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ジョホールの来歴に関わる日本語のネット情報が、あまりにも情報不足なので、日本の徳川家の子孫との関わりも含め、重要な内容をまとめてみました。以下の年表から大まかな時系列を参照ください。
西暦 | マレーシア全般 | Melaka | Johor | Singapore |
1389 | (先住民) | (先住民) | Singapore発祥 | |
1402 | Melaka発祥 | |||
1511 | ポルトガルの侵略 | 皇族が逃げ込む | ||
1528 | Johor王国建国 | Johor国領土 | ||
1641 | 英領マレーシア | オランダに割譲 | オランダと同盟 | |
1786 | ペナン島租借 | |||
1819 | 英Singapore条約 | |||
1826 | 海峡植民地 | 海峡植民地 | 海峡植民地 | |
1885 | 英Johor条約 | |||
1910 | 英アドバイザ | 英アドバイザ就任 |
州名「ジョホール」の由来
「ジョホール」という地名は、この地域がシャムの北部住民によって「Gangganu」または「Ganggayu」(ガンガユ、宝庫)と呼ばれていたことに由来します。この「Ganggayu」 はアラビア語の「جَوْهَر (jauhar)」、ペルシャ語の「گوهر (gauhar)」から借用した言葉で、 ‘precious stone’ または ‘jewel’ を意味します。ジョホール川近くに宝石が豊富にあったためです。
当地の住民はアラビア語を現地の方言で発音するのは難しいと感じ、この名前は「ジョホール」に変わりました。
「ジョホール」はアラビア語の尊称としても知られており、「Darul Ta’zim」または「尊厳の住居」と呼ばれています。
古ジャワ語の歌では、この地域を「Ujong Medini」(土地の端)と呼んでいました。なぜなら、それはアジア大陸の最南端であるからです。
それとは別に、マルコ・ポーロが1292年にマレー半島の最南端である「Ujong Tanah」に航海したという史記も存在します。Ujong MediniとUjong Tanahの両方は、マラッカ・スルタン国の設立以前から言及されていました。この期間中、Galoh、Lenggiu、Wurawariなど、いくつかの他の名前も共存していました。
ポルトガルのマラッカ侵攻とジョホールの成立
ジョホール王国を設立したのは、Alauddin Riayat Shah 2世というマラッカ王Mahmud Shahの息子です。(マラッカが1511年にポルトガルに陥落した17年後の1528年、彼がジョホール・ラマに王宮を設立した)
ジョホールは、マレー半島南部、リアウ諸島(シンガポールを含む)、アナンバス諸島、タンベラン諸島、ナトゥナ諸島、南西ボルネオのサンバス川周辺地域、スマトラのシアクと、パハン、アル、チャンパといった同盟国を含む帝国となり、ポルトガルからマラッカを奪回することを志向しました。
そして、北スマトラのアチェ王国も同様の野心を抱いていたため、三つ巴の戦争を引き起こしました。
戦争の間、ジョホールの行政首都は軍事戦略に基づいて何度か移動し、地域の貿易に対する権限を維持。ジョホールとポルトガルは、共通の敵と見なしたアチェに対抗するために協力し始めました。
1582年にポルトガルはジョホールをアチェからの攻撃から守るのを助けましたが、この協定はジョホールが1587年にポルトガルを攻撃したときに終了しました。アチェはポルトガルに対する攻撃を続けたが、ポルトガル領インドのゴア港からの大規模な艦隊が参戦し、マラッカを守った。
アチェが弱体化した後、オランダ東インド会社(VOC)が到着し、ジョホールはマラッカの2度目の占拠(1641年)でポルトガルを排除するために彼らと同盟を結成しました。
マラッカがオランダに占拠された際、ジョホールは、スマトラのシアク(1662年)やインドラギリ(1669年)など、多くの領地権を取り戻しました。(アチェに占拠されていた)
これ以降、戦乱は治っていますが、ブギス族がオランダの海上貿易を脅かし始めていることが問題でした。
ベンダハラ王朝
マラッカの子孫の王朝は、マフムード2世の死まで続き、その後はベンダハラ王朝が継承しました。(ベンダハラ王朝は、以前マラッカ王国に仕えていた大臣達による王朝)
18世紀になると、オランダは英国の脅威を感じるようになります。特に英国東インド会社がマレー半島北部に進出し始めたときに、オランダはリアウのブギス地域を占拠し、リアウとセランゴールのブギスを追放し、これらの地域が英国の支配下に入らないように抑止しました。
これにより、ジョホール・パハン・リアウ帝国におけるブギスの政治支配は終わり、ブギスは1784年にリアウから追放されました。
ブギスとオランダの対立の間に、マフムード・シャー3世はHNLMSウトレヒト号の船上でVOCとの保護条約を結び、オランダの保護のもとでリアウに滞在することが許されました。
スルタンの後継者争い
マフムード・シャー3世の死後、スルタンは庶民の母親から2人の息子をもうけました。
年長の息子フセイン・シャーはマレー社会から支持され、年少の息子アブドゥル・ラフマーン・ムアッザム・シャーはブギス社会から支持されました。
1818年、オランダはジョホール王国領土の「リアウ」に貿易拠点を設立するために、年少の息子アブドゥルをジョホールの正統な後継者と認識、
翌1819年、イギリス(ラッフルズ)は同じジョホール領土のシンガポールに貿易拠点を設立するため、フセイン・シャーをジョホールの正統な後継者と認識しました。
(シンガポールの歴史資料により、当時の正統なジョホール後継はフセイン・シャーではなくフセインは流刑になっていた状態を徐ホール内の有力者やラッフルズに救われ、シンガポールと東インド会社の条約のためだけにジョホール王の肩書を持ったと伝えられている。)
鬼才スルタン「ダエン・イブラヒム」の継承戦略
ブギス族とマレー族の争いによるジョホール帝国の分断があり、また、1824年の英蘭条約による英国とオランダの領土交換・割譲合意が行われます。
これに伴い、アブドゥルの世継ぎでるダエン・イブラヒムは彼の新王朝の下でジョホール国の新たな行政中心を作ろうとしました。
彼はイギリスと緊密な交渉を続け、イギリスはシンガポールの完全支配権を持ちたかったため、ダエン・イブラヒムと(フセイン・シャーの後継者である)アリ・イスカンダルとの間の条約締結を演出します。そして、フセイン側の「アリ」が次のスルタンとして認識されます。
この条約により、アリはスルタンとして戴冠し、$5000(スペインドル)と月額$500の手当を受け取り、これを対価として、ジョホールの領土の主権はダエン・イブラヒムに譲渡されました。
英蘭条約前 | 英蘭条約後 | |
ジョホールの王位 | フセインとアブドゥルの混在 (フセインはシンガポール側) | アリ(フセイン側) |
ジョホールの管理主権 | フセイン | ダエン(アブドゥル側) |
シンガポール貿易権益 | イギリス | イギリス |
英ジョホール条約
ダエン・イブラヒムの統治時代にジョホールは近代化が始まり、その後も彼の息子であるアブバカルによって継続されました。
1885年、英ジョホール条約が締結され、英国とジョホールとの緊密な関係が正式に確立されました。この条約により、英国はスルタン国の領土を通行する権利を得て、外交関係の責任を負い、スルタン国に保護を提供することとされました。そして、この年にジョホールは現在の国境を形成しました。
アブ・バカルはまた、ジョホール州憲法として知られる「Undang-undang Tubuh Negeri Johor」を導入し、イギリス式の行政を組織しました。イギリス式の近代化政策を採用することで、ジョホールは他のマレー諸国とは異なり、一時的ではありましたが、イギリスの直接支配免れたのです。
浪費家スルタンと英国アドバイザー
アブラヒムの統治下で、イギリスは1910年にDouglas Graham Campbell をジョホール国のアドバイザーに任命しています。そしsて、この「アドバイザー」というポジションは、後の英国のマレー支配の窓口になっていきます。
あるとき、アブラヒムが浪費家であったため、ジョホール国の予算が逼迫し、王国議会とイブラヒムとの間に軋轢が生じます。これを機会に、イギリスは件の「アドバイザー」を介してジョホール王国に内政介入する機会を得ます。
アブラヒムは英国のアドバイザーの介入に抵抗しますが、1914年までに英国の「アドバイザー」の地位は連邦マレー諸国(FMS)全体に介入できるまで昇格していきます。
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この後のイギリスのマレー連邦全体への介入が強化され、1941年に日本軍がマレー半島とシンガポールを占領するまで、マレーの全ての王国はイギリスの管理下に置かれます。
徳川義親と日本軍の秘話
1920年代に、スルタンのイブラヒムは、尾張徳川家の19代当主である徳川義親(よしちか)とともに虎狩をしており、懇意にしていたという史実があります。戦前・戦中に強い関わりがありました。
1921年5月から7月にかけ、賀茂丸に乗船してマレー半島・ジャワ島を旅行。同年5月21日にシンガポールに到着した後、犀・象・野牛の狩猟許可を得るため6月上旬にジョホールのスルタン・イブラヒムに謁見、狩猟好きのスルタンに歓待されて共にムアルで虎を狩り、許可を受けてムアル川上流のブキット・ケポン周辺のジャングルで象・野牛を狩った
1929年にジャワで開催された第4回汎太平洋学術会議に40数名の科学者たちとともに出席し、帰途、長男・義知らと再びマレー半島を旅行。6月にジョホール王国を再訪してイスマイル皇太子に謁見、狩猟をし、同年7月にトレンガヌ州ケママンで南洋鉱業が開発していた太陽鉱山を視察するなどした後、同7月末に北野丸に乗船して帰国。
Wikipedia 「徳川義親」より抜粋
義親は日本の「軍政顧問」として、山下奉文将軍の部隊に同行しており、1942年1月末にジョホールバルに到達した際に、かつての友人であるイブラヒム国王に暖かく歓迎されました。
山下奉文将軍とその将校たちは、スルタンの宮殿であるイスタナ・ブキット・セレネと、州庁舎であるスルタン・イブラヒム・ビルディングに滞在し、シンガポールへの侵攻を計画しました。
一部の日本の将校は、宮殿の場所がイギリスに攻撃される可能性があると懸念しましたが、山下はイブラヒムもイギリスと親しい友人であるため、イギリスが攻撃しないと確信していたそうです。
英領マレーシアとシンガポール全域が日本に占領された後、義親は、ジョホール、トレンガヌ、ケランタン、クダ・ペナン、プリルスの5つの王国が復活し、連邦を形成するという改革計画を提案しています。
日本の東条英機は、スルタンに対して優越感を示すことを避け、スルタンが軍政(日本の軍事組織)と協力するために敬意を払うように政府スタッフに指示していました。
その後日本が大戦に敗北しますが、ジョホールに限って言えば、当時のスルタンと徳川義親の繋がりが、日本軍とジョホール国とに友好的な基盤となっていたことは特筆すべき史実です。日本語版のウイキペディア「ジョホール」にこの史実が書かれていないのは残念なことです。
戦後のジョホールと国民政党
1945年9月、ジョホールとマラヤは正式にイギリス軍政府の統治下に戻り、1946年4月1日にマラヤ連合が形成され、1957年8月31日にフェデレーション・オブ・マラヤの独立が宣言されるまで続きました。当時、3つの政治派閥が存在しました
プロイギリス派は英語教育を受けた華人とユーラシアンで占められ、左派のマレー民族主義者と協力し、「シンガポールを含む独立したマラヤ」を実現しようとしていました。
もう一つのプロイギリス派は、ストレイツ・チャイニーズ・ブリティッシュ・アソシエーション(SCBA)の下で英国植民地政府の下に留まり、英国統治時代に英国に対する忠誠に対する報酬と特権を保持しようとしていたババで構成されていました。
一方、人種連合体は、主要な統一マレー国民組織(UMNO)がマレーシアインディアン会議(MIC)とマレーシア華人協会(MCA)との連合で、人種と宗教の特権政策に基づく独立したマラヤを求め、1955年のマラヤ総選挙に勝利し、ジョホールバルはUMNO党の中心地となりました。
参考:古代「ガンガユ」と「コタ・グランギ」
紀元150年ごろのと推定される青銅の鈴が、ムアー川の近くで発見されました。この鈴は、貿易の対象ではなく、儀式用の物であったと考えられています。同様の飾りが施された儀式用の鈴がカンボジアでも見つかっため、この鈴がマレー半島以外のアジアの初期王国からマレー半島の地元の酋長に贈られたものであると考えらます。
もう一つ考古学的発見は、古代の失われた都市、コタ・ゲランギ(英国のスタンフォード・ラッフルズが所有していた古いマレーの手稿から発見に繋がった古代都市)です。
古代から、マレー半島沿岸には独自の支配者がいましたが、すべてがシャムの管轄下にありました。
コタ・ゲランギの所在は、ジョホール州政府によって争われており、正確な場所はまだ非公開ですが、マレー年代記によれば、シャムのナコーン・シー・タンマラート王国(リゴール王国)のスリン王が「Ganggayu」(ガンガユ)に向かった場所にあるとされています。
参考:日本のプランテーション
1910年代以降、日本のプランテーション経営者は、英日同盟の結果、ジョホールで数多くの農園や鉱物資源の採掘に関与していました。
第一次世界大戦後、マラヤのゴム栽培は主に日本企業によって制御されていました。1919年に「ゴムランド規制法」が廃止された後、南洋ゴム株式会社(Gomu Nanyo Company、South Seas Rubber Co. Ltd.)がジョホールの内陸部でゴムの栽培を始めました。
参考:徳川義親
徳川義親(とくがわ よしちか、1886年 – 1976年)は、日本の政治家、植物学者、狩猟家。尾張徳川家第19代当主。戦前の貴族院議員で、第25軍軍政顧問。
戦後は社会党を支援して党顧問となるが、公職追放を受けた。日ソ交流協会会長。戦前マレー半島で虎狩りをしたことから虎狩りの殿様として親しまれた。自伝に『最後の殿様』がある。
尾張徳川家とは、徳川家康の直系男子が祖先の徳川御三家の筆頭。
英領マレーシアとシンガポール全域が日本に占領された後、義親は、ジョホール、トレンガヌ、ケランタン、クダ・ペナン、プリルスの5つの王国が復活し、連邦を形成するという改革計画を提案しています。
この計画では、ジョホールがペラク、スランゴール、ネゲリ・センビラン、マラッカを支配し、ジョホールの南部の2100平方キロメートルの地域が防衛のためにシンガポールに組み込まれる提案でした。
最後まで参照いただき、ありがとうございまっす。
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