企業臨死体験 馬国編 02

馬国

筆者の個人起業と馬国体験を詳しく紹介する記事を連載しています。企業人としての自分が一度死んで、また生き返ったお話です。

イスラム国の別の顔

私が企業の準幹部職としてクアラルンプールやマラッカの事業拠点に常駐していた3年間(西暦1996年春から〜1999年3月)、良い意味でも悪い意味でも馬国(マレーシア)の知り合いが増えていきました。日本人好きの彼らは、実に多くの虚言を吐いてくれたもので、私と家族は勘違いしてすっかり舞い上がっていました。

イスラム国家の道徳心は名ばかりで、金さえあれば「どんなことでも可能」だという中小の業社連中。「あなたの知見と英語力なら」数年で百万ドル単位のビジネスを動かせるなどといった似非(えせ)コンサルの話はしょっちゅう聞かされたものです。もちろん全部「虚言」だった。

馬国外の人間が単独でクアラルンプールに拠点を持って、荒稼ぎしているといったような噂も時折耳にしたものである。

当時39歳で企業舎弟でしかなかった私は、雇用者が提供する福利厚生の恩恵を受けて、ある程度立派なコンドミニアムに住み、外人向けの巨大なモールで買い物はしていたが、昼夜を問わず多忙で、休日もゆっくり休めず、仕事はトラブル続きで上司の「パワハラ発言」と客先からの容赦ないクレイムが飛んでくる環境に辟易していた。18年前には世界一だった日本の国際競争力も地に落ちた。

馬国は「住みやすい」と悟っていた当時、「ここに住んで自分独自の事業をしたい」と思わない方がおかしいのだった。

違法と合法の境界線が見えない国。公平と不公平が渾然一体となったビジネス環境。当時の私の内面にあった怪しい思いを今でも思い出す。

個人ビジネスの洗礼

1999年の秋に企業を退職した私は、クアラルンプール(KL)に短期出張して、マラッカに本社を構える某製造業の副社長と待ち合わせていた。

彼は弁護士の資格のあるマラッカの Baba (華人とマレー人の混血部族)出身で年の頃は40歳前後だった。この会社の社長である Lee(Lee Teng Leon:仮名)とは、馬国万人のビジネスの王座にあるペトロナス社の関連事業で取引相手だったうちの一人だった。退職前の私は企業側の代表、彼は馬国有数の機械メーカーのオーナーという関係である。

彼は、日本人である私をビジネスパートナーとして利用するアイデアを持っていた。そのアイデアによると、私の役割は営業担当の役員(ダイレクター)であるが、株主でもある。提案のあった契約内容は立派な英文の書類で、確かに弁護士が扱う類の書類であり、しっかりしていた。

プライドの高い日本人を雇うことはせず、泳がせてフリーのコンサルとして使うのでもなく、共同でリスクを請け負わせるジョイント・ベンチャーである。投資もさせて逃げないように首輪もつけておいて、抜け駆けを許さない典型的な欧米スタイルの協業アイデアだった。お互いの投資金額は同等だが、私にとっては大金、彼にとっては「遊び金」だ。

1999年の9月。私は、退職すると同時に、馬国全土に連絡のある七人の事業者に信書を送っていた。手紙の内容は、私の退職の事実、そして相手との取引の提案であった。取引と言っても何ら具体的な提案ではなく、「何かいい話があれば取引しよう」といった程度のものだった。今思えば笑止千万、「下手な考え休むに似たり」の素人戦略だった。

私個人のビジネスの提案といっても、馬国に無い特殊な技術的知見もなければ、日本側の企業との提携や投資案件があるわけではない。私本人が馬国に移住するので、必要なら時間単価のコンサルで使わないか?といった手前勝手な期待があった。

後から分かったことだが、私が企業を「辞めた」という前提の、この手紙を受け取った事業者の反応は次のとおりだ。」

  • 既に日本の企業人ではなくなり、個人になった私の申し出に何の興味もないので、手紙はゴミ箱にポイ。返事も無し。(7社中5社)
  • 企業を辞めた私の挙動に驚き、その真偽を確かめたいので、一度合うだけは会おうといった返事をくれた事業者(7社中1社)
  • コンサルではなく、前述のジョイントベンチャーで起業することを持ちかけてきた事業者。非常に奇抜なアイデアを次々に出して事業を急速に発展させた事業者だ。後に、この組織は海外企業を次々と買収して巨大化した。手回しが早く、返信の手紙には契約書が同封されていた。(7社中1社)

もう四半世紀も前の話である。返事をくれなかった5社については社名も人名も覚えていない。合うだけの返事をくれた事業者は、中国の客家を祖先に持つ天才商人だった。

返事をくれた2名2社と私は、全く分野の違う事業者で競合関係もなかったが、私はその後彼らと20年に渡る数奇な関わりを持つことになる。

この時はまだはっきりとはわからなかったが、やがてこの2名(2社)は馬国の中小企業の業界では指折りの成功者となっていく。

他人の会社を譲り受ける

同年10月。クアラルンプールに自費出張した私は、客家出身の商人と型通りの面談を終えると、いよいよマラッカの製造業の副社長との交渉に入った。

交渉はうまくまとまらず、結局ジョイントベンチャーは取りやめになった。

7名の事業者へのアプローチは何ら進展しなかった。

唯一、マラッカの会社が自社の傘下で休眠会社となっていた株式会社を無償で引き渡してくれた。このことで、私の会社登記は、ややこしい設立作業を省いて、単に社名だけを変更するだけですぐに営業活動を開始できた。

当時の馬国では、零細企業の会社の「売り買い」は自由。その取引も、自転車の売り買いに等しい簡単なものだった。

会社登記の手続きは有力コンサルではなく、街中の secretary company を使った。こんな街中に事務所があるような会社だ。

当然、会社の所有者は入れ替えなければならないので、そのあたりの手続きを secretary company に依頼する。私の場合は、所属していた企業の馬国法人から紹介を受けた、華人の secretary company を紹介してもらったので、彼らに手続きを任せた。

Secretary company というのは、日本の司法書士事務所と同じである。Secretary は英国統治時代からライセンス制で管理されており、違法行為は摘発されて罰せられるので、至って真面目な組織だが、その反面、毎年更新される馬国税法にはロボットのように従順で、営業している我々が泣こうが喚こうがルール通りに手続きが進んでしまう。

今思えば、製造業の社長との交渉が決裂したのだから、自分の会社ぐらいはゼロから登記手続きをすべきだった。

会社を登記する作業は、それほど難しいものではない。今思えば、人の会社を譲り受けて営業するというのは、人が使った中古車を使うようなもので、譲り受けた時にわからなかった不具合が後から出てくるリスクが無いとは言えない。

実は、馬国では一度会社を登記すると、それを解消するのは非常に面倒であり、ほとんどの経営者は、別の人間に売り渡すことを考える。

休眠会社にしておいても、毎年の税務申告のために書類を建てなければならないので、そのために secretary company に結構な金を払って確定申告を終わらせなければならない。こんな不経済な話はないのだ。

件のマラッカの会社は、使う予定の無い休眠会社を私に譲渡して厄介払いをしたのだった。

企業を退職して、はや2ヶ月弱。馬国に持ち込んだ預金を消費しているだけで、まだ1リンギットも収益を確保できていなかった。

つづく

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