企業臨死体験 馬国編11

自営業主

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ようやく課長クラスまで昇進した41歳の私が業績不振の日本の企業を退職して馬国(マレーシア)で個人事業を始めてから5年。最初で最大の下請け契約を突然失った私の会社は、日本円換算で1千万円弱の借金を抱えて事実上休業することになった。

起業当初の考えであったのだが、「馬国企業や会社の下請けで生計を建てる」路線は全くの見当違いだった。顧客を日系企業に絞って、馬国の会社や人間はむしろ下請けで使うというビジネスモデルが収益を伸ばした。しかし、それも束の間であり、やはり内部統制と自己成長を徹底して追求する日本企業の活動にほとんど身投げしていた私の会社は、荒波に翻弄される木の葉のようにあっけなく沈んでしまった。

前回のお話しはこちら

筆者がこの話を「臨死体験」と呼ぶからには、それなりの意図がなければならない。

いわゆる人間の肉体死に関する臨死体験を見聞きすると、地球上での人生を失った本人が他界するとともに、長い一生を走馬灯のようにふりかえる「ライフ・レビュー」という現象であったり、様々な見え方で出現する神仏レベルの存在に声をかけられる場面が多いようだ。

私の場合、日本企業を退職した瞬間には人生のライフ・レビューのような体験はしていない。むしろ、やっと自由になれた喜びといった身の程知らずの近視眼的な感情だったり、それとは裏腹に、発作的に湧き出る後悔の感情(終身雇用に近い厚遇の雇用主を捨てたことへの疑念)だけであった。

一方、神仏レベルの存在については、これは確かに、自分より優れた存在に救われたという場面があった。

日本人コミュニティー

馬国には、クアラルンプール(KL)やマラッカやイポーなどの市街地に日本人コミュニティーが存在するが、これらは基本的に「日本人クラブ」という団体がボランティアで運営していた。この集まりは、言ってみれば、日本の法人や個人がそれなりの登録費用を払って、日本人好みの福利厚生を共有するような活動だ。

企業に属していた頃、私はこのクラブの存在を会社の事務担当から伝え聞いていたが、単に登録費用が高いだけで特段のメリットは感じなかった。

個人事業になり、家族だけが日本であるフリーランスの日本人に転身してからというもの、この日本人クラブには大変お世話になった。このクラブの存在は、私の個人事業ライフにおいては欠かせない存在となっていった。

長男と家内が足繁く通った剣道クラブは、東南アジア一体の剣道文化の中で有数の実力があったし、日本人クラブの図書館には、日本語の書籍や雑誌が山ほど保管してあった。2000年から2006年まではビデオでの日本のテレビ番組の視聴が流行っていたから、このクラブにおいてある民放の娯楽番組は家族にとっては貴重な息抜きになった。

しかし、こういった日本人コミュニティーは、個々人の経済基盤がしっかり整った成人君子の集まりであり、まともに生計を立てられない経済的基盤が弱い人々が参加できる集まりではない。

まして、個人の事業が失敗して借金を抱えたネガティブな法人を助けるような昨日はここには無かった。だから、一文なしになった私たち家族も、日本人クラブを利用するような場面では、立派に生計を立てている長期滞在者の体裁を保ったままでいた。

主人である私は、日本人同士の付き合いにかかる費用は借金をしてでも、ここから捻出して家族に渡せるようにしなければならなかった。日本人としてのステータスや誇りは捨てたく無かったし、何より私の家族は日本人の文化から離脱することはできなかった。

助けびとの出現

馬国で「再起不能」となる大失敗を犯した私を、文字通り「助けた」人間がふたりいる。何も馬国人であり、起業家であった。

「助ける」と一口に言っても、家族のように一緒に住んだり、3度の食事を一緒に取るようなことは出来ない。文化が違いすぎる人間が共に生活してもあまり良いことはない。

結局のところ、助けられるために必要だったのは現金に他ならない。

ふたりの馬黒人は、私に対して惜しげもなく現金を出してくれた。その見返りとしては、ある程度は私の方が対処しやすい条件を用意してくれた。

これから話すのは、このふたりの馬国人に日本人起業家だった私が金銭的にも人間的にも助けられた話である。

ひとりめはリュウ(仮名)という40歳前半の自営業家族の御曹司だった。彼の親は、様々な建設工事に使う外国製の工具類(ありとあらゆる種類)を輸入して、馬国内で手広く販売する有名な問屋の経営をして成功していた。生まれてこのかた金に困ることは無かったに違いない。

彼が私の会社に興味を持ったのは、馬国に無い「何か」を持っているに違いない日本人が個人で起業しているという「ポータル」なコンタクトポイントに魅力を感じたからだ。日本には強い興味があり、過去に一度日本の土木系工事会社の代理店を担当したらしいが、何かの理由で頓挫してしまっていたようだ。

彼の家族は何世代も前に中国から移民として馬国に入ってきた集団の一部であったようだが、主な言語か広東語である以外に、流暢に北京語も話す中流家族で、当時の与党連合であるバリサンナショナルに組する華人連盟 (MCA) の政治的な集まりにも参加する善良な市民であったようだ。

彼は両親が営む事業とは別に自分で管理できる資産の運用を許されていて、私のような脱サラ組の貧乏な日本人の資産とは桁が違ったようだ。日本の技術やある程度の規模の企業活動に通用するビジネスのノウハウに触れることができるなら、不幸な日本人家族に毎月の生活費を報酬として与えることは容易だった。

リュウとの遭遇

もちろん、何らかの契約書を建てるわけでもなく、毎月の私の活動内容は逐一聞き出して、自分が計画するビジネスの参考になる情報を引き出すことには余念がなく、ありとあらゆる仕事のチャンスや失敗の話を不規則な定例会ぎのように繰り返すような付き合いになった。

協業社でもなく、雇用でもない。コンサル契約でもなく、賃貸でもない。単なる知り合いなのだが、その実、私からの情報料として毎月1万リンギ(当時の換算で約30万円)払ってくれていたし、執務場所やパソコンまで提供してくれた。

彼の事務所には、彼自身の執務室と、私に無償で貸してくてていた執務室(誰が出入りしても良い場所)があり中央には大部屋があって、そこに私の会社の経理担当のリンが座ることになった。

この奇妙な関係は、2003年後半に私が住宅省の環境プロジェクトから離脱した頃に始まり、10ヶ月程度は続いていたが、その後リュウが突然活発な仏教活動に専心し始めると同時に、私の方が彼から離れていくことになった。

出典:John Mathew Smith @Flickr Some Rights Reserved

私が彼から離れた理由は第一に、何ら収益に繋がる貢献を出来なかった私が毎月のように1万リンギの報酬を手にすることに、少なからず違和感を抱いた結果でもあり、第二に、リュウ自身が、何かの事業でしっかりと儲けているという様子が無く、リュウの兄にあたる工具の問屋の役員が、リュウが私を養うために会社の車を売っているのは「けしからん」と言い始めたからだ。

一方リュウの方は、遂にチベットのダライラマに帰依すると良い初めて、実際にチベットまでダライラマを訪ねていくことになった。その後、彼は一切の殺生を禁じられて、他人を助けるために生きることを旨とするようになった。

今振り返ると、このリュウと私が一緒に仕事のような、そうでないような時間を過ごした一年弱の歳月は、いかにも不思議なものだった。日本に復帰した頃、私は何度も彼にコンタクトして、「工面してくれた金を返したい」と申し出たのだが、彼は、「渡した金は全て自分の心のままに渡した」のだから、一切の返金義務はないという。今でも頑なに返礼を受け取らない。

何の根拠も証拠も無いのだが、あの時のリュウの存在は、ダライラマの分身なのではないか?と思うことがある。地獄に仏とはこのことだ。

次回はもうひとりの助けびとの話をする。

つづく

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