この記事は、本編【MM2H体験】の詳細記事です。馬国の「おすすめ情報」まとめ記事はこちらです。
歴史の話ばかりが続いてるけど・・・
これって、MM2Hファンの僕らにとって何の役に立つ話なの?
MM2Hでマレーシアに長く住むのであれば、クアラルンプールがどのように首都になっていったか、その物語を知っておくことで、知り合いになるマレーシア人から特別な親近感を持ってもらえるようになります。
つまり、普通の日本人とはちょっと違う「セカンド・ホーマー」になるわけです。困った時に助けてくれたりします。
このシリーズでは、被本語以外の資料から、沢山情報を集めています。KLが生まれた19世紀のセランゴールの歴史を再発見できるような情報をまとめて紹介しているわけです。
前回のお話はこちらです。
時は1856年のイギリス領マラヤ半島。
当面の保護者であった葉五(Yap Ng)の指示どおり中国に帰国できなかった葉亜來ですが、いよいよこれから3段階の連続出世劇を演じてKL市の中心人物になっていきます。
葉亜來は、持ち金を失った後、なんとか立ち直ったのでしょう、葉五(Yap Ng)の義兄弟である葉富(Yap Fook)と共にマレー半島を北に旅することになりました。
なんとかこのマラヤで一旗揚げなければならないとう思いがあったはずです。年齢的にも、そろそろ20歳です。
ご存知のとおり、1800年代のアジア圏の人間の寿命はせいぜい40歳代後半です。現在のように50歳、60歳と長生きする人は少なかった時代ですから、20歳といえば、もう人生の半分が終わってしまう歳(とし)でした。
そんな境遇の葉亜來は、現在の Serembang の南西に位置するLukut (ルクト)という土地に移動して、ようやく蓄財を持てるほどの仕事をします。
そして、彼独自の「商売」を始めると、次第にセランゴールの有力者との人脈を太くしていくのです。
「ルクト」の町の料理人から商売は始める
第一段階は現在のセレンバン州の南、Lukut という錫鉱脈での仕事です。
彼の仕事は錫鉱区の「料理人」でした。そして、彼に仕事を与えたのは、当時の ルクトの錫鉱区を指揮していた、Fui Chiu Hakka (恵州の客家)である 張忠(Chong Chong)でした。
この「張忠」という人物の記録は余り残っていませんが、葉亜來がクアラルンプールで活躍する頃には、厄介な悪役として再登場します。ただし、ここでは、あくまで葉亜來の雇い主でした。
錫鉱区の「料理人」の仕事は、思いのほか金になる仕事だったようです、何故なら
- 料理人として、日々の食事は「賄い飯」で無償だった上に、料理人としての「給与」をもらった
- 張忠の名義であらゆる食材を買い付ける仕事もするので、取引毎に「手数料」が取れた
- 錫鉱区で働く華人労働者から定期的に報酬(チップのようなもの)をもらう事ができた
毎月の食費がかからないというのは非常に助かったはずです。そして、当時の鉱業労働者は毎月の給与から小銭を料理長に払うのが華人社会の習慣だったので、錫鉱業が発展していたルクトの料理人にはけっこうな金が入ったのです。雇い主の張忠に報告する材料調達の帳簿と、実際に購入する金額は違います。手間があるので手間賃(コミッション)を取れたのです。
この地で3年働くと、葉亜來はそれなりに裕福になりました。そこで彼は、貯蓄した金を資本に豚の取引業を始めたのです。
マレー人は豚を食べませんから、華人だけの食材です。恐らく彼は養豚業者から豚を買い付けると、錫鉱区の錫の現物と交換して、錫が高く売れる時に利ザヤを稼いだのでしょう。
ルクトの町で錫鉱が発見されたのは1840年、葉亜來が滞在したのは1856年頃から3年間です。利権争いの暴力事件も無く、安定した事業集落で働けたのは幸運でした。
この後、ルクトの近隣の町、Sungei Ujongで起きたような悲劇(次回の記事を見てください)も無く、平和な3年間だったのです。
参考 「ルクト」という錫鉱業の町
ルクト(Lukut, 中国語: 芦骨)は、マレーシアのヌグリ・スンビラン州 Port Dicksoson の北東に位置する町です。
19世紀初頭にはスズ鉱山の町として栄え、かつてはセランゴール州の一部でしたが、1880年にスンガイ・ウジョン領に割譲され、現在のヌグリ・スンビラン州の境界線の一部となりました。
「ルクト」は、歴史的な建造物や史跡が数多く残る町です。その中でも特に有名なのが、1847年に建てられたルクト砦です。ルクト砦は、スズ鉱山を守るために建てられたもので、現在は博物館として公開されています。
18世紀初頭、マラッカからの中国人鉱夫たちは、セランゴールのスルタン、イブラヒム・シャー(つまり地主)によって、この地域の採掘を許可されていました。スルタン・イブラヒムは、ペナンを拠点とするイギリス東インド会社と貿易協定を締結し、ルクト鉱区の錫はセランゴールのスルタンに利益をもたらすものとなりました。
これにより、特に海南省出身の中国人コミュニティの人口が増加し、スルタンは中国系住民の代表を任命したほどです。
華人(中国人)はルクトの発展に大きく貢献しました。マラッカ出身で技術を持った華人は、技能を生かして町づくりに携わりました。陳亜川(Chee Yam Chuan)、許秀 (Hin Siew)、葉賜 (Yap Si) といった人々は、町の発展のために資金を投じました。
若き日の葉亜來 (Yap Ah Loy) も、ここで3年間、張忠鉱山 (Chong Chong mines) で働いており、その後に独立起業するための資金を蓄えました。
参考 「葉亜來」の本当の姓名
彼の本来の姓名は「葉德來」(Yap Tet Loy)であり、「葉亜來」は通称だそうです。
1900年代初期の中国語の新聞等でYap Ah Loyが報道される場合、「葉德來」と記述されることが多かったようです。
参考 日本人の寿命について
さらっとネットで調べてみたのですが、日本も他の国と同じで、19世紀の時点での寿命は50歳以下だったようです。
最後まで参照いただき、ありがとうございます。
次回のお話はこちら
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