【馬国】マレーの真実(2)

馬国

冒頭の画像は19世紀ごろの中国人クーリエの資料写真。

前回の「マレーの真実」は“THE REAL MALAY, PEN PICTURES”の作者であるスウェッテントナムが振り返った海峡植民地での大英帝国の大義と世界情勢について紹介した。

今回は、19世紀マレー半島で見られた人間模様からスウェッテンナムが心を動かされて記録した挿話を紹介する。非常にローカルな話題だが、舞台はセランゴールやペラ州よりもさらに北のセム国(現在のタイ王国)との国境あたりの話である。

“THE REAL MALAY, PEN PICTURES” (Carcosa, Malay Peninsula, May 1899.) は当時のマレー社会を描いた随筆・人物描写集であり、歴史資料としても興味深い著作である。今回の人物描写のタイトルは「嵐がもたらしたもの」A Storm Effectである。以下の翻訳文には読みやすさを趣旨として、段落ごとに、このブログの筆者がサブタイトルを付けている。

ペラの歴史でも紹介したが、19世紀のアジアはまだ奴隷制度が大手をふって歩いていた時代であり、奴隷として扱われたり、極端な低賃金で搾取されていた肉体労働者は常に悲惨な生活を余儀なくされていた。今回はマレー人ではなく中国から移り住んできたクーリエの話であるが、これもひとつのマレーの真実に違いない。スウェッテンナムはこれから目を背けず、非人道的な出来事を正面から捉えて文章にしている。また、この文章は19世紀の英国のブラックユーモアの一種とも解釈できる。

今回もOpen AIのChat GPT Plus を活用した挿絵を置いている。出典のある写真以外は全て想像図である。これ以下の文章で黄色や緑色の四角い枠で囲ってあるもの以外は全てスェッテンナムの文章を翻訳したもの。繰り返すが、これらは第一次世界大戦の前の1870年から90年あたりの話である。

方鉛鉱

マレー半島の北緯6度あたりには、名目上シャムの宗主権下に置かれているいくつかの小国がある。これらの国々はマレー半島の奥深くに位置し、マレー人によって統治されている。

私が「名目上」シャムの宗主権下にあると言うのは、シャム人が約100年前に半島のこの地域を席巻して以来、自らの支配権を確立するためにも、これら諸国の利益を増進するためにも、また住民の道徳的・物質的状態を改善するためにも、ほとんど何もしてこなかったように見えるからである。

かつてマレー人の国パタニ(Patani)であったこの地域は、今では小さな首長たちが治めるいくつもの小地区に分割されている。100年以上にわたるシャムの影響によってもたらされた恩恵といえば、せいぜい、ごくたまにシャムの役人が訪れること、ヨーロッパ人が鉱山採掘権その他の特権を得ようとするたびにバンコク政府が介入すること、そして主要な統治者の地位を誰が継承するかという問題について、シャム側が関与する権利を主張することくらいであった。

そして、こうした事柄はたいていの場合、その国に利害関係を持つ人物から、そうした権利や利権の移転に利害を持つ別の人物へと、いくらかの金が渡る結果になる、と言ってよいだろう。

数年前、ある英国の会社が、シャムの影響下にある国の一つで、方鉛鉱(galena)を採掘する利権を得ていた。この事業はかなり長い間続けられたが、ここで詳しく述べる必要のない理由によって、結局は失敗に終わった。

source : wikipedia

方鉛鉱(ほうえんこう、英語: galena)は、鉱物(硫化鉱物)の一種。化学組成は PbS(硫化鉛)。日本国内でも産出する鉱山は非常に多く、神岡鉱山、豊羽鉱山、花岡鉱山、小坂鉱山などの鉛・亜鉛鉱山で主要鉱石として採掘されていたが、日本国内で鉛を採掘する鉱山は全て閉山してしまった。海外ではアメリカ合衆国、オーストラリア、ボリビアなどの生産量が多い。

この事業はもともとそれほど大規模なものではなく、大きな成功が期待されていたわけでもなかった。しかし会社は、採掘作業のために多数の中国人労働者を雇い、その事業を監督するため、一人または数人のヨーロッパ人を置いていた。

新しい事業を始めるために森林を初めて切り開いた土地ではよくあることだが、この方鉛鉱山も決して健康によい場所ではなかった。そのため、かなり多くの労働者(当地でいう「クーリー(coolies)」)が命を落とした。

クーリーの生活

中国人が独特な民族であることは、誰もが知っている。そして、マレー半島においてヨーロッパ人の指揮のもとで方鉛鉱を採掘するという、この程度の小さな事業についてさえ、中国人のそうした独特な性質を示す事柄はいくらでも書くことができるだろう。

しかしここでは、事実を簡単に述べるにとどめよう。

このような小規模な事業で、中国人労働者が全部で150人にも満たない場合でさえ、その中には中国の二つ、三つ、あるいはそれ以上の異なる地方から来た者たちがいるのが普通である。

出典:www.thinkchina.sg/history/album-rare-photos-chinese-coolies-singaporeans

彼らは、それぞれ別の言語と言ってよいほど異なる方言を話し、異なる集団に属し、異なる秘密結社(派閥)に所属している。そして、ほんのわずかな理由しかなくとも、何かあればたちまち、個人同士で相手を叩きのめすほど殴り合うか、あるいは集団となって、相手を根絶やしにするような抗争に突入する用意ができている。

鉱山で大工や鍛冶屋をしている男は、クーリーたちとはほとんど共通するものを持たない。また、彼らの誰一人として、庭師や家事使用人の話す言葉を理解することも、その望みや考えに共感することもできないかもしれない。それでも彼らは皆、中国人なのである。

こうした基本的な事情をここで述べたのは、ただ、この方鉛鉱山で、なぜ支配人が福建人(Hok-kien Chinese)の一団と、次のような契約を結んでいたのかを説明するためである。

すなわち、死亡した中国人クーリーが出るたびに、その遺体を埋葬する仕事を、一人につき一律2ドル50セント(当時およそ7シリング6ペンス)という、一定かつ手頃な料金で彼らが請け負う、という契約であった。

原文の言い方をそのまま記せば、「一本の尻尾(per tail)につき」2ドル50セントということである。

中国人クーリーたちは、10人、20人、40人、50人、100人、あるいはそれ以上の集団で、大きく天井の高い小屋に共同で暮らしている。その屋根と壁は椰子の葉で作られている。

床は土のままで、天井はなく、たいてい窓もない。出入口となる開口部はあるが、それを閉じる扉はない。軒がかなり低いところまで垂れ下がっている場合もあり、そのような小屋では壁そのものがまったくないことさえある。

屋根は柱で支えられ、小屋の中の地面には、きわめて粗末な木製の寝台が並べられている。それぞれの寝台には一枚の敷物が載せられるようになっている。

各寝台の上には、厚手の蚊帳が屋根から紐で吊り下げられ、昼夜を問わずそのまま掛けられている。中国式の枕と毛布が、この原始的な寝床に備えられた、そのほかの寝具のすべてである。

埋葬の手順

クーリーが死亡すると、遺体を整え、墓地まで運び、土中に埋葬するまでの手順は、これ以上ないほど簡単なものである。

近くで寝ていた誰かが、隣の男が死んでいることに気づく。小屋の責任者にそのことが知らされ、おそらく彼が遺体を確認する。それから、埋葬を請け負う業者(そのような契約によって埋葬が行われている場合には)に知らせが送られ、業者は遺体を処理するために3人ないし5人の男を送り込む。

まず蚊帳を吊っている紐が切られ、蚊帳がそのまま遺体の上に落とされる。次に、敷物を左右から遺体の上へ折り重ね、両端も折り込む。そして全体を紐で縛る。これで、運び出すための「包み」が出来上がる。

埋葬に来た一行が5人の場合には、遺体の肩ないし頭の部分を一本の担ぎ棒に吊り、足の部分をもう一本の担ぎ棒に吊るす。それぞれの棒を二人ずつで担ぐ。そして彼らは、文字どおりその荷物を抱えて逃げ去るかのような勢いで走っていく。

残る5人目の男は、その前を小走りに進む。その手には、火をつけたチョロック(cholok)(細い一本の線香)が握られている。それは、ほとんどどのような天候の中でも、くすぶりながら燃え続けるのである。

方鉛鉱山は、かなり低い湿地帯にあった。中国人の墓地は近くの丘の上にあり、そこへは、密林のない岩の多い土地を通る、幅の広い荷車道が続いていた。

稲妻と豪雨

ある日のこと、その道を、埋葬を請け負った一行が、会社で働いていた労働者の一人の遺体を運んでいた。午後2時ごろのことであった。

その日の午前中は猛烈に暑かった。それは、大気が電気を帯びていることをはっきりと予感させる、あの独特の暑さであった。一行が見えるところまでやって来たとき、空気は息苦しいほど淀み、木の葉一枚動いていなかった。空の半分は、まるで溶けた真鍮のように輝いていた。一方、残る半分は巨大な黒い雨雲に覆われていた。その雲は、わずか30分ほどの間に現れたものだった。

突然、目もくらむような稲妻が走った。それとほぼ同時に、耳をつんざくような雷鳴が轟き、その直後、大粒の雨がぽつり、ぽつりと激しく落ち始めた。

埋葬の一行は一瞬よろめいたが、そのまま進み続け、むしろ少し歩調を速めた。

陽光が消えた。すると突然、突風が道を吹き抜け、木々から葉を引きちぎり、土埃を巻き上げながら前方へと押し流していった。

再び稲妻が走った。今度は、まるで彼らの足元の地面を直撃したかのようだった。続いて、また耳をつんざく雷鳴。そして今度は、豪雨が襲ってきた。

それはまるで水柱のような雨で、唸りを上げながら道を覆い、砂や砂利を激しく打ちつけ、それらを地面から数インチも跳ね上がらせた。ごく薄着だった埋葬の一行には、さすがに耐えられなかった。

そこで彼らは何のためらいもなく、担いでいた遺体を道の真ん中に放り出すと、左手数ヤードのところに張り出していた岩陰へ一目散に駆け込み、雨宿りをした。

担ぎ手たちが岩陰に座り、煙草を吸い、おしゃべりをしている間にも、嵐は丘の斜面でその猛威を存分に振るっていた。

10分もの間、雨はまるで一枚の幕のように降り続け、その幕を次々と走る稲妻が引き裂いた。その光は目をくらませた。まばゆい電光は、道に置き去りにされた死体のすぐ周囲を、鮮烈な青い光の筋となり、あるいは枝分かれする炎となって走り回った。

その閃光が消える短い間には、絶え間なく降り注ぐ大量の雨によって辺りはいっそう暗くなった。その雨は、まるで大地を鞭打つために、悪意をもって叩きつけられているかのようであった。雷の轟きと炸裂音は、ほとんど途切れることがなかった。しかも稲妻はあまりにも近かったため、電光が発する独特のパチパチという音さえ、ときおりはっきり聞き取ることができた。

道は、もはや川になっていた。雨水は死んだ男の頭に激しくぶつかり、そこで二つの流れに分かれた。二筋の水は遺体の両脇を渦巻きながら流れ、その障害物を通り過ぎたところで再び一つになり、道を勢いよく駆け下っていった。

その奔流は道をえぐって大きな穴を作り、砂利や小石ばかりか、かなり大きな岩石まで巻き込みながら、猛烈な勢いで丘を流れ下り、近くの急流へと注ぎ込んでいった。

やがて、自然の猛威は次第に収まり始めた。稲妻と稲妻の間隔は長くなっていった。

雷鳴も、先ほどまでとは違って低く重々しいものとなり、より大きな響きを伴いながら、遠くへ転がるように去り、その余韻をこだまさせていた。雨の勢いも弱まった。もはや地面を鞭打つような降り方ではない。

厚い雨の幕が薄くなるにつれて、あたりを覆っていた暗闇の帳もいくらか持ち上がり、時折吹く風が、細かな雨の筋をあちらこちらへ吹き散らしていった。

一筋の陽光が丘を横切るように差し込んだ。しかしそれも束の間、猛烈な速さで流れる雲が再び光を遮った。そうした墨のように真っ黒な雲の一つ(そこからは、ときおり青い炎のような稲妻がジグザグに走り出していた)が、風下へと遠ざかっていった。

そして、今では間隔の長くなった雷の低い唸り声の合間に、遠ざかっていく豪雨の、ザーッという音が聞こえていた。

異変

その間ずっと(おそらく30分か、それより短い時間だったろう)死んだ男は、放り出されたその場所、道の真ん中に横たわったままだった。

今もそこにいる。

ところが、その死体に何か異様なことが起きていた。

クーリーたちが雨宿りをしようと急ぐあまり遺体を投げ出したとき、その体はまっすぐに、十分なほど硬直した状態で横たわっていた。粗末な死装束といえば、遺体を包んだ蚊帳だけ。

棺といえば、薄い草の敷物だけであった。その「包み」は、嵐の猛威をまともに受けただけではない。かなり長い間、容赦なく冷たい雨水が川のように流れる中に浸されていたのである。死体は、今も同じ場所にある。

しかし、どういう奇跡が起きたものか、先ほどまで硬直してまっすぐ横たわっていたはずの遺体が、今では起き上がって座っているように見える。

丘側にあった半身(つまり上半身)が、今や下半身に対して直角になっているのである。

しかもその姿勢は、今なお水の流れる泥だらけの道の上で、何度も何度もうまくいかない身もだえを繰り返した末に、ようやくそこまで起き上がったかのようなものだった。

あの黒雲は、遠くの密林の彼方へと消えつつある。太陽は再び、森にも、丘の斜面にも、岩にも、道にも、激しく目もくらむような光を惜しみなく降り注いでいる。そして、嵐の最後尾に取り残された雨粒を、黄金の露のような輝きへと変えていた。

周囲を覆う緑の中で、道は文字通り燃え立つような光を放っている。太陽の熱に引き出されて、早くもそこから水蒸気が立ち昇り始めていた。幾筋もの白い蒸気がかすかな風に捉えられ、道を横切って流れてゆく。そして、半ば折れ曲がったあの筵の包みの周囲を軽く漂うと、きらめく大気の中へと吸い込まれていった。

埋葬の一行は、ほんのわずかな中国煙草を詰めた藁巻き煙草を何本も吸い、雇い主を散々罵り、賃金が少なすぎると不平を言い、最近自分たちがしでかしたさまざまな出来事をひとしきり語り合った末、担ぎ棒を手に岩陰から出てきた。

置き去りにした荷物を探し、仕事を終え、2ドル50セントの報酬を受け取るためである。ただし、そのうち彼ら自身の取り分となるのは、半分を少し上回る程度にすぎない。

先頭の男が近づき、死体が勝手にまったく新しい姿勢を取っていることに気づくと、一瞬、驚きのあまり言葉を失った。しかし、それもほんの一瞬のことであった。

墓地まであと半分というところまで、わざわざ苦労して運んできた死人が、途中で起き上がり、あたかも生き返ろうとしている。そんな勝手な真似を許しておくわけにはいかない。

一人目のクーリーが叫んだ。「おい、このろくでもない母親から生まれた惨めな野郎め! そういうつもりか。だったら、これでも食らえ!」言葉と同時に、彼は重い担ぎ棒を大きく振り上げ、筵の起き上がっている部分めがけて振り下ろした。

暴行

ドスン。鈍く大きな音が響いた。すると、包みの中から、うめき声のようなものが聞こえた。そして、その「もの」はぐらりと傾いた。

それをさらに倒してやろうと、二人目のクーリーが両手で担ぎ棒を握り、もう一撃を加えた。そして声の限りに叫んだ。「俺たちの苦労を全部無駄にするつもりか、この呪われたろくでなしめ! 棺にも入らないお前の死体なんぞ、豚に掘り返されてしまえ。野犬に骨まで食いちぎられてしまえ!」

先ほどまで起き上がっていた包みの半分は、これで地面に倒れた。

しかし一行の全員は、この「生き返った広東人」という、これほどまでに性根の腐った悪党を罵るのにふさわしい言葉を探そうと、それぞれの語彙を総動員していた。その間にも担ぎ棒は筵の上へと振り下ろされ続けた。途中で棒は何度も別の者の手に渡った。

正直に働く人間たちを相手に、こんな卑劣な悪戯を仕掛けようとした「もの」に対して、全員がそれぞれ自分の軽蔑を示す機会を得るためである。

筵の包みは、痙攣するように一、二度身をよじったように見えた。しかし担ぎ棒による殴打が終わるころには、実際上、その包みは雷雨がこの甚だ迷惑な「奇跡」を起こす以前と、ほぼ同じ形、同じ姿勢に戻っていた。

再び「棺」が担ぎ棒に吊り下げられ、埋葬の一行が改めて出発する準備を整えたとき、以前との唯一の実質的な違いは、包みのうち死者の頭が入っている側の下面に、濡れた赤い染みができていたことだった。

余った一人の男が一本の線香に火をつけ、一行の先頭に立った。担ぎ手たちは担ぎ棒を肩に具合よく載せ直した。そして次の瞬間には、五人の男たちは、中国人が棒で重い荷物を担ぐ際に決まって見せる、あの独特の小走りの足取りで、道を進んでいった。

何事もなかったかのように

嵐が過ぎ去った後は、すべてのものが、それまで以上に鮮烈になったように見える。太陽は壮麗なまでに輝き、空はまばゆいほど青く、雲は驚くほど白い。森の緑はさらに深く、草は一段と鮮やかなエメラルド色に輝いている。岩や木々が落とす影は、いっそうくっきりとしている。

鳥たちの歌声はより澄みわたり、草むらではコオロギがさらに甲高く鳴き、蛙の声は一時間前よりも一段としわがれて聞こえる。

自然は微笑んでいる。

そして埋葬の一行の心も晴れやかであった。もっとも、それは彼らが自然と心を通わせているからではない。墓地がもう見えており、報酬をほとんど稼ぎ終えたからである。

たとえ道のところどころが、真紅の血の塊によって染められ、ときにはその血が担ぎ手たちの足まで赤く染めていたとしてもそんなことは、「方鉛鉱山会社が、この請負埋葬に2ドル50セントを支払ってくれる」という確実な事実には、何の差し障りもなかったのである。

スウェッテンナムは最後まで「死者が本当に蘇生した」と明言していない。ところが描写されている現象を順番に並べると、上半身が起き上がる → 殴ると(うめき声のようなもの)がする → さらに殴られる →痙攣するように身をよじる→ 最後には頭部側から血が出る、となっている。したがって読者には、「この男は本当に死んでいたのか?」という疑問が意図的に残される。

この構成を見る限り、この作品は単なる「熱帯の雷雨の珍しい作用」の記録というより、死、生、労働、金銭、そして人間の無頓着さを、かなりブラックなユーモアで描いた短編的なスケッチなのである。こういうブラックなセンスの背景にあるのは、人間の命の価値が非常に低かった19世紀ならではの時代背景である。

最後までご覧いただき、ありがとうございます。

次回も「マレーの真実」からユニークなエッセイを紹介します。

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