この記事は、本編【MM2H体験】の関連記事です。馬国の「おすすめ情報」まとめ記事はこちらです。
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セランゴールの市民戦争が終結して、英国の行政関与が強くなってからのKLの歴史は、あらゆる読み物やWikipediaなどのネット上の資料で詳しく参照できます。
今回は連載最後の記事として、戦後のKLの歴史を箇条書きに纏めるにとどめ、日本であまり脚光を浴びていない、英文Wikipediaと、Kongsi Network が紹介している詳細を紹介します。
KLがセランゴールの首都に
- 1873年:セランゴールの市民戦争終結
- 1874年:パンコール条約により英国政府によるマラヤ各国への行政指導開始
- 1875年:葉亞來による「仙四師爺廟」の開帳(基礎は1860年代)
- 1879年:錫の市場価格の回復により、KLは財政難から脱却
- 1880年:KLが正式にセランゴール州の州都となる(旧州都はクラン)
内戦後のKLは、まだ数千人の町でしかありません。英国がこの町に期待を持った理由は、錫鉱業の発展だけでなく、葉亞來の行政力による治安の安定でした。
警察機構がまだ出来ていない当時、葉亞來は華人集団を取り締まる権限を与えられていましたから、
この権限を有効活用して、軽犯罪から重罪まで、(極刑を含む)厳しい規則を運用しました。葉亞來が、この治安統制を6人の警官と、60名を収容できる刑務所で運営し、KL独自のルールで管理しきったことは、他の地域が達成しえなかった快挙として語り継がれています。
英国行政府は、彼らの統制力を評価してKLをセランゴールの首都にしたと伝えられています。
内戦後も苦難が続く町づくり
- 1881年:KLで歴史的火災被害(1月)
- 1881年:KLで歴史的洪水被害(年末)
- 1882年:Swettenham がセランゴール州のレジデント(英国行政官)に就任
- 1882年:英国行政庁はPadant(マレー語で「広場」)の土地を葉亞來から購入(エーカー当たり$50)
1881年はKLにとっては苦難の年でした。1月に大火災が発生して、多くの家屋が焼失しています。そして年末には洪水の被害を受け、復旧に四苦八苦したようです。
葉亞來は当時の金額で10万ドルを拠出して町の建て直しを助けています。
82年には、KL市の建設の英国の中心人物と言える Frank Swettenham がセランゴールの行政官に就任します。Swettenham は後にマレー連邦全体の基礎となる国内のスルタン国各州を連邦に統一する仕事を成し遂げた偉人でした。
彼は、葉亞來のKL行政を高く評価して、彼の権威を尊重して、土地の所有権もきちんと評価しました。1882年に、現在のムルデカ広場である「パダン広場」を葉亞來から購入したのは、この Swettenhamです。
行政官に就任した Swettenhamが初めてKL市街を見て回った際の報告内容がKongsi Networkで紹介されています。
1882年に Swettenham と同僚がKLの街並みを見て回ると、道路は4メートル弱の幅しかなく、脇道を通り抜けるのは困難であった。卸売市場の不衛生なこと、甚だしく、あらゆるものが腐った状態で、生き物の内臓や排泄物が、そこらじゅうの地べたや、建屋の側溝に投げられていて、流れを止めている汚物はすくって道路わきに置かれていた。疱瘡(ほうそう)やコレラや熱病が頻繁に伝染していた。
Kongsi Networks
葉亞來最後の事業と永眠
- 1884年:KL市の道路幅拡張、建屋のレンガ造り化を推進する条例(人口4,500人)
- 1884年:KL市に最初の華人教育施設の開業
- 1884年:年末に「甲必丹」葉亞來が死去
- 1884年:KLに英国のセランゴール・クラブ設立
葉亞來最後の地域貢献は、パームヤシの葉で作った中世の建屋を、すべてレンガ造りのショップロット型の建屋に改造する事業でした。
戦争や火事で家を無くす経験を何度も繰り返したKLです。英国行政府の号令にしたがって、関係者が協力してレンガを大量生産して、多くのショップロットを建設し、道路幅も拡張しました。
1884年、葉亞來は気管支炎と左肺の膿瘍を患い、太く短い人生を終えます。まだ40歳代でした。
彼は、この年に長年の希望であった中国への外遊を計画していました。ところが、この年の嵐で彼らの治安維持のための施設が破壊されたりした関係で、この希望は叶えられなかったのです。
英国行政府は、この年に、KLの広場にセランゴールクラブを設立します。
葉亞來が守り続けたKLは、この時、英国行政府に引き渡されたと言って良いのではないかと思います。
近代都市KLへ
- 1886年:KLとクランを繋ぐ鉄道が竣工
- 1888年:KLの中央市場開業
- 1890年:KLの公衆衛生局 (Sanitary Board) 設立(人口20,000人)
- 1890年:この頃クアラルンプール市庁(Municipal Council)の設立
- 1895年:Swettenhamはマレー連邦4州のレジデント・ゼネラル(首席行政官)に就任
- 1896年:KLは4つの州が連邦したマレー領土の首都となる
- 1897年:英国行政庁がKLのSultan Abdul Samad Buildingに移転
- 1900年:KL市の人口30,000人
- 1901年:Swettenhamは海峡植民地の総督に就任(~1904年)
- 1904年:最初のKL市役所の開業
- 1915年:KL最高裁判所の開業
Swettenhamが初期マレー連邦の4州(Pahan, Perak, NegriSembiran, Selangor)をまとめた主任行政官になったことは、各州のスルタンの了承のもとであり、この4州の連邦は、1957年の独立の前の段階のマレー連邦でした。
その後、Swettenhamは、Kelantan、Trengganu、Kedahの3州の連邦統一へのレジデントの就任の合意を取っています。
おわりに
20回の連載となった「KLの生まれた19世紀」の投稿は、MM2Hファンの筆者にとっては、実に有意義で楽しい仕事でした。
この連載は、これまで日本の社会に詳しく語られなかった19世紀のKLが、少し見えるようになったと思います。(いや、これは自画自賛で大変恐縮です)
出来上がった記事に満足せず、今後も内容を少しずつ修正して、もっと読みやすく、わかりやすいものにしていきます。
思うに、
馬国の人々は、外国人に対して、自国の歴史をこまごまと説明することには、あまり得意ではありません。
おそらくそれは、彼らが未だ納得していない歴史解釈があったり、誤解があったり、異なる伝承内容があったりするために、「歴史」という、本来あからさまで単純な素(もと)の姿をわからなくしてしまっているのだと思います。
実は、馬国の友人の中には、この国を「世界の残念組」だと考えている人も居ます。それは実に残念な誤解です。
筆者はそういう話になるたびに、馬国の苦難の歴史こそは、世界が学ぶべき教訓であり、これほどの苦難を経験して、世界の教訓を残した国家は少ないのだという話をしたいと思うのです。
マレーシアは、列強の覇権主義や、搾取や、宗教や、戦争や、民族紛争に苦しみぬいて独立を果たしました。その苦しみは、まさに単一民族の日本人が、あの原子爆弾によって声もでないほどの苦渋を味わったことと同様に、世界に強烈な教訓を与え、異なる民族と文化が交流する中での平和の尊さを教えているのだと思うのです。
筆者
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