本日から筆者の過去の馬国体験を詳しく紹介する記事を連載します。このお話は、企業人としての自分が「一旦死んで、また生き返った」体験です。
インセプション
1999年9月から2006年5月までの6年8か月、私は18年間勤めた大手企業を離れ、馬国(マレーシア)を拠点に個人事業を始めた。この体験記では、当時の私の愚かな思考と行動を綴っていこうと思う。
当初、私は企業の一員としてのビジネスと、個人企業のビジネスを「儲け仕事」として一蓮托生に捉えていた。数千人規模の大組織に隷属するよりも、全てを自分で決め、自らの収益を得る個人事業にこそ、大成の可能性があると考えていたのだ。
私が所属していた企業の売上は数千億円に達していたが、個人の事業で求める売上はその数千分の一で十分だと信じていた。数千人の中で準幹部として働いていた私が、独立して企業の数千分の一の売上を上げれば、個人の所得は50倍から100倍に跳ね上がる。それが可能だと考えていた。
私と妻は、性格が両極端な縁だったため、意見が衝突することが多かった。しかし、「企業を辞めて個人で起業する」という考えで意見が一致した時、私たちは「遂に来るべき時が来た」と感じていた。日本企業に隷属していた自分が、ようやく息を吹き返し、真の成功者として生き延びる時が来たと思えたのだ。
西洋には「nothing could be further from the truth」という格言がある。これは「まったくの見当違い」と訳されるが、原文の意味は「これほど真実からかけ離れた話は見当たらない」というものだ。事実は小説よりも奇抜である。私が信じていたアイデアは、20年近く積み上げた「企業人格」を殺してしまうものだった。まさに「下手な考え休むに似たり」だ。知らないことの恐ろしさを思い知らされる「臨死体験」の始まりであった。
クアラルンプールへ
18年間勤めたエンジニアリング企業の一員として、マレーシアに3年赴任していた私と家族は、異なる宗教や文化、道徳観が混ざりこんだこの国に徐々に慣れていった。馬国には、日本の社会とは異なる「危うい」解放感があり、微妙な不道徳感や不公平感が漂っていた。欧米人や日本人には目に見えない特別待遇がほのめかされ、非合法な額の料金を巻き上げられても、日本国内の正規料金よりも安かった。
比較的安価な賃貸契約で、天井が高くゆったりした洋風のアパートに住んでみると、日本に帰国した時に感じる「ウサギ小屋」と酷評される狭い住環境への強烈な不公平感が芽生える。物理的な制約の中で唯物的な満足を追求する30代の若い夫婦にとって、馬国は別天地のように映った。
企業人としての3年の海外赴任生活は、企業人夫婦のの生活感や価値観に新風を吹き込み、保守的な日本の人間関係や経済活動に対する違和感を植え付けた。馬国の気候は、日本で言われる「常夏」や「熱帯雨林気候」よりも「すごしやすくさっぱりした気候」で、慣れれば「暑い」のは当たり前で、不快ではなかった。
企業人としての仕事を終えた私たちは、日本に帰国した後、心のどこかで「いつかきっとあの町に戻り、自分が思うように生きてみたい」という思いを抱いていた。
日本に帰国して数か月もしないうちに、私が務めていた企業が創業以来の経営危機に陥った。会社は業績不振に伴う給与カットや希望退職制度をほのめかし始めた。私たち夫婦は近視眼的で、人生を60年から70年のスパンで考える智慧はなかった。両親の意見は耳に入らず、ただ自分たちが人生の後半を楽しむことだけが関心事だった。
そんな時、家族の間から「KLに戻ろう」という声が相次いだ。今回は企業の一部ではなく、家族単体として馬国に移住することが目的になった。
1999年春に帰国した私たちだったが、その年の夏には私が会社に辞表を提出し、9月中に退職手続きを終え、アパートの契約や個人事業の準備を整え、再びKLに渡航していた。
その年の年末、家族はKLのコンドミニアムの一室で馬国の生活に戻っていた。
つづく