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葉亞來が率いる華人集団のKLは、1872年に絶対説明の危機に晒されます。
ことの発端は、王族の中の利権争いでしたから、華人集団はこのとばっちりを受けて、散々な目に遭っているわけです。この年、1872年、葉亞來は、大事な部下を多数殺され、土地を奪われ、商売と経済を奪われるという最悪の年でした。
しかし、このKLの陥落も、Sultanレベルの争いにおいては、いくつかのチェスのゲームの一戦で、惜しくも負けてしまった一戦でしかなかったのです。
葉亞來たちがどれだけ悔しい思いをしたか、想像を絶するものがあります。
Syed Mashhor軍による兵糧攻め
1872年5月下旬。葉亞來を裏切ったSutan Puasaが合流したSyed Mashhor軍と葉亞來・Van HagenによるKL軍の直接対決が始まりました。
Masshorの軍勢は多かったのですが、KL軍はよく戦いました。彼らはKLを2カ月死守したのです。
しかし、形勢は良くありません。敗戦の可能性を感じた葉亞來は、町の女性と子供を全員クラン地区に疎開させています。
1872年7月初頭に、Raja AsalとSyed Mashhorは長期化してきた紛争を終わらせるため、戦闘戦略を変更。Raja Asal が前線を離れて、クラン方面からKLに流れている物資と食料の補給路を止める作戦に出ました。
Mashhor部隊がKL軍と決着をつけられなくとも、KLへの補給路を断てば、KL軍は次第に疲弊するはずです。この計画は効果的でした。
日本の戦国時代にも採用された「兵糧攻め」ですな
1872年8月までに、Tungku Kudinが支配するクラン地区からの補給は途絶え、葉亞來・Van Hagenは深刻な供給不足に陥りました。Syed Mashhor、Raja Asal、Sutan Puasaたちが率いるの圧倒的な軍勢に対してKLを守れるのは僅かな兵力だけです。
総督 Kudin の援軍要請
Tungku Kudin はKLの攻防戦に対して、ただ傍観していたわけではありません。
時期は前後しますが、1871年12月、Tungku KudinはPahan地方(スルタン国)からセランゴールの反乱軍を鎮圧するための軍事支援の約束を取り付けていました。
しかし、これが実行に移されるにはマレーシア的に長い時間がかかっています。半年です。
1872年7月になって、ようやくPahan地方から1,000人の軍隊が、Rawangの北東50KmのPahan領Bentongに集結。
同年年8月初旬、Raja RasuとOrang Kaya of Chenor率いるPahag軍はUlu KlangにあるRaja Asalの砦を攻撃し始めています。
Raja Rasuの軍勢はRaja Asalの部隊によって止められましたが、Orang Kaya of ChenorはBatu Cave の南西、現在のMont Kiala の北のKepongに到達しました。
Pahang軍は、KLが兵糧攻めで、これ以上街を死守できない状態に追い詰められた丁度そのタイミングにSyed Mashhor 軍を圧迫し始めたのです。
まさに、ぎりぎりのタイミング・・・あるいは若干遅いタイミングだったようです。
Van Hagen の敗走から自滅へ
Pahang軍はKLで包囲された正規軍と連絡を取り、町を維持できない場合はKepongに撤退するよう連絡します。
この時、Van HagenはPahang軍からのメッセージを受け取ることができなかったか、あるいは信用しなかったと伝承されています。
Van Hagenはインド人兵士と下士官たちだけを連れて出発し、Kepongには行かずに、そのの南のDamansaraを通ってKlang地域の海岸へ抜ける道を選びます。つまり、KLを諦めてKlangに撤退したのです。
しかし、葉亞來とその部下たちは、この時点ではKLに取り残された状態になります。
現地の地理に疎いVan Hagenの部隊は、華人を同行させずに移動したため、間違ったルートを進み、敵軍の待ち伏せに遭います。罠にかかったことに気づいたVan Hagenは、激しい戦闘の中で多くの兵士を失いした。約40人の兵士だけがようやくジャングルを抜け出し、小グループに分かれてクランへと向ったようです。
Van Hagenと Cavalieri、残りの兵士たちは敵軍に降伏し、翌日Mashhorが侵略したKLに連行され処刑されたと伝えられています。
1872年 クアラルンプール陥落
葉亞來は、Mashhorの軍勢の大部分がVan Hagen部隊を追っていくのを見ると、部下たちに撤退の準備を命じました。いよいよKLの放棄と脱出を決めたのです。
彼らは、夜半にジャングルに入り、Damansara地区を目指し、そこから川を下ってボートでクランに向かう計画でした。このあたりの地理には詳しい葉亞來軍でした。
Van Hagen戦から戻ったMashhorはKLの守備兵が消えていると知ると、すぐに葉亞來軍の追撃に向かいます。
撤退軍は逃げきれず大きな損害を受けます。Damansaraに到達する頃には1,700人以上が殺害されてしまいました。
この敗北は葉亞來の生涯最悪の敗北でした。彼の側近の多くが殺されるか負傷していたのです。忠実で屈強な用心棒Tung Khoon と Teng Sam もここで絶命してしまいます。
生きながらえた葉亞來は、残った部下と共にTungku Kudinが支配するクランに向かい、そこで休養します。
KLはSyed Mashhor, Raja Asal, Sutan Puasaの手に落ちたのです。
KL奪還を誓う葉亞來
欧州人で固めた傭兵部隊が殲滅した今、生きながらえた葉亞來軍を迎えた総督Tungku Kudinは葉亞來の功労を労(ねぎら)うとともに、「もうKLの奪還は忘れてよい」と伝えます。さらに、Kudinは亞來の実力を評価し、Kedah国のひとつの領主の地位を与えるとまで言っています。(側近のFui Fattの手記)
こう言われた葉亞來の心中はどうだったでしょうか? 彼が命をかけて守ったKLも、総督にとっては、チェスのコマの一つでしかなかったと思うと、腑(はらわた)が煮えくりかえったのではないでしょうか?
葉亞來は、総督に感謝を述べますが、「KLを諦めることはしない」と答えます。事実、彼がKlangで休養を取ったのは、ほんの1か月程度であり、その後、鋭意Syed Mashhor 討伐のための準備を再開しています。
葉亞來がSyed Mashhor 軍との戦いで生き残っただけでも奇跡的です。
Sultan の名代のTungku Kudinが、「KLはもう諦めよう」と言ってもKLを捨てなかった「甲必丹」葉亞來の信念の強さには敬服します。
このとき、Kudinの言う通り、KLをあきらめてKedah地方に移動していたら、現在のKLはマレーシアの首都にはならなかったでしょうね!
次回は、「第4期KL戦」(KLの奪還)です。
最後まで参照いただき、ありがとうございます。
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