【馬国】 19世紀ペラ州の歴史(10)

馬国

前回に続き、いよいよ険悪となる不幸なバーチ監督官とペラの族長達の対立を深掘りする。

今回の深掘りで特筆すべきことは二つある。そのひとつは、このペラという地理的・財政的なまとまりを英国はどのように捉えていたか、もうひとつは、パンコール条約に謳われたマレー文化と慣習への不可侵条件である。

ウィルキンソンの書籍において、歴史家が使っていたペラ地域の地域名称は「ステート」、英語の State である。当時の植民地政府はペラを State of Perak とは読んだが、現地で表現されたように Kingdom of Perak(ペラ王国)とは言っていない。国として認めていないからである。では State は日本語で何かと言えば、現在の日本では「州」という呼び方となっている。現在のマレーシアの地図を日本語で参照すれば、現在のペラ地域は「ペラ州」となっている。

我々はペラ州がマレーシアという国を個別の地方自治体に区分した場合の呼称として「州」を使っているが、この「州」にあたる state という呼称は、国家の成立以前から普通に使われていたのだ。現在のマレーシア国が、若干の例外こそあれ、マレーシアの各州の独立性とスルタンの存在を重く見ている理由がここにある。マレーシアに現存する州と呼ばれる地域はマレーシアの国が組織される前から、「国家」に匹敵する独立意識をもっていたわけだ。

これだけ強い独立意識がある地域が持っていた地域的な文化・慣習は、たとえ植民地政府である英国でも「不可侵」でなければならないという原則があった。その不可侵の対象はもちろん宗教に関わるものであるが、それだけではなく、19世紀の奴隷制度でもあった。東アジアの奴隷制度は英国政府が排斥した非人道的な行為に違いないが、それでもペラ地域では不可侵な慣習であったわけだ。

では、パンコール条約において、英国がペラ地域の「奴隷制度」を明示的に不可侵だと記載されているかと言えば、答えは「否」である。起草した英国の文官達も、現地の文化慣習の本質はイスラムであり、奴隷制度とは思っていない。このことは、奴隷制度の違法性や不道徳な側面があったにせよ、条約締結時点での英国政府の「見落とし」であった。

ボタンのかけ違い

すぐに引用から始めます:

「Birch着任後のペラ地域では、(スルタン位の継承や徴税システムの混乱とは別に)新たな困難が生じていた。それは「債務奴隷制」の習慣を巡る困難である。この習慣はもちろん不当なものであり、特に女性の場合は一般的に身体を売ることで金を稼ぎ、衣服を調達しつつ借金を返済することが求められていた。それはBirch監督官に条約上の介入権限がないペラ地域の古くからの習慣であった。

(パンコール条約に地域文化不可侵の原則があったにせよ)奴隷制に対するBirch監督官本人の本能的な嫌悪感から、監督官は逃亡奴隷に庇護と支援を与えるようになった。そして恐ろしいことに、監督官を補佐する側のマレー人警察官たちがその慣行につけ込み、自分たちのために一部の奴隷を誘惑して連れ去ったのである。

Birch監督官の見解には大いに共感できるものの、自分の奴隷が盗まれ、何の救済も得られなかった所有者が抱いた被害感覚も理解できる。奴隷所有者たちは通常裕福な人々や族長達であり、まさにBirch監督官が「すべての課税は地域政府(State)に帰属すべきである」という大義名分で先祖代々から受け継がれた利権である封建制度を奪われんとしていた被害者であった。これで監督官に対する反感がさらに苦々しいものとなった。」

出典:”A   History of The Peninsular Malays with Chapters on Selangor and Perak” (Kelly and Walsh, 1923)

監督官はあくまで人道主義的な立場から奴隷制度の解体を目指したが、現地の族長達から見れば、これは紛れもない「条約違反」に映ったのだ。文官のスウェッテンナムやクラーク総督がこのことを予見していただろうか。債務奴隷という「しきたり」が悪習であるという認識の元、パンコール政策とは無関係だと判断しただろうし、監督官の行動と現地の族長達との感情的な対立は想定外であったに違いない。

最後の説得

ウィルキンソンの書籍から:

「5月になると事態は非常に切迫し、スルタンはクラーク総督(Sir Andrew Clarke)のもとへBirch監督官の行為に抗議するための代表団を派遣するに至った。この代表団の長は、バーチ暗殺事件の後に新たなペラ地域のスルタンとなる Raja Dris(イドリス太子)であり、彼は植民地政府に以下の譲歩を求める予定であった。

  • バーチ氏が自身の責任だけで行動するのではなく、全ての行政についてスルタンの同意を得ること。
  • ペラ(国内)各地域の族長の税収を保持させること。
  • (主人のもとから逃亡した奴隷をバーチ氏が匿(かくま)わないこと。

代表団は実に気まずいタイミングでシンガポールに到着した。クラーク総督はまだ国内にいたものの、ウィリアム・ジュルボワ卿(Sir William Jervois)に海峡植民地総督の職を引き継いだばかりだったのだ。

クラーク卿はスルタンの行動を喜ばず、代表団を冷ややかに迎えた。新スルタンとして認知されたアブドゥラに対して差し出されたクラークの書簡で彼は「貴殿を苦しみと悲しみから引き揚げ、地位と名誉を与えた総督」と自称し、非常に強い口調でアブドゥラを戒めている。

代表団は植民地政府に訴えても無駄だという思いを抱いてペラへ戻った。実際、彼らがクラーク卿と充分「膝詰め」の話ができたかどうか疑問である。そのクラークがパンコール条約に関する公文書で示した方針は、次の言葉に集約される。「どの東側諸国とも同様、マレーはほぼ子どもと同様に扱われ、教え込む必要がある。」この発言は、当時の海峡占領政府内に組織されたマレー問題担当官* が公表していた内容と同等である。」

* Singapore Secretariat(シンガポール事務局)内の役職(当時Swettenhamらが務めたもの)

出典:”A   History of The Peninsular Malays with Chapters on Selangor and Perak” (Kelly and Walsh, 1923)

バーチ監督官の怒り

ウィルキンソンの記録が続く:

「当然ながら、バーチ監督官はペラの代表団がシンガポールに派遣されたことを知った。この時期に書かれた彼の日記は英国のパンコール方針の矛盾を滲ませている。

「彼(新スルタン)には、統治の適性がないと何度も繰り返し説明してきた。彼はどこを探しても見つからないほど不適格な男である。

実のところ、もし明日にでも住民投票が行われればイスマイルに有利な結果となり、…ペラの族長達が集団として意向を再度表明するよう求められれば、彼らはイスマイルをスルタンとするであろうことに何の疑いも抱いていない。」

このような状況にもかかわらず、若いスルタンは、足元の問題解決について族長達の闘いを主導してきており、現地の人望を失ったわけではなかった。いくら無計画で浪費家であったとしても、特定の懸念事項においてはペラ地域全体を味方につけていたのだ。バーチ監督官はこのことをよく知らなかったようである。

「5月11日。繰り返し言うが、今住民投票が実施され、族長諸氏の判断が問われるならば、全員がイスマイルを支持するだろう。そしてイスマイルは英国とともに歩み、英国の監督官の助言に従って行動することを約束するはずだ。…私は誰もが耐えうる限り忍耐強く改善の兆しを待ったが、何も現れない。

私は6月8日に彼(新スルタン)が去る前に、彼とかなり話し合い、彼のためになる真実をたっぷりと言い聞かせた。注意しなければ、彼はすぐに英国政府によって王座から追われることになるだろうと伝えた。彼は言われた通りにする準備はあるが、他の有力者やペラの軍務大臣(ラクサマナ)を恐れていると言った。…夕方、非常に長い話し合いをした。スルタンはどんな助言も受け入れず、何も実行しようとしないこと、そして私たちがこれ以上これに耐えることはできないし、耐えるつもりもないこと、国家のために歳入を調達しなければならず、港湾の税務官や警官隊、そしてスルタンが行っているような不当な搾取を続けて、この地域唯一の税の源泉を奪うことを許すわけにいかないことを説明した。

監督官の姿勢は理解できるものであった。ペラ地域が自立して財政を維持できるようにすることが不可欠であった。Perak River沿いに通行税徴収所を所有するあらゆる族長に対し、10マイル程度の間隔で錫の関税を支払わなければならないのであれば、奥地における錫の産出を促進することは不可能だった。自らすべての歳入を徴収したいという監督官の望みに対し、族長達は自分たちが封建的権利である徴収金を奪われているとしか受け取らなかった。交渉によって妥協点を見出すことは可能だったかもしれない。しかし監督官は、見通しの立たない申し出に自ら縛られるつもりはなかった。何らかの支払いに同意する前に、自らが何を支払う余裕があるのかを知りたかったのである。その間にも、彼の機構の維持費は非常に重く、多数の小規模な族長達に年金を支払う余地は残されていなかった。

解決策は、力によって監督官の意志を押し通し、その後に続く出来事がとられた強硬手段を正当化し、行われたことに人々を納得させることであるように思われた。

出典:”A   History of The Peninsular Malays with Chapters on Selangor and Perak” (Kelly and Walsh, 1923)

バーチの最後通告

ウィルキンソンの記録が続く:

「6月になると、Birch監督官は、課税制度を規定する明確な政令を新スルタンに提示し、これに署名するよう求めた。スルタンは時間を要求した。Birch監督官は彼に7月20日までの判断の猶予を与えた。その間、監督官はラルーと地区を訪れ、様々な川を調査し、タイピン市(太平市)の背後にそびえる山々に登り、Gunong PondokおよびKuala Kangsarを経由してBandar Baharuへ戻った。彼が初めて武装抵抗に遭遇したのはこの旅の途中であった。Kota Lamaにおいて、マスケット銃と槍で武装した多数のMalaysが、彼らが所有する川の岸にバーチ一行が上陸することを拒否した。彼らは自分たちの封建的chiefにのみ従い、スルタンのことは何も知らず、その命令にも意を払わないと付け加えたという。示唆に富む出来事であった。

Bandar Baharuへの到着後、Birch氏はSultanに対し、課税に関するOrderに署名するよう再度求めた。Sultanは拒否したが、多くの小さな譲歩を行う意志があることは表明した。事態は今や行き詰まりに達した。

出典:”A   History of The Peninsular Malays with Chapters on Selangor and Perak” (Kelly and Walsh, 1923)

最後までご覧いただき、ありがとうございます。

つづきは次回とします。

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