この記事は「がちで起業した話」の詳細投稿(ぶら下がり記事)です。
日本人が馬国人と共同出資して会社を設立することは容易です。
現地の人間と意気投合して会社を登記するような話はいくらでもありました。ただし、相手は選ばないとろくなことになりません。
この記事では、筆者と若い華僑との協業経験を紹介します。現地の人間との協業としてはこれは最も中身のある取り組みでした。
2000年から2004年までの話です。
建設資材の販売店は儲かる
話は1997年~1998年に遡ります。
筆者が所属する企業が馬国の某工業地域で取り組んでいた石油精製所の建設プロジェクトが最盛期にさしかかっていました。
建設工事ではあらゆる工具・器具・資材が必要ですが、全てを海外から調達するのは非効率ですから、現地にあるものはできるだけ現地調達します。
馬国は暮らしやすい国ですから、あらゆる国のあらゆるブランドの工具・器具・汎用部品・建設資材のメーカー・商社が拠点を構えています。よほど特殊なものでない限り建設工事に使うハードウエアの類はすべて現地で購入できます。
筆者の仕事の一部はこの工具や資材の現地調達でしたので、いくつもの供給業者と連絡がありました。
その中にひときわよく働くレイモンド(仮名)という若者がいました。彼に頼めば、すぐに必要なハードウエアが建設現場に届きましたから、それだけ彼のハードウエア・ショップからの購入品は多くなりました。
レイモンドが雇われていた現地会社のオーナーは老齢の華僑で、ガレージを改造した店舗にあらゆるハードウエアを揃えて我々をサポートしてくれました。「自営業」です。
筆者が参加した製油所が完成するまでの売り上げは少なくとも500万RMに達していたと記憶しています。自営業としては大躍進です
アイデアに動かされて投資
製油所の建設工事が終了する頃には筆者は企業から飛び出してクアラルンプルの町で個人事業を始めていました。
そして、レイモンドも個人的な理由でハードウエアショップを辞めて星港(シンガポール)にある建設資材のストッキスト(日本で言う問屋の類)との協業を模索していたのです。
筆者は古巣の企業での経験生かしながら殆ど資本ゼロで資材供給の仕事を始めていましたから、馬国と星港の市場に詳しいレイモンドとの協業は喉から手が出るようなチャンスでした。
レイモンドは星港の資本家(華僑)、筆者、そして本人の3社を共同出資元として建設資材の供給会社を設立するという案を持ってきてくれました。
筆者は資本に乏しかったので、一気に資本投資をするのでなく、毎月1000リンギット(当時の価値で3万円)を積み立てるように投資することとして、筆者はこの新会社の株主権ダイレクター(取締役)になることを合意したのです。
ここまでの商談と協業準備は、小職としても理想的なアレンジに思えたのですが、唯一レイモンドのもとの雇用者である華僑のオーナーからは「そう簡単にはいかないから、気を付けたほうが良い」という苦言をもらっていました。そして彼の心配は的中しました。
需要予測不足と経営不振
筆者が独立開業した1999年は、馬国全体の大規模な公共投資計画の最終段階にあたる年でした。
西暦2000年にはエネルギー分野のインフラ系の大型建設工事は全て終了する段階。
つまり馬国の建設資材の需要は1996年から1999年までがピークであり、其の後は供給過剰となり、次の公共投資が本格化する時期までは、建設資材の市場は冷え込むタイミングだったのです。
筆者もレイモンドもこの事実を軽視していました。
事実、1990年代後半には活況であったマレー半島の産業プラントの建設は全て完了しており、建設資材の市況は水をうったように静かになってしまっていました。
唯一例外的に動いてたのはサラワク州で計画されていたLNG関連のプロジェクトだけでした。
同じ馬国とはいえ、サラワクの建設現場は遥か彼方です。起業した会社の体力では出店は出せません。そして、サラワク州は星港からの直接の資材供給が盛んな場所でした。我々が投資したサプライ事業の出る幕ではありませんでした。件(くだん)の星港の問屋も、サラワク州に入っている建設会社との直接取引を選んだはずです。
社長として約3年以上奔走したレイモンドは、2004年中盤には力尽きて当初の事業をあきらめる決断をしました。
そして36か月 x 1000リンギットを積み立てた筆者名義の資本金(およそ100万円)も消えて無くなったのです。
筆者よりも大きな金額を投資した星港の投資家も、レイモンド本人も全く資金回収できずに共同事業は幕を下ろしました。大失敗・・・というより大失態です。
プロの過信
この計画で協業を決めたメンバーは皆大人しく、内部抗争は一度も起きていません。それぞれの得意分野は他と重複せず、役割分担もバランスが取れていました。最小限の倉庫やトラックも有り、経営リソースの準備は万全でした。
何よりレイモンドが働き者であることは関係者全員の無形の資産だったのです。
しかし、この取り組みが3年後には遭えなく廃業に追い込まれてしまいます。。
敗因はただひとつ。
「需要予測の見落とし」でした。
開業のタイミングがまったく市況と合っていなかったということです。
星港の投資家は結局レイモンドの事業を「詐欺行為」として告訴しましたが、彼らもまた出資者なので、損害を回収できたはずはありません。
その後レイモンドがどうなったか?
それを知る術(すべ)はもはやありません。