【実録:馬国で育つ】クアラルンプールの小学生(Primary)

子育て録

この投稿は、本編(馬国で育って医師になる)の詳細記事です。

私たち家族が初めて馬国に渡航したのは、1996年の春ごろでした。

筆者も家内も30歳代で、長男は8歳

家族は日本の企業から馬国に出向(企業が管理する現地法人に短期移籍)した状態でしたから、

馬国は私たちにとって右も左もわからない完全な「外国」でした。

しかし、この頃から「日本の一般的な考え」から「はみ出す」傾向がある筆者家族・・・

■ 馬国滞在時の住居は自分で決める
■ 子供は日本人学校に入れない

という考えを持っていましたので、

会社が借り上げた現地の社宅には入らず、一般のコンドミニアムに住み、子供はインターに入学させました。

当然ながら、会社の仲間からは違和感をもたれてしまいます。

幸運にも、

所属していた会社が、どちらかというと破天荒な人の集まりで、日本企業には馴染まないタイプの社員ばかりでしたから、完全に村八分になることはありませんでした。

クアラルンプールの日本人会には、ありとあらゆる境遇の日本人が集まっていましたから、めちゃめちゃお世話になりました。

「学住」接近を優先

私たちが選んだコンドミニアム(日本でいうアパートとマンションの間をとった賃貸物件)は、当時建設中であったペトロナス・ツインタワーから歩いて5分程度、

クアラルンプール(KL)中心部の北を東西に走るトゥン・ラザック通り( Jalan Tun Razak )にある

タブン・ハジ( Tabun Haji )に隣接した、古い建物。(写真の黄色い矢印の小さなブロック)

コンドミニアムの前を走る幹線道路が Tun Razak通り。道路沿いに右手前から2番目のワイングラスのようなビルが Tabun Haji

外国人向けのコンドミニアムとしては、馬国でも最も古いものだそうです。

この場所から車で30分以上も離れた「日本人学校」に8歳の長男を通わせるというアイデアは全く無く、

コンドミニアムに最も近い学校を選びました。上の写真に向かって左方向。車で10分のあたりにある学校です。

27年ぶりに同校のウェブサイトを見ると、とても立派になっていてびっくりです。

セイフォル校の印象

2023年8月現在の Safol International School の小学生レベルの学費は次のとおり

8歳からの入学の場合は Primary Year4 にあたるので、

■1年毎に約20,000RM(60万円)
■入学時の保証金(Deposit) 6,500から7,000RM (20万円)

2023年8月時点の授業料のウェブページはこちら 今後も変動します。

長男が通い始めた頃も、今もそうですが、KLに数あるIS校のうち、もっとも学費がかからない学校です。

何度かこの学校を訪問して校舎にお邪魔したり、授業参観をしましたが、筆者個人の印象は、

コンクリートで囲まれた都市部の「施設的」学校というよりは土の匂いのする、広い校庭がある少し古めの学校

でした。

教師はみな人当りが良く、学校側と衝突するようなことは何も無かったと思います。

強いて言えば、欧米の子供がなんとなく居ないな・・・という印象ですが。

3年間の就学体験を通して、親としても、ネガティブな印象は残っていません。

尚、私たち夫婦は日本の大手企業のメンバーでしたから、企業から学費と住居費の補助を受けていましたから、場合によってはもっと学費の高い学校を選んでも良かったのかもしれません。

当時の私たち夫婦の考えでは、「直ぐ近くにあるIS校」が絶対条件だったので、迷いは無かったわけです。

もちろん、この時点の学校の選択は、長男哲男が医師になれたこととの直接の関係はありません。

英語だけの授業環境

当時8歳の長男は日本の保育園や小学校で型通りのアルファベットは学習していました。

日本のテレビではセサミ・ストリートが全盛期の時代でしたが、日常英語を流暢に話すなどということは出来ません。

ですからインター校での最初の数週間は、本人にとって相当苦しい毎日でした。

最初の数日は、言葉が通じない、授業で何をいっているのかわからないということで帰宅した長男は難儀を訴えていましたが

家内は学校にいる数人の日本人の子供との(日本語での)交流には大反対で、長男が泣きながら頼んでも、「日本人だけではなく外国のお友達と会話しなさい」と厳しく命令していたのです。

考えてみれば、本人が苦しいのが学校にいる時間だけであり、家に帰れば日本人の両親が居るのですから、「24時間英語漬け」ではないのです。

筆者は、長男が英語だけの学校でメンタル的に折れてしまうことを心配したのですが、これは全くの考えすぎでした。

日本人である長男にとって最初の数週間は地獄、そこを抜けて大きく世界が開けた。

セイフォルにも、英語を話せない生徒のための語学プログラムがありましたし、馬国の社会は日本人に対して非常に親切に接するような気風がありましたから、私たち家族も馴染めたのです。

半年もしないうちに、長男は喜んでセイフォルに通うようになりました。

出向期間の終了と帰国

家族のKL滞在は1996年春から1998年までの3年間でした。

そして、1999年の3月、長男が11歳のころ、家族は日本に帰国。

筆者の家族は、馬国での仕事、通学、衣食住の全てに圧倒的な好印象を持っていました。

思い返せば・・・

ペトロナス・タワーが目の前で立ち上がっていくのは壮観でした。

住居を出て5分で入れる KLCC のショッピングセンターに毎週末に出かけられて非常に充実していました。

KLCC前の公園も広くて混雑しておらず、快適な場所でした。

コンドミニアムの中庭では、365日、常に整備されたプールで何時でも泳いだり日光浴を楽しめました。

中庭にある共用のプールは住人全員の社交場であり、リラックスできました。プールサイドには小さなレストランが在り、昼食と夕食を取ることもできました。この写真は筆者が撮影したものです。

「何とかして、また馬国に住みたい!」という強い願望を持ちながら日本に帰ったのです。

確かに、

企業の手厚いサポートがあって馬国に数年間滞在できるということは、どの日本の家族にとっても「忘れえぬ経験」になります。

そして、長男は、まだ「医者になる」という考えを持っていない、ごく一般的な子供でした。

この後、私たち家族は、予想もしない大きな変化に晒され、奇想天外で危うい20年間に突入していくことになります。

一読していただき、誠にありがとうございます。

では、また次の記事で・・・

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