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個人事業で「再起不能」の大失敗を犯した私を、文字通り「助けた」人間がふたりいることを前回お話しした。
結局のところ、助けられるために必要だったのは現金に他ならないが、ふたりの馬国人は、私に対して惜しげもなく必要な現金を出してくれた。見返りは当然要求されたが、当時の私にとって難しい要求ではなかった。
ひとりめのリュウ氏は、私が日本企業に勤めていた経験を買ってくれたが、彼の関心は次第にチベット仏教に引き寄せられ、ついにはチベットに赴いて本物のダライ・ラマに会いに行った。そのことも原因で私は思想的にもビジネス的にも彼から離れることになった。
今回お話しするのは、二人目の馬国人だ。
客家の血族
ふたりめの「助け人」はビンセント(仮名。通称BY)という20名ほどの商社の社長(Managing Director)で、年齢は40歳後半の華人起業家だった。
詳しい話は、2023年に記事としてアップしてある。
この会社の当時の年商は2千万ドル(20億円)以上、ビンセントの個人資産は円換算で4億規模。日本の大手企業相手に世界の有名ブランドの産業用資材(電材)を売りまくっていた。
親から事業を引き継いだのではなく、ひとりで「スクラッチから」会社を起こした男で、誰が見ても間違いなく「商売の天才」だった。そして、彼は華人の中でもひときわ才気溢れる、「客家族」の末裔(直系の子孫)だった。
客家については、このブログでも何度も取り上げてきた。最近紹介したテレサ・コク(郭素沁)、シンガポールの初代首相のリー・クアン・ユ(李光耀)、馬国一の富豪として知られるタンスリ・ロバート・クオク(郭鶴年)、そして19世紀のクアラルンプールを開拓したヤップ・ア・ライ(葉亞來)、同じく19世紀の英領ビルマでタイガー・バーム(萬金油)を開発した胡子欽(コ・タイシ)、現代の中華民国(台湾)の李登輝(リ・トウキ)や蔡英文(さい・えいぶん)は皆客家の血筋である。
思うに、馬国や東南アジアでビジネスを考えるなら、何よりもまず本社を置く都市で現役で活躍している客家の関係者を探すべきだろう。その人間に会えれば懇談してご当地のビジネス戦略の話を聞くべきだし、彼(女)らの見識で、自分が商売やリーダーに向いているかどうか意見を聞いてみるとよい。
私が遭遇したトップクラスの客家系華人は、ビンセント(仮名)だった。そして、彼は本物の天才だった。(この記事をアップしている2024年現在、彼は既に隠居してマレーシア奥地でひっそり暮らしている)
私は企業に在籍していた時点で、彼の事業と関わりがあったから、彼の誠実で俊敏な仕事ぶりに接することで、次第に他の先進国企業の重鎮と同様に信頼を置くようになっていた。
だから、私が起業するにあたって、最初にコンタクトした7人の馬国人にビンセントも含まれていた。当時、彼は企業を辞めた私の挙動に驚き、「真偽を確かめたいので、一度会うだけは会おう」といった返事をくれた。しかし、私の起業当初は1時間程度面談しただけで、全く具体的な話にならなかった。
後に聞いたのだが、当時の彼の脳裏にあったのは、私(筆者)に対する強い疑念だった。
「なんという愚かな日本人か!日本の有名企業を自己都合で退職して、こともあろうに、なんの財政的バックアップも無しにクアラルンプールで個人事業をはじめたとは・・・何を話して良いかわからない。しばらく様子を見ることぐらいしか考えつかない・・・トラブルが起きないと良いが・・・」
彼が予想した通り、私の個人事業は「トラブル」に陥った。
見た目を裏切る天才的商才
ビンセントと初めて遭遇した外国人やマレーシア人は、ほぼ100%彼に対して強い印象を持たなかった。その風貌・容姿は日本で言えば、背が低く痩せてひ弱な中高生だったからだ。彼をひと目見て、これが年商20億円の中小企業の社長だと言い当てられる人はいなかった。
ところが、彼は世界でも有数の産業資材メーカーの重役や、名だたる多国籍企業などの需要家の幹部から一目置かれていた。彼と話し込んだ商人達は、次第に彼の知見と話術とアイデアに引き込まれていった。彼は、取引して意味があると決めた人間に対しては、あらゆる方法で懐柔していった。
初対面では取るに足らない少年のような人物が、実は類稀(たぐいまれ)な天才商人であるとわかると、誰でも彼を自分の「知人」として喜んで意思疎通を続ける様になる。そうなると、もう彼の会社の規模や知名度はあまり関係が無い。多くの顧客は、彼の会社ではなく、彼と取引をしてみたいと思うようになっていた。
顧客のオフィスを訪問する時には、ちょっとしたお土産を持っていく。まだ喫煙大国だった日本の顧客には、常にタバコをカートンで持参して渡していた。もちろん免税店で購入する洋酒も持っていった。洋酒を持っていくのは顧客の重役クラスとの面談の場合だ。
彼は昼夜を問わず客先や協力会社と会食を続けていた。一人で食べたり、自社の社員だけと食事をすることはほとんど無かった。海外の顧客オフィスにアポイントを入れる場合でも、必ず昼食か夕食の約束をするのが彼の流儀で、客先から会食を断られる時には、何故断るのか異常なほど考え込んでいた。
私自身も、彼の会社からの会食の誘いを拒否したり断ったりする日本の企業やビジネスマンの心情や心理についてことこまかく質問された。
私が彼に助けられたのは、2004年から2006年まで数年で、当時はコンプライアンスの意識が低かったため、届け物や接待に関する問題意識が薄く、接待を断ることは、何か重大な問題で、取引を敬遠されていると感じていたのだ。
信頼から傾倒へ
ビンセントの商社は、国内外から広く商品を買い付けて、これらの商品を海外の有力企業に売りつけてアフターサービスや情報提供を続けていた。扱う商品は産業用の電線(動力用の電源ケーブルや電子機器のための接続線等々、あらゆる用途)、スイッチ類(家庭用ではなく工場や大規模な装置に使うもの)、産業用の照明と付帯設備、産業設備の配電盤や端子箱、産業用のアウトレット(コンセントの産業版)、それらの付属品や交換部品である。取り扱う商品は全て電気エネルギーを扱うものだった。
衣食住で言えば、シャネルやルイヴィトンのような高級ブランドの商品を専門的に取り扱っていたから、商品の製造元はドイツ、イギリス、フランス、日本、中国、そして世界の有名ブランドがマレーシアに展開している製造設備だった。
彼が中小の商社として売り上げるためには、単にメーカーから買い付けた商品をストックして需要家に売りつけるのではなく、メーカーがやりたがらない細かな作業を出来るだけ多く引き受けて、メーカー側もたすかるし、需要家も助かるサービスを展開することだった。
見積書の提出時には技術的な質疑応答にも答えられるように技術者を雇っていたし、産業用の商品に不可欠な取説(とりせつ)や設計図書の提出、図面などの客先承認ために客先の手順に対応する作業、商品の納入までの需要家との意思疎通、そして納品直後からのアフターサービスや品質保証だ。頻繁に必要になる予備品は常時ストックしていて、客先が要求したら即時に発送して客先を助けたのだ。こういったすばしこいサービスは、重厚長大なメーカーの工場の組織では無理なのだ。
こういった「隙間を埋める」サービスを売り物にしている商社は、トレーダーというよりは、ディストリビューター(distributor)という呼び方をされたり、ワンストップサービスといった表現を使ったりする。
ワンストップサービス(one stop services) というのは、例えば、ある電力会社が発電所を建設する場合に、その発電所で必要になるあらゆる電気系統の資材を、世界に点在する多くのメーカーに発注する手間を一つの会社が引き受けて、ほとんど全部の納品を終わらせてしまうサービスであり、日本で言えば、「御用聞き」や「よろず屋」といった感じのサービスである。
産業設備を建設する様な需要家にしてみれば、人手がかかる細かな電子機器の買い付けを数社に限定して終わらせられるのは大変助かるので、品質的な信頼感を基盤に取引が進むうちに、次第にビンセントのサービス内容に需要家のビジネスが傾倒していくのだ。
彼のオフィスは、クアラルンプールで、マレーシア人の比較的低い時間単価で運用するから、日本などの買い手から見ると、それほどのコスト負担には見えない。その割には、あらゆるトラブルに対応してくれるし、日本に来た時には土産物も持ってくるわ、食事で美味いものをご馳走してもらえるわで、ビンセントの会社のファンになる需要家も多かったのだ。
稀代の努力家
ビンセントが常時相手にしていたのは、商品の供給側の国内外のメーカーが7〜8社(潜在的なサプライヤーを含めれば数十社)、顧客側の有力企業が 日本に6社有り、それ以外にマレーシア国内の大手企業群に対応していた。全ての意思疎通は究極的には社長であるビンセントが責任を取るわけだから、ビジネスの日常は目まぐるしかった。
彼は、メーカーや需要側の企業との意思疎通を7〜8人の担当エンジニア(売り子)と4名の管理職を使って切り盛りしていた。担当エンジニアはそれぞれ担当する顧客の窓口と毎日やり取りを続けて、問題があればビンセントや管理職と相談する役目である。管理職は、重要なメーカーのマネジメントクラスとの商談、社内の事務管理、経理部長などに区分されていて、一人として余分なスタッフはいなかったし、全員が忙しく動き回っていた。倉庫番や受付嬢、資材の配送役などのスタッフも含めて、ほぼ20名の陣容だった。
それでも、一番忙しいのはビンセント本人だった。彼は常にトラブル対応に追われて、最後の最後に金で解決する決断をする役回りだが、通常のビジネス以外にも、マレーシアの税務署や役人との様々な調整など、本業以外の厄介な人間関係を全部処理していた。
エクスパトリエイトの採用
外国企業との複雑なトラブルも頻繁に発生した。彼は、持ち前の意思疎通力でこれらを解決していたが、年商二千万ドルレベルになると流石マレーシアの幹部数名では太刀打ちできなくなってくる。そこで、ビンセントは絶対に裏切らない外国人(エクスパトリエイト)を2名雇うことにした。
一人はマレーシア在住の韓国人のキムであり、彼は、以前は韓国の大手建設会社に所属していた技術者で、もう一人が日本人の私(筆者)だったのである。
ビンセントと私の取引は次回お話しする。
つづく