【馬国】 19世紀ペラ州の歴史(13)最終回

馬国

アイキャッチ画像はペラ川を棹で遡る英国遠征隊の水兵と海兵隊員、1879年に英国で発行されたイラストである。ペラ戦争時の英国部隊のゲリラ戦の記憶を絵にしている。

バーチ監督官は暗殺される間際に「命は惜しくない」と言い残している。当時のバーチ氏の心境はウィルキンソンの著作にある通り、ペラ地域の住民への住民に徹底した圧力を加えて制圧するという基本路線であり、公式な意思疎通の相手は新スルタンとして指名されたラジャ・アブドゥラひとりに限定していた。

バーチ氏は、自分の死が英国軍と地元のマレー武装組織の戦争の発端になると予想していただろうか。いや、強力な英国軍を前にしてマレー人たちが本当に武装蜂起するはずがないと確信していたはずである。

ところが武装蜂起は起こってしまった。

ウィルキンソンは控えめな表現で書き残しているが、植民地政府とバーチ監督官の連携は万全ではなく、バーチ暗殺に至るタイミングでは「詰めの甘さ」が残った。

アブドゥラへの最終通告と同時に植民地総督のジェボワ卿とバーチが計画した英国軍の配備と、バーチによる住民への布告文(印刷物)の配布は、順番が逆になってしまった。バーチの楽観主義の末路でもある。バーチは英国軍が予定通り拠点に到着したことを確認してから布告文を配布しても遅くはなかったはずだ。

バーチの指示を受けた配下の通訳がマハラジャ・レラが支配する村で布告文を貼り出していた時、バーチ本人は川辺でのんびりと沐浴をしていたし、バーチの護衛についていたアボット中尉(英国軍)は持ち場を離れていたのだ。

ペラ戦争

バーチ暗殺の知らせと軍事介入の要請は、11月5日に海峡植民地政府に届いた。海峡植民地政府はペラ州での反英勢力の蜂起を予見し、ただちに英領インド政府に1,500名規模の兵力派遣を要請した。これに応じたイギリス領インド政府は、直ちにシンガポール、香港、ビルマに展開していた部隊をペラ州に進軍させた。英国海軍もこれに呼応し、軍艦をペラ川沖に移動させた。

戦争の詳細はWikipediaの「ペラ戦争」を参照していただきたい。(ネット環境で入手できる資料を集約して筆者自身が投稿した記事)

1876年3月には終戦が宣言され、抵抗していたスルタンや首長たちも敗戦を認めた。バーチ殺害を首謀したMaharaja Lela(1876年7月に降伏)とDato’ Sagorは、1877年1月20日に絞首刑に処された。パンコール条約でスルタンに推挙されたラジャ・アブドゥラとラルートの行政を任されていたエンガ・イブラヒムはセイシェル諸島に追放された。こうして鉱物資源が豊富なペラ州全体がイギリスの支配下に置かれることになった。

マレー人社会には、この戦争でペラの国と富を武力で奪われたという記憶が残っており、イギリス軍に対する抵抗勢力を功労者とみなす人々も少なくない。バーチが殺害された場所には追悼の記念碑が残っているが、現地住民にとってはこの歴史は侵略の記録でもある。

これでペラ州が大英帝国の支配下に置かれたと言っても、当時のペラ州の財政は完全に破綻しており、資源開発どころではない混沌の極みにあった。バーチ暗殺時点で既に破綻していたペラ州の財政は、暗殺後のペラ戦争とその後の地域の防衛強化の費用でさらなる負債を抱えた。バーチの後継として派遣された監督官は絶望的な環境を目の当たりにして、ごく短期間で辞任した。

ウィルキンソンは著書の中で次のように記している。

ペラ戦争は、英国軍による断続的な討伐遠征と、前Sultan Ismail、Maharaja Lela、Dato’ Sagorなど、姿をくらました首長たちの追跡をめぐる史実であるが、最終的には全員捕らえられた。討伐作戦の詳細はゲリラ戦に興味を持つ研究者に委ねることとするが、この一連の戦いによってもたらされた成果は皆無であった。

出典:”A History of The Peninsular Malays with Chapters on Selangor and Perak” (Kelly and Walsh, 1923)

偉大なるヒュー・ロウ

ウィルキンソンの著作から次の一文を引用して解説を終える。

1877年初頭、後にSir Hugh Low(サー・ヒュー・ロー)となるHugh Low(ヒュー・ロー)が、ペラの監督官として赴任した。ペラ州の繁栄を実質的にもたらした人物であり、間接的にではあるが、他のマレー諸州にも繁栄をもたらした人物であった。この偉大な駐在官の政策は、健全な行政の模範として、きわめて注意深く研究するに値する。しかしこの人物は、英領マラヤについて著述を残した人々からは十分な評価を得てこなかった。

Sir Hugh Lowが直面したのは、バーチが抱えていた歳入上の困難に加え、戦争によって生じた多額の負債、軍隊に代えて、費用のかかる警察組織を整備する必要性、そして多くの反抗的な指導者を抱えた不満の強い住民たちであった。彼の置かれた状況は、ほとんど絶望的に見えた。

彼はまず、「民衆を威圧することによって統治しようとする試みは、ほかの理由を別にしても、財政的な観点だけから見ても健全ではない」ということを基本原則として掲げた。

彼は、現地の村長たちに警察業務を担わせ、多くの村から警察署を撤廃することによって、警察にかかる費用を削減した。そして、首長たちを地方の責任者として任命し、それぞれの管轄地域で彼らが徴収した政府諸税の相当な割合を彼らに与えることによって、首長たちの封建的な収入をめぐる問題を解決した。

それまで国家が住民に対して有していた、明確な範囲の定められていない強制労働を課す権利に代えて、一定額の土地税を導入することにより、州の歳入を増加させた。

彼は有力者からなる州評議会(State Council)を設置し、すべての重要な問題について族長らの意見を求めた。また、地方の首長を任命する前には、住民の意見も聞いた。

その結果、彼の統治のもと、数年のうちにペラ州の負債は解消され、1883年末までには債務奴隷制(debt-slavery)が廃止された。

その他の細部にも興味深い点が多い。たとえば、土地保有制度に耕作条項(cultivation-clauses)や建築条項(building-clauses)を導入したこと、水利権、森林、徴税請負制度(revenue farms)を取り扱う仕組み、さらには道路や鉄道の建設によって経済発展を促進する政策などである。

ペラ戦争によって、それ以前の時代を代表していた主要人物たちは、ことごとくペラから姿を消した。Maharaja LelaとDato’ Sagorは絞首刑に処された。Sultan Abdullah(スルタン・アブドゥラ)とその主要な従者たち、そしてMantri(エンガ・イブラヒム)も、セイシェル諸島へ追放された。パンコール条約以前にスルタンの地位にあったイスマイルも追放先のジョホールで逝去した。

それまでのマレー人自身を主体とした歴史は、彼らとともに終わった。

出典:”A History of The Peninsular Malays with Chapters on Selangor and Perak” (Kelly and Walsh, 1923)

写真は、1880年頃、ペラ州の財政を正常に導きつつあったヒュー・ロー監督官と現地のラジャ(皇太子)たちである。心なしか、なごやかな雰囲気ではある。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

このシリーズ(19世紀ペラ州の歴史)はこれにて終了です。

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