【MM2H情報】炎上 米政治学者とマラヤ大学

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Agree to disagree とは、目の前の話し相手と合意できないことが判ったという結果を評価して、相手に敬意を示する表現。ビジネスの場面や学問的な議論でしばしば使われます。「立場や意見が互いに違っていて合意できないことがよくわかった」というような意味で、いつまでも相手と半目するよりも、前進して次に進もうという平和主義的、かつ論理的思考を代弁しています。

この記事は、本編【MM2H体験】の関連記事です。馬国の「おすすめ情報」まとめ記事はこちらです。

前回の記事はこちら、

2024年4月に炎上した、Bruce Gilley 教授のSNSでの発言を巡って、マレーシア中であれこれと議論が飛び交っている中、本日のFree Malaysia Today に、「これこそ学識者」と思える素晴らしい投稿が紹介されていました。

筆者の感想として、この投稿をFMTに送った人物、Amirul Mukminin は、大学のような学識者が学ぶ場所での、「あるべき姿」を見事に説明してくれています。

Amirul Mukminin is an independent researcher, state policy advisor, and student.

彼に経緯を表し、筆者は本日はコメントせず、彼の投稿の重要な部分を、日本文で、MM2Hファンとマレーシアファンの皆様にお届けします。

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Amirul Mukminin氏の投稿文

Universities Must be Open to Different Ideas and Causes

大学という場所は異なる考えや論理に対して開けた場所でなければならない

Free Malaysia Today 2024/04/27

オープンな議論こそ必要な議論

学問はアイデアの戦場であるべきです。それぞれの個人の意見は、政治的な干渉なしに自由に表明されるべきです。

その一方、自由な議論が一般市民に影響を与え、人々の不安を引き起こす可能性があると懸念する人もいます。例えば、大学が共産主義のプロパガンダやファシストの考えを(学内に)広めて、それが一般市民に「漏れる」ことで政情不安を引き起こすのではないか、という疑問を持つ人さえいます。少なくとも、人々の信念を揺るがす可能性があるというわけです。

大学は学術的なコミュニティの聖域であり、理不尽な狂人群衆や非合理的な大衆主義者のための場所ではありません。

(私たちは)キャンパスにおいては、先ず、議論をよく聞き、論理的なフィードバックを行うことを教えられました。これらのアイデアを強い反論で拒否する自由も与えられていいます。同意できるアイデアについては、より強い議論を構築する訓練を義務付けられていました。

大事なのは、異論・反論を出し合い、議論を豊かにして、互いに知識を向上させ、知的能力を刺激し合うことです。大学は、この世に唯一無二の物語のための「やまびこボックス」ではありません。

残念なことに、近年、大学は(権力者の)イデオロギー教会に変貌しているといった懸念が高まっているようです。

世界の多くの地域で、大学は教授陣、学生層、学生新聞の内容を厳選し始めています。大学の管理部門は、大学が促進している特定のイデオロギーに反旗を挙げていない講演者や、著作や、サークル活動のみを許可しています。これらを募集する段階では全く自由で制限がないように説明されていても結果は同じです。

この現象の主要な原因の1つは、学問に政治的すりこみを施す試みの増加です。多くの大学が政治的理由で選分けを行い、特定のイデオロギーだけを集めて、「異議を唱える声」は排除しています。

個人的な「考え」の多様性を尊重せよ

こんなことでは、各個人の「考え」の多様性が失われ、学生の視点が狭められ、大学が推進すべき本質を失うことになります。本来の目的は、批判的思考と知的多様性であるはずです。

例えば、ある部門では保守的な声しか許可せず、改革的なアイデアはカリキュラムに含められないことがあります。ある部門では極端にエスニック関連に敏感で、教授が民族を対象とする政策に触れることを許可していません。

海外留学では、私たちが学んだ国(の大学)には「民主主義」に反対する教授さえ在籍しており、その必修読書の一部としてナチスの哲学者カール・シュミットの著作まで含まれていました。もちろん、カール・シュミットを否定する人々もいましたし、あれこれと議論もしました。

思うに、私たちが(特定のイデオロギーや何かの)自論をより強固にするための最適な手段は、「自分自身を繰り返し問い質すこと」です。それができて初めて、学問的に覚醒し、成熟した議論とディベートが奨励され、あらゆる視点が歓迎される環境が維持できるのです。

カール・シュミットのファシスト的な考えは、ポール・ハースト、スラヴォイ・ジジェク、シャンタル・ムフ、ホルヘEドッティ、クロード・ルフォールなどによって否定されています。もし大学でカール・シュミットの著作が禁止されてしまったら、学者は、どうやってそれに反論する勉強をするのでしょうか?

Bruce Gilley の著作を読めば(読んで初めて)自己矛盾があることが判ります。例えば、彼は、植民地主義について「相互利益を齎すシステム」として賞賛しようとしています(他国の植民地化は、そもそも相互利益を前提としていない)。

家父長主義的なアプローチや、独裁主義を抱合する民主主義といったパラドックス的な概念など、多くの矛盾するアイデアが見られます。(筆者:Gillayの著作を読めばツッコミどころ満載だということ)

また、彼がマレーシアを離れた後のSNSに「マレーシアは安全な目的地ではない」と不満を述べてますが、その理由として「ただ、彼の講義が中止されたというだけ」としています。(講義の中止というのは人間の安全を脅かす行為なのでしょうか?おかしいですね)

さらっと「流されて」しまった議論のチャンス

Bruce Gilley は、(我々がよく遭遇する)ただの、アメリカのシオニストであり、白人至上主義の一人です。(特別に危険な人物というわけではないシオニストの学者)

しかし、マラヤ大学での、彼のセッション中に、持たれるべき議論はなかったそうです。

異論反論が発言されなかったことについては、私は、とても失望しました。

マレーシアの外交政策に関する Gilley のセッションに参加した同僚は、「彼を叩きのめす絶好の機会だったが、誰もギレーを質さなかったよ」と私に話しました。

この国の学者は議論の精神を持っていないのでしょうか、あるいは学生は厳しい質問をすることを訓練されていないのでしょうか? 残念です。

大学のあるべき姿

私が言いたいことは、大学は差別的であってはならないし、学者と学徒のコミュニティに対して必要十分な人的・質的リソース、ディベートをする機会、まとまった発言の機会を提供すべきだということなんです。

そして、知識人や学識者は、(この国の)政治・道徳面で「中立」的な立場に引きこもるのではなく、常に勇敢で大胆であってほしい。様々な論理や理念に基づくディベートや討論会の機会に対して、前向きでいて欲しいということです。

私にとって、異なる意見であろうとも異なる考え方をすることが学術の自由の原則です。それらを受け入れるべきです。

学問の自由の原則とは何でしょうか? 私は、「考えが違う」ことを互いに合意すること ( agreeing to disagree ) こそが学問の自由だと思うのです。全ての立場には、それぞれ異なる根拠があります。それは誰かが制限すべきことじゃない。

For me, agreeing to disagree is the principle of academic freedom. All sides have their own causes. Let them be.

Amirul Mukminin  2024/4/27

最後まで参照いただき、誠にありがとうございます。

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