中心部からかなり離れた郊外に位置するインターナショナル・スクール(IS校)に通学することを決めます。

決め手は車の購入でした。

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全ては車の購入から

企業の一員として馬国に住んでいるうちは、移動手段は会社が手配するバスか社用車でした。

「危険」という理由で社員個人の運転は許されていません。

会社を出て個人として馬国に住む場合は180度状況が変わります。自家用車が無いのは、とてもとても不便です。

もはや、会社の送り迎えはありません。

家族は、住居が決まった瞬間に自家用車の購入に進みました。

そして、筆者の脱サラ退職金のほとんど全ては、馬国で活用する日本車の購入に充てることになりました。

しっかりした日本車を自家用車として購入したことは、今思い返しても大正解でした。

日本車以外の欧米の車は予備品が高価で、不経済ですし、日本車は基本的に故障しませんでした。(10年経過した以降は若干サスペンションに違和感が出ました)

馬国メーカーのプロトンの車もありましたが、家族は日本車に固執していました。

筆者は過去3年の馬国での仕事を通して、馬国全体を縦横に動き回っていましたから耐久力のある車さえあれば、自宅から離れた学校に子供を送ることも容易でした。

アリス・スミス校の思い出

日本の中学から高校にたる期間、長男の哲男はKLの南に位置するアリス・スミス校に転入しました。

最寄りの幹線道路であるトゥン・ラザック通りをひたすら南に下り、40分程度時間をかけて郊外の Alice Smith Secondary 校への毎日の送り迎えが始まりました。

英国の教師が主体の非常に良い学校でした。

生徒を褒めて育てる学校でした。

アリス・スミスは「利益第一主義は取らない」ことを宣言しているインターナショナル・スクール。きちんと勉強させてくれる学校。

学費はそれなりに高かったですが、長男はのびのびと就学できていました。

特技であった水泳では入賞する機会もあり、友人も増えましたし、

学校外では日本人会の剣道の道場に通ったり、近隣のテコンドーの師匠について黒帯を取るまで練習する日々でした。

日本人会で剣道を始めてから日本人の礼儀と規律を身に付けた。剣道はお勧めです。

医師を志望する長男

馬国への移住を決めて2年が過ぎました

ある日

家内がひどく体調を崩し、倒れてしまいました。

飲み水が悪かったようです。

床に横になって苦しみ、救急車を呼ぶほどの状態でした。

有名なコンドミニアムですから、救急車はすぐくると思っていたのですが、電話をしてから車が来るまでに30分も待つことになりました。「救急」とは言い難いタイミングでした。

こんなことなら、自分で運転して最寄りの病院に行けばよかった・・・

家内と長男は遅れてきた救急車に乗って近くの救急病院に移動。

筆者は自家用車でその後を追いました。

馬国の救急車を利用すると、車道を通る際、他の車が救急車のすぐうしろに割り込んできます。そのときは流石に馬国の運転マナーに怒り心頭でした。救急車の利用の際はご注意ください。

家内の体内では急速にヘモグロビンが減少していて、危険な状態でしたが、それから1週間程度の加療で、退院できました。

病院の対応はきちんとしていましたが、期待するほど迅速に手続きが進まないので、やはり気持ち的にはやりきれないものがありました。

救急車は既定どおり、患者を病院に運ぶと、報酬は一切うけとらずに撤退していきました。

長男は、母親の状態が急変し、救急車も直ぐに到着せず、どうなってしまうかわからない事態に遭遇して、大きく動揺したようです。

本人にしてみれば、文字どおり「二度と経験したくない」事件だったのです。

長男が「自分は医師になる」と言い出したのはそれから間もなくのころです。

空前のアイデア:日馬両国での就学

長男の馬国での就学生活が起動に乗った頃、

この国に定着して育っていく日本の子供の日本語離れについて断続的に良くない話を耳にするようになりました。

曰く、

インターナショナル・スクールに通う生徒が英語になじんで急速に海外文化に順応する一方、

日本語は書けなくなる、話せなくなる

というリスクがあることが話題になっていたのです。

そのことから、

筆者の家内からは思いもよらぬプランが飛び出します。

それは、

「年1回、一学期だけ日本に母子で帰国して日本の中学で学ばせる」

というプランでした。筆者は馬国に残って仕事です・・・

当初は、耳を疑いました

馬国のAlice Smith校側も、「まったくお勧めできない。当校と日本の公立学校ではプログラムが違い過ぎる」と反対しました。

日本の公立学校も、目的を理解できず、首をかしげていたそうです。

しかし、既に企業を飛び出して海外で起業するという冒険に足を踏み入れた家族です。

やってみようということになりました。

5年、6年とインターナショナル・スクールに通わせるのは良いが、日本語を忘れてしまわないだろうか? 筆者夫婦は日本から極端に離れてしまうことのリスクを感じはじめました。

結局、我が家の長男は中学生の時点で2回から3回の頻度で日本に一時帰国するとともに、日本の公立学校に短期転入したのです。

教科書の数が増え、学ぶ内容が多くて洪水のようでした。

どの教師も、この子の評価をどうするか悩んだと思います

しかし、結果として本人は普通の学校では絶対にできない経験をしながら、英語と日本語の両方を習得していきました。

医師免許を目指して勉強し始めた頃には、全ての就業プランを自分で組み立てるようになっていました。

それ以降、

長男は「学ぶことを嫌がらない」学生になっていったのです。

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