【馬国】 19世紀ペラ州の歴史(3)

馬国

アイキャッチ画像は Wikimedia Commons から19世紀の錫の採掘現場の一場面の写真を採用しました。この時期の華人労働者は苦力(クーリィ)と呼ばれマレーの封建社会では下層で苦労した労働者階級でしたが、人数が多く、徒党を組むと地域の豪族をも滅ぼせるほどの武力集団でもあったのです。

今回ご紹介するのは、19世紀のペラ州(現在のマレーシア)で繰り広げられた戦乱の時代のお話です。これらの出来事は日本語版ウィキペディアでも詳細に解説されていますが、このブログでは、公式な史実には記されない裏話や、そこに生きた実在の人物たちの心情に深く迫ってみたいと思います。

この時代の流れを理解する上で、以下のウィキペディア記事を参照することをおすすめします。

興味深い史実と人物

主要な史実(発生順)

ラルート戦争(1861-1874年)
ペラ州のラルート地域にあった錫(すず)の採掘現場で起きた、複数の華人集団による長期にわたる紛争。特に1871年以降は、ペラ州のスルタン(王)の継承争いと深く結びつき、代理戦争の様相を呈した。多数の死傷者が出ている。

パンコール条約(1874年
ラルート紛争とスルタンの継承問題を解決するため、イギリス植民地政府が地域の治安維持に本格的に介入した歴史的な条約。この条約によって、イギリス人監督官がスルタンの宮殿に常駐することが合意され、イギリスによるペラ州への影響力が決定的なものとなった。

ペラ戦争(1875-1876年)
パンコール条約締結後、イギリスがペラ州の奴隷制度や税金徴収の改革に踏み込んだことに対し、マレーの反英勢力が反発して起きた短期間の衝突。マレーの有力な領主の指示によってイギリス人監督官が暗殺されたことをきっかけに勃発した。

主要な人物

ラジャ・アブドゥラ(王族)英語版
スルタンの直系の子孫でありながら、気が弱く、スルタンの継承権をなかなか実現できずにいた。自身のスルタン位継承をイギリスに支援してもらう代わりに、イギリス人監督官の宮殿常駐と、イギリスによる地域の治安維持への積極的な関与を認めました。ラルートの錫の利権を下の領主に独占されるなど、政治的に不利な立場に置かれることもあった。

エンガ・イブラヒム(ラルート領主)
王族ではないが、辺境地域であったラルート地区の管理を引き受けたことで、錫の採掘による莫大な利権を手に入れた地域領主。ペラ州随一の富豪となり、ラジャ・アブドゥラの政治的なライバルとして大きな影響力を持った。パンコール条約の時期は34歳で上記のアブドゥラ(32歳)と同年代。

鄭景貴(テイ・ケイキ)英語版
イブラヒムの管理下で華人労働者階級から叩き上げで頭角を現し、地域の華人リーダーにまで上り詰めた富豪です。最終的にはイギリス政府と直接交渉するほどの名声を確立した。パンコール条約の時期には既に 47歳であり、マレー社会とは賢く距離を置きながら、華人社会で尊重される存在だった。

ジェームズ・バーチ
パンコール条約によってペラ州の宮殿に常駐することになった、初代のイギリス政府監督官。ペラ州内の奴隷制度や徴税制度の改革に積極的に介入しようとしたが、その強引なやり方が現地のマレー民族の上層部の強い反発を招き、最終的に暗殺されてしまう。享年49歳。

フランク・スウェッテンハム
パンコール条約が結ばれた当時、わずか24歳という若さで、イギリスとペラ州の要人との交渉を補佐した若手の文官でした。その後、27年間のキャリアを積み重ね、海峡植民地(現在のシンガポール、ペナン、マラッカなど)の総督にまで昇進した、イギリス植民地行政の英雄的存在です。

「パンコール条約」の真実

これらの史実や人物が交錯する中で、最も大きな転換点となったのが、1874年1月に結ばれたパンコール条約です。これは、当時の植民地政府の総督とペラ州のスルタン(王)、有力な領主たち、そして華人社会の黒幕たちが参加した停戦交渉が文書化されたものです。交渉の場は「パンコール・エンゲージメント」と呼ばれました。

この停戦交渉は、表面的には無法地帯と化し経済活動が停止していたペラ州の騒乱を鎮めたという意味では大成功と評価されました。しかし、その本質にはマレー人側に強い違和感を残したと言われています。

1874年までにペラ地域で積もり積もった様々な問題を、一気に解決しようとしたことに、かなりの無理があったようです。後日、この交渉に関わったフランク・スウェッテンハム自身が、この交渉が不完全であったことを独白する文章も残されています。

華人の驚異的競争力

19世紀のペラ州は、マレー半島最大の錫(すず)の産出地域でした。その採掘を主に担っていたのは、華人の資本家と労働者たちです。彼らは華人独自の相互依存型コミュニティによって統率され、実務と労務を効率的に行っていました。

「そんなに錫が採れるなら、なぜイギリスの植民地関係者は黙って見ていたのだろう? 鉱業においても世界トップクラスの技術を持っていたはずなのに。」と疑問に思うかもしれません。

実は、当時のマレー人と華人の見事な連携プレーついて、スウェッテンハムが克明に書き残しています。そこからは、イギリスの技術をもってしても及ばなかった理由が見えてきます。

錫の鉱脈を見つけるのはマレー系の「パワン」(シャーマン): イギリスは鉱脈探査において、マレーのシャーマンには敵いませんでした。ペラ地区では錫が出そうな場所が大体わかっており、パワンの予測が外れる確率は低く、極端に安く済んでいました

効果的な錫の採集には機械より「人海戦術」が最適だった: 大量の労働者を投入する人海戦術が、当時の採掘には最も効率的でした。ボーリングよりも露天掘りが効果的だったのです。

華人労働者の単価が低かった: 安価な労働力は、採掘コストを大幅に抑える要因となりました。

「前貸しシステム」による生活保障: 華人の資本家は、移民労働者に最低限の衣食住を前払いするシステムを確立していました。これにより、たとえ錫が出なくても、労働者はすぐに生活に困ることはありませんでした。

鉱脈を見つけるプロセスはこうです。まず、資本家となる商人が出資し、下請けの華人組織に簡単な穴掘りをさせます。これは成功報酬なので、何も出なければ報酬はゼロ。資本家は時間を無駄にするだけで、資産をほとんど失いません。損をするのは労働者だけですが、彼らには「前貸し」システムで生活が保障されていたため、たちまち困窮することはありませんでした。

失敗でなくとも、少量の錫が出れば、それだけで資本家は収益を得ました。作業の対価を華人組織に払っても、採れた錫を輸出すれば十分に利益になったのです。錫の輸出益は国際価格でしたから、労働者階級への支払いも、資本家の利益も回収できました。

19世紀のアジアで働いていた苦力( Coolies )の一例 ( wikimedia commons )

一方、イギリスの企業が採掘を始める場合、掘り始める段階で支配人、会計士、技師、精錬技師といった高給取りの人件費を負担しなければなりません。さらに、高価なボーリングマシン(穴掘り機械)を採掘場所まで運ぶ必要がありました。初期投資の金額が全く違う上に、鉱脈に当たる確率は、マレーのパワン方式とほとんど変わらなかったのです。

ラルートの悲劇

スウェッテンハムがラルートの紛争について書き残した記録の中には、たった1日の紛争で数千人が殺害されたという衝撃的な事例が含まれていました。なぜかくも大規模な華人同士の殺し合いに発展してしまったのでしょうか?

記録を読むと、「海山公司」と「義興公司」という二大派閥が、必ずしも華人の出身地の違いできっちり区分されていたわけではないようです。セランゴールでの華人の紛争も同様で、なぜか客家(ハッカ)出身の華人同士が衝突し、殺し合った例も記録されています。

史実では、赤と白に分かれた組織や集団の間の戦いのように表現されていますが、1873年あたりからのラルートは、もっと複雑な無法地帯に変貌していました。二つの組織の対立だけでなく、多くの単独チームが海賊となって主要な河川で人々を襲い略奪を繰り返すようになり、ついにはイギリスの船舶まで被害に遭うようになりました。

この時期のラルートは、世界でも有数の錫産出地でしたから、ここに投資していた華人商人は「掘って掘って掘りまくれ」と言わんばかりに、本国から労働者を集めたのでしょう。それが仇になったようです。つまり、これは鉱山バブルです。人が増えすぎて、バブルが弾けたのです。

19世紀のボルネオに移民した中国系労働者 (wikimedia common)

どの程度の人数が適正な労働力だったのか、それを計算できる人間はいなかったはずです。何しろ人をかければそれだけ錫が採れるのですから、関係者は後先構わず人とお金をつぎ込んだのでしょう。

エンガ・イブラヒムの運命

彼はラルートで最初の錫鉱脈を発見した人物の息子でした。その事実だけで、彼は自動的に巨万の富を手にする運命を背負って生まれたのです。

ペラ州の王族から見ると、ラルートはペラ川流域から外れた辺境地域だったため、スルタンや主要なペラ領主たちは昔からラルートに注目していませんでした。

しかし、なぜかスルタンに可愛がられたエンガ・イブラヒムは、スルタンからラルート一帯の土地利用権を一手に引き受け、その土地で産出した資源や作物の利権は全て彼のものとなりました。

彼自身が錫を採掘する必要はありませんでした。父親のロング・ジャアファーが契約したペナン在住の華人商人との取引が続く限り、収益の一部が彼に支払われるのですから、本人は遊んで暮らすことができたわけです。

19世紀マラヤの特権階級で生ていたマレー人の移動手段は象。エンガ・イブラヒムも遠方に旅する時は象とボートで移動していたようです。

しかし、あまりに大きな鉱脈と遭遇してしまったために、彼があぐらをかいていた封建構造の下層にある華人労働者集団がとめどなく大きくなり、土地の領主であるマレー人社会の人的勢力の数十倍から百倍に膨れ上がってしまいました。これでは多勢に無勢です。イブラヒムは現地の華人勢力に対して恐怖を感じていたはずです。

そして、肥大化した華人集団が本気で殺し合いを始めたのですから、大変です。彼としては、全く経験のない戦乱の現場での地域管理と安全保障など出来るはずもありません。結局、彼の選択は「逃亡」でした。スルタンから任された宝の山であるラルートから逃れて父親の郷里でもあったペナンに逃げたのです。まさに「好事魔多し」の典型と言えるでしょう。

次回から、当時の関係者の心情を深堀していきます。

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