企業臨死体験 馬国編08

自営業主

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半年にも満たないY社のコンサルティング業務はあっという間に終盤を迎え、いよいよ大型ごみ処理施設建設プロジェクトの入札期日が迫ってきた。

入札期日の1か月前から、Y社と私の契約が解除されることは承知していた。継続してこのプロジェクトで働くなら、設備の設計と建設工事を落札した企業と交渉するよう促されていた。

入札期日以降は日本企業を含む応札企業の書類がY社に入ってくるので、私はその場に居ないほうがよかろうという配慮だった。

私自身は、数か月後に決定されるプロジェクト遂行事業体(海外では「コントラクター」という表現を使う)が判明するまで大人しく待機しているつもりだった。入札結果が決着した段階で政府からプロジェクトを受注したコントラクターに自社のサービスを売り込みに行くつもりだったのだ。

乗り込んできた日本企業

件のゴミ処理設備のプロジェクトに応札した日系企業群には、日本の自治体向け焼却炉の実績を持つ準大手のV社(仮名)が含まれていた、V社以外にも、既にシンガポールで実績をあげていたW社(仮名)と、やはり日本国内で実績を上げていたX社(仮名)も応札していた。何れの企業もゴミ焼却技術では定評があった。

当時から日本のゴミ焼却技術は世界的に注目されていた。 写真はイメージ素材です。  image photo by envato lements. all rights reserved.

このうちV社だけは入札期日の少し前から10名ほどの団体をクアラルンプール(KL)市内に送り込んできて、精力的に営業活動を展開していた。

産業設備のプロジェクトを行う業界は、比較的狭い業界である。KLに入ってきたV社のメンバーには私の知人が居た。V社は、私が以前勤めていた企業を退職した熟練技術者4名をプロジェクト遂行のための専門職として雇用していた。しかもそのうちの3名は、5年前にペトロナスの製油所建設プロジェクトで馬国内のプロジェクトオフィスに同席していた面だった。

V社には東南アジアの公共事業にめっぽう詳しい営業部長(K氏)がいた。この人は事業の先読みに長けていて、KL市の環境設備のプロジェクトには過去数年以内に産業プラント系のプロジェクトを実際に完成させた経験がある技術者を採用することでマレーシア政府の評価を得やすいと判断していた。

そして、石油ガス分野のプロジェクト需要が冷え込んでいた当時、次の需要は「環境設備」だと予想していた技術者達は、V社のように環境系プロジェクトを得意とする企業への転職を選んでいた。

以前は同じ企業で働いた人間である、面会したり、食事に出かけるような付き合いが自然に始まった。彼らの紹介でV社の首脳陣にも会うことができた。

こういった幸運が続き、私はプロジェクトを受注する企業グループが確定するまで、このV社の応札チームをサポートすることになった。

V社の競争相手であるW社とX社については、まだKL市内で目立った活動はしていない様子で、私自身も全く人脈を持っていなかった。最終的にV社がプロジェクトを受注できない場合は、Y社から紹介状をもらって受注した企業にあらためて交渉に行けばよい。

フリーランスの強み

私は、どの企業グループにも属さないフリーランスの人間だった。だから、自由に転身できた。例えばV社の社員なら、運悪く受注できなかったからといって、W社やX社に転籍するなどというわけにはいかない。彼らはれっきとしたV社の社員であり、V社の専門技術者だ。私の場合は、単なる現地採用のスタッフ(つまりローカルスタッフ)という位置付けなので、日本の業界ルールの範囲外で自由に泳ぎ回ることができたのだ。

かくして私は、Y社から離れて数週間もしないうちにV社のサポートを引き受けるサービス会社として期間限定で採用された。過去に日本企業の一員としてペトロナス案件で働いていた実績と、直近3年のマレーシア国内での自営業経験も一定の評価を得た。

私が政府側のコンサルであるY社で働いていたといっても、単なる現地の雑務を担当した要員だったという位置付けで、V社に雇われることは何ら問題ではなかった。むしろ、マレーシア人を雇用している私の会社を起用することで、少しでもマレーシア国民への収益の分配が実現するということは、V社が馬国政府に対してアピールできるポイントとなった。

日系企業からすれば、私は単なる現地人の「御用聞き」である。関係を切りたければ、いつでも切って捨てられる。私の個人事業との契約も、複雑な契約内容を膝ずめで交渉するような手間は不要で、日本人同士の信頼感を基盤にアルバイトと雇用主といった手軽で簡素な関係で仕事ができた。

フリーランスで日本企業の支援サービスをしていた頃の私はこんな感じ。写真がイメージ素材です。 image photo by envato elements with all rights reserved.

最初の契約は入札結果が出るまでの時限的なサービス契約で、私は短期的なサポートとして運転手付きの車の手配、日本語が堪能なマレーシア人通訳、そして国内の公共事業の経験があるマレーシア人エンジニアを派遣することになった。V社は私の会社一社と契約するだけで、面倒な現地人の雇用や、レンタカー、ドライバーの採用の手間を省けた。

支援するV社のチームは、まだ少人数である。当時の私の事業規模にちょうど良い仕事だった。(当時の収入規模や従業員数に適していた)

現地採用の生活水準

大型建設プロジェクトに取り組む日本企業の支援サービスを受注したのだから、さぞかし儲かったであろうと読者は思われるだろう。しかし、現実はそんなものではない。

現地採用というのは、現地に住んでいるというだけではない。報酬レベルも現地レベルでなければ採用されはしないのだ。

事業規模が数百億円を超えるプロジェクト組織のサポートをしていても、私のように個人で現地採用される人間の当時の時給はせいぜい時間当たりRM50~60であり、月収にすれば良くてRM9000前後である。所得税を引けばRM7000程度が手取り額であり、これは日本円なら21万円にしかならない。それでも、仕事が無いことと比べれば天と地の違いがある。

この地に長く住んでいれば、食材でも学費でも切り詰めて生活する習慣は身に付くものだ。日本から出張してきている人員のようにホテルで高価な食事を取ったり、日本食のレストランに通い詰めるようなことはしない。家族も現地の生活に慣れていて、街中を動き回るのにバスもタクシーも必要なく、自前の中古のスクーター自家用車で動き回っていた。

生活費は本当に安く済んでいた。自家用車は日本を離れた瞬間に現地で中古車を購入済みであり、ガソリン代は日本の半額以下だったから、交通費も負担にはならない。

所得税の問題もある。マレーシアの所得税は累進課税であり、額面でRM8000を超える月収から上に行けば行くほど税率が高い。あれこれとバランスを考えると、自分への給与は高くてもRM10000程度にしておかないと、税率が給与額の25%以上に上昇し、所得税のために仕事をしているような生活になってしまうのだ。この辺りは、この国に「移住」して、現地の税法にどっぷり浸かって仕事をしてみないとわからない。

そして、現地での給与レベルの管理をうまくすることは、日本企業から見ると「安い」という評価に繋がったのだ。

つづく

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