企業臨死体験 馬国編10

自営業主

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1999年9月、私は18年勤めた大手企業を離れ、馬国(マレーシア)を拠点に個人事業を始めた。

当初、私は企業の一員としてのビジネスと、個人企業のビジネスを「儲け仕事」として一蓮托生に捉えていた。数千人規模の大組織に隷属するよりも、全てを自分で決め、自らの収益を得る個人事業にこそ、大成の可能性があると考えていたのだ。

それは、あまりに不用意で思慮の足りない発想に過ぎなかった。

2003年に私は、最初で最後の、そして最大のチャンスに恵まれた。そして、順風満帆の理想的なフリーランス人生の幕開けを実感した瞬間に、全てが崩れ去ってしまった。

この失敗の全ては前回お話しした。

人が人を見る目

いつの世でも、隣の庭は(自分のそれより)よく見える。

私が数名のマレーシア人とともに吹けば飛ぶような零細企業の全てを賭けて入り込んでいた国家事業は大きな日本企業が管理している磐石な事業だった。一方、客先である日本企業の正社員達から見れば、現地に根付いた自営業の社長という存在は、ある意味、羨望の眼で見られる。

「あの野郎。相当儲かっているんだろう」と思っても不思議はない。実のところ、ほとんど儲かっていないのだが、(会社のオーナーというだけで)儲かっているように見えてしまう。「見えないところで大儲けしてるに違いない。そうでなければ続かないはずだ」と思える。鵜の目鷹の目。

少しでもおかしな行動をすれば、即座に悪評が出回る。悪評の信憑性とは関係なく、おかしな行動をした異分子に対する違和感は瞬く間に増長する。「何でこんな人間がここで働いているのか?」という疑念を抱かれるようになる。和を重んじる日本文化を裏返せば、そこには根強い排他的集団意識がとぐろを巻いていた。

私が四苦八苦して立ち上げた法人機能は、客先から見れば「オモチャ」のレベルでしかなかった。KLや郊外の要所を隅々まで案内して周り、クリニックを紹介し、レクレーションのためのゴルフセットを立て替えて調達し、カラオケパブの女の子を幹部職の秘書に採用するために自社で雇って派遣してきた。私の現地の「よろずや」は、時間の経過とともに「余分」な「オモチャ会社」に成り下がってしまった。

それでも、きちんと代金を払ってくれるのが日本企業の良いところだ。最低限のリスペクトがある。しかし、玩具は玩具であり、必要がなければ、「不要品」として処分される運命にあった。

企業同士のビジネスであればそういうわけには行かない。仮に2社が対立することがあっても、お互いにきちんとした防衛手段を持っているから、一方が片方を「処分」するようなことは不可能だ。

零細企業には何の後ろ盾も無い、企業ではなく個人的な信頼関係だけが拠り所だ。切って捨てられればそれで関係が終わる。だから沢山の顧客を相手に手広く商売を広げないと、零細企業は続かない。客先を一つだけに絞るのは大きな間違いなのだ。

縁の切れ目

契約を解除されれば毎月の収入は無くなる。給与を払えない社長に仕(つか)える従業員などどこにもいない。環境プロジェクトから私の会社が離脱して数ヶ月も経過しないうちに、全ての従業員は別の仕事を見つけて離れていった。

終身雇用文化が存在しないマレーシアにおいて、彼らの転職は日常である。彼らは日本人の社長の下で、日本企業の仕事を経験できたことを誇りに思ってくれた。しかし、雇用関係が無くなった今、彼らはマレーシアの日常に帰っていったのだ。

仕事が一時的に無くなっても「けろり」として次の仕事を探せる明るい性格。 写真はイメージです。

エンジニアは日本企業とのプロジェクト経験を実績として、馬国の大手民族系建設会社に移籍した。通訳と秘書をしていた2名の女性のうち、一人は日本の大手自動車会社の現地法人に秘書として就職した。もう一人は、日本語が堪能なマレーシア人が創業した設計会社に就職した。この設計会社は日本の技術的ノウハウを武器に設立したもので、社長も立派なエンジニアである。手に職を持っているとはこのことだ。彼は大成して今でも実績をあげている。

アカウント担当だった女性も、マレーシアの軍属の男と再婚して離れていったし、もとからフリーランスであったマレー人の事務職の女性は、すぐに次のパトロンを見つけて忙しく働き始めていた。

マレーシア人たちの変わり身の早さには目を見張るものがあった。燃え尽きた抜け殻になって、心理的ダメージを受けていたのは私だけだった。

退職してフリーになることのリスク

日本のサラリーマン家庭で普通に育って普通に就職した人間が、在籍する企業を離れる時、大きく言って「転職」と「脱サラ」の2つの選択肢がある。

転職というのは、企業から企業への移動でしかない。だから個人としての経済的リスクは少なくて済むだろう。ただし、辞める前に積み上げてきた企業内部での信用を次の会社ですぐに得られるものではない。承認要求の強い人は、転職先の企業で落ち込んでしまうことが多いようだ。場合によっては、1年もしない間に、もとの会社に復職する。

脱サラした人間は、ほとんどの場合、自営業で失敗して退職金もろとも私財を失うことになる。場合によっては大きな借金を抱えて出口のない生活に落ちていく。ずる賢い人間は「夜逃げ」をして忽然と姿を消す。気の弱いタイプは最悪の場合、自らの生命を絶ってしまう。

写真はイメージ

結論はこうだ。「企業人は企業を辞めるべきではない。定年まで働き続けるべきだ。定年まで我慢して働きなさい。必ずそれは報われる。」ということだ。

私は、脱サラ組の起業家として4年近く動き回ったが、結局は日本に残してある持ち家を残して、私財を全て失ってしまった。今思うと、その時に外国人向けの賃貸(コンドミニアム)に住み続けてられていたことが不思議でならない。

失敗して従業員の移動が終わった頃。私は心理的に非常に危険な状態にあった。「夜逃げ」と「自死」という選択肢が頭を過(よぎ)っていた。自営業を続けようという意欲は死んでしまっていたのだ。

「夜逃げ」について実行に移すことは無かった。それをするにも金が必要だ。夜逃げという活動そのものは、ひとつの投資活動だし、その労力たるや並大抵ではない。

私が起業する数年前に、やはり日本人の建設系企業を脱サラした中堅ビジネスマンがKLで個人企業を営んでいたそうである。個人的には面識はないが、ある日系コンサル業の有識者から話を聞いた。この中堅起業家は、事業に失敗した瞬間にKLの事務所と住居から忽然と姿を消したそうだ。レンタル機材も含め、どこかに姿を消したのだ。関係していた人々はえらく迷惑を被ったという話で、日本人の間では「恥晒し」とみなされていた。

当時ミリオンセラーとなった『完全自殺マニュアル』も読んでみた。結果として、縊首(いしゅ)、つまり首をくくってしまうことが、選択肢として最も「苦しまない」という情報だけが印象に残った。しかし、私の場合、「人が死ぬと、その後どうなるのか」が気になり初めて、そちらの系統の本まで読み始めてしまっていた。だから縊首(いしゅ)を実行するには至らなかった。

企業人だった私の「企業人臨死体験」の暗部はこんなところだ。

つづく

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