企業臨死体験 馬国編14

修行体験

アイキャッチ画像と文書中の画像は全てイメージ素材です。砂漠に建設中のプラント設備の図は実在する設備とは異なるイメージ画像です。image by ImageFX with all rights reserved.

前回までの話題は、筆者と客家の末裔であるビンセント氏との取引であった。

結論から言えば、あらゆる面で多くを学んだ数年間だった。ビンセントは、決して私を裏切らなかったし、それは日本の顧客に対しても同じだった。

ある意味では、私の存在は顧客である日本企業の代理人的なものであったから、私に対して人の道を外れる動きがあれば、そのことが微妙に客先に伝わってしまうことになる。そのことは彼と私の間では暗黙の了解となった。

今思えば、日本の経済力・購買力、そしてビジネスマナーが世界有数であったことが私という日本人の端くれが馬国(マレーシア)で生き延びるための最大の武器だったのだと思う。そのことについて私は天に感謝しなければならない。

もし、私が民度の低い第三国の人間であったなら、とっくに力尽きて故郷に帰っていただろう。日本人集団の地道な努力と誠意は恐るべき国力なのだ。

必然としての日本支店

ビンセントの会社での毎日が始まって2年もしない間に、彼の会社の日本店の開設のアイデアが浮上した。仕事とはいえ、何度も国際線で日本に飛んで商談するのはコスト高であるし、2004年から2006年の日本の景気は比較的堅調だったから、パワーケーブルや産業用電子機器の引き合いは後を絶たない状態だった。

私を含む社員が寝泊まりできる営業拠点を日本に設ければ、費用対効果は計り知れなかった。それを管理できる最適な人間は私だった。

長い話を短くして紹介する。この日本支店は、神奈川県の横浜市内の賃貸マンションを利用することで容易に開設できた。私一人だけでなく、出張してきた人員が高価な日本のビジネスホテルでなく、このマンションに滞在することで営業費用が削減できた。

支店だから経費だけの管理で利益計算はなかったが、それでも、支店を置くことの合理性と利益は日本の国営局の査定を受けることになった。私は何度か所轄の税務署から呼ばれてビンセントの会社の説明をしたのだが、結論から言えば、適正な計算方法で、この支店が貢献した企業利益を申告することになった。

ビンセントの知り合いのコンサルの繋がりから日本の税理士も雇って、全く公正な税務管理を果たした。この部分でつまらない脱税騒ぎを起こせば、日本国内に少なくても5社はある大口顧客の信頼を失ってしまう。課税額を捻り出して税務を果たすことはけして損ではなかった。

支店が始まって1年もすれば常駐のアシスタントが必要になる。そこで通いのアシスタントを雇うまでになっていた。

経済が人の生き方を左右するとき

この話の冒頭で、私と私の家族は日本での経済生活を捨てて馬国に移住することを目的としてきたことを説明した。

しかし、気が付けば、私は神奈川県に戻り、その地で日本企業を相手に次々と商談をこなしていた。 家族は馬国に残り、息子は現地の大学生になっていた。家族とは完全に別居していた。

日本企業の関係者との意思疎通は容易であり、むしろ、日本企業の社員として厳しい上司に縛られ、圧力を感じながら就業するよりも気分的には楽だった。私は日々、顧客企業の担当者と商談や懇談を重ね、ほぼ無制限の交際費を使って、日本人同士の社交的な時間を過ごしていた。

ビンセント社長とも、顧客の担当者の皆さんともうまく付き合って、仕事も淳風万歩だった  image by ImageFX

日本に支店を持ったことが大きなアピールとなり、ビンセントが課題としていた難攻不落の企業からも仕事が入るようになった。つまり、私の以前の雇用主であった企業から、ようやく念願の資材発注を請け負うことができたのである。

そうこうするうちに、私の古巣であった企業の幹部から「復職しないか?」という声がかかるようになる。

当時、私の古巣では中東向けの大型プラント案件を受注しており、一時的な人材不足に陥っていた。プラント建設の業務経験者を短期間で集めるのは大変難しい。安易に経験不足の人間を雇えば、大きなトラブルになりかねない業種である。

そこで、過去に会社をでていった人間には片っ端から声をかけるよう、上層部から司令が出ていた。特に、同業他社や大手の有名企業の傘下に移動していないフリーランスの40歳代後半の経験者(元社員)には注目が集まっていた。

経済環境というのは、時として人の運命や生きざまに圧倒的な影響を及ぼすものだ。私が古巣の企業に建設資材を売りに出かけていた時期に、大きな景気のうねりがプラント業界に被さってきていた。そして、私にも「交渉テーブルのそちら側ではなくこちら側に来ないか?」という話になった。

環境が常識を覆す

馬国でも有数の商才であるビンセントに鍛えられた私は、自分の古巣からの「復職」の誘いには安易に反応しなかった。

結局は派遣社員のエイジェントに紹介されて、社員より低い報酬で使いまわされるに違いない。ビンセントの企業も小さいながら数十億円規模の売り上げを誇る立派な商社である。将来的には報酬も上がっていくだろうし、何よりも複数の日本企業の優秀な人々との交流は当時の私にとっては魅力ある環境だった。

派遣社員は選択肢には無かった。

ところが、事態は私の予想を覆す様相となった。件の古巣の企業の人材不足、特に管理職不足は企業の存続にも影響する重大な問題となっていた。

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当時この企業が受注していたのは、中東と米国の最大手企業が共同開発する世界最大のLNG(液化天然ガス)プラントだった。建設するプラントの規模も、受注金額も、この会社の過去の実績を塗り替えるものであり、文字通り創業以来の好景気のまっただ中にあったのだ。受注したプラント建設が失敗すれば、それこそ会社の息の根が止まるような状態だった。

19年前、私が提示された『復職』の条件は、私の予想とは全く異なっていた。それは、派遣社員ではなく、完全な正社員としての復職であり、しかも、私自身が会社を辞めた1999年から復職した2006年までの期間、社内に存在していたキャリア組の処遇と全く同じ処遇で再スタートする。したがって、昇進や処遇のランクも私の同期と全く同じ土俵であり、給与や賞与の条件も全く変わらないというものだった。

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このような復職条件が日本の企業に存在するものなのか、今だに半信半疑である。常識的には、過去に自己都合で一度退職した人間を、あたかも退職しなかったような処遇で採用するというようなことは出来ない。

事実、既に受け取った退職金だけは、記録を消すわけにはいかず、退職金の計算は、中途採用と同様、復職した年を1年目とする条件だった。この辺りは、流石に常識的な意味で高望みできる交渉にはならない。さもなくば、その企業は、もう日本の大手企業ではない。

復職

私は、古巣の企業の経営者の条件を受け、ビンセントに辞表を出した。私の両親も家族も、この復職のアイデアについては両手を挙げて賛同した。

ビンセントは一時的には激怒していたが、私が受けた条件を聞いて同じ処遇が出来ないことを悟ると、さらっとあきらめると同時位に「何としても交代の日本人幹部を決めよう」という喫緊の課題に取り組み始めた。

日本で雇ったばかりの通いのアシスタントは、私の退職と企業への復帰は「確信犯」であり「計画的な詐欺行為だ」と泣いて抗議したようだ。それでも、ビンセントは、きちんとアシスタントを宥めてその場を収めた。

ビンセントは普通の商人ではない。高いプライドを持ち、冷静であったため、私という日本人の同胞が一人いなくなったくらいで慌てることはなかった。言ってみれば、それだけのことなのだし、私自身も、雇われた当時のままの給与額で契約文書もない口約束で何億円もの商談をサポート出来ていたのだ。費用対効果は充分にあったと判断したのだろう。

ビンセントにとって想定外だったことは、難攻不落だった日本企業との海外の大型プラント設備むけの資材の取引を実現できた瞬間に、活用していた自社の日本人幹部がその企業に好条件で就職してしまったことだった。

こうして、2006年の6月、私は、家族を馬国に置いたまま、古巣の日本企業に復職した。

つづく

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