【番外連載】限界だらけの地球世界2

番外編
筆 者
筆 者

この連載記事は、筆者が別のメディアで投稿している「School of Limitations」というタイトルのブログ記事を転載し、マレーシアファンの皆さんにも参考にしていただくことを目的としています。面白いと思ったら、続けて読んでいただけるとありがたいです。

今から四半世紀(25年)以上前の話です。筆者が当時持っていた「常識」が吹き飛んでしまうような事件に巻き込まれました。

筆者(無禄)は、日本の技術力を活かし、海外の新興国で産業設備の設計や建設を手がける企業に勤めていました。当時、私の所属していた企業は、産油国の重油を原料とする石油化学製品(主にガソリンやジェット燃料)を精製する設備の設計・建設に強みを持っていました。

振り返れば、アメリカで発展した設計技術は、1960年代以降、日本の安い労働力を活用する形で日本にシェアを奪われ、「プラント輸出」という言葉が象徴するように、戦後の日本が外貨を稼ぐ一つの手段となっていました。

筆者が勤めていた企業は、1996年にマレーシアの石油元売り会社から石油精製プラントの設計・建設プロジェクトを受注し、大型製油所を建設するかたわら、マレーシアの国策である現地技術者の育成と技術移転を目指して、同国企業との共同企業体を設立しました。

典型的な大型石油精製プラント。筆者はこの手の建設工事に従事した。  image phohto by envato elements (all rights reserved)

筆者はプロジェクト遂行チームの一員としてマレーシアに長期滞在し、現地の技術者たちと共にプロジェクトの完成に向けて忙しい日々を送っていました。

当時、筆者が担当していたのは建設現場の資材管理で、数名の事務員と機械設備の輸送を専門とするスタッフを取りまとめ、管理していました。その中に「シュハイミ」(仮名)という事務員がいました。

官庁との接点

当時のマレーシアは、日本や欧米の商業慣習が通じないことが多く、39歳だった筆者が資材管理を担当する上で、現地の役所や行政機関との連絡役は必要不可欠でした。シュハイミはその交渉役として大いに力を発揮してくれました。

彼も30代であり、筆者とは同年代。同じ目的を持つ仲間として、彼とは非常に良好な協力関係を築いていました。

我々の顧客は、前述の通り、マレーシアの石油元売り会社で、当然ながら担当者はマレーシア人でした。マレーシア人との商取引が初めての経験だった筆者は、日々の折衝や交流で相手の機嫌を損ねないよう、非常に気を使っていました。そのため、シュハイミは信頼できる心強いパートナーでした。

多民族国家マレーシア

マレーシアは、インドネシア系の南洋の血を引くマレー人、中国の福建省出身の華人、そしてインド系移民が混在する多民族国家です。石油資源の利権は、政府を支えるマレー人が握っており、顧客の9割はマレー人でした。

古くから利権を持つマレー人は、移民として流入し、不利な条件で権利とビジネスを守ってきた中国人と比べ、少し甘えた気質があり、面倒な交渉や作業には消極的でした。しかし、シュハイミだけは違いました。彼は堂々としており、理路整然とした話しぶりで、ビジネスマンとしての見識も備えていました。

マレーシ人スタッフとともに働くのは、良い経験でした。 この画像はイメージです。 image by envato elements (all rights reserved)

私の管理下にあったグループは、1996年から1999年春までマレーシア国内の拠点でプロジェクトの一部業務を終えました。その後、私は日本へ帰国しました。

シュハイミをはじめ、他のメンバーとの別れは多少感傷的なものになりましたが、そこはビジネス。お互いの健闘を讃え合い、それぞれ次の仕事に移っていったのでした。

それから一年もたたない頃、筆者は、19年勤めた企業を退職して、家族とともにマレーシアへの移住を決意します。

そして、シュハイミというマレー人と再びマレーシアで遭遇することになるのです。その時、私は彼(シュハイミ)から、驚くべき事実を知らされたのです。

話は次の記事に続きます。

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